「先日届いた北欧産の紅茶をお淹れ致しました。……言われたとおり、お饅頭も用意しましたが」
「嗚呼、有難う」
悩んでいた顔を明るめて、鴎外がニコリと笑った。紅茶に饅頭、と言われると少し異色な組み合わせであるような気もするが佐登は流石に見慣れてきた。まだ、古典様式のカップに紅茶は注がれておらず、鴎外は別皿に飾り付けられていた饅頭をおもむろに掴むと、カップの中に入れ、そこへ紅茶をためらいもなく注いだ。どことなく、楽しそうな顔をしている鴎外を見て、佐登はゆっくりと目をそらした。
「佐登くんもどうかな?」
「――……私は、紅茶だけ頂きます」
鴎外の対面のソファーを勧められて、佐登は腰掛けた。仕事の合間にお茶をするのにも大分慣れてきたし、鴎外のこの甘党にも慣れてきた。慣れるしかなかったとも言えるが、佐登は何も言わず、紅茶に砂糖を一つだけ入れて口をつけた。
誘拐された後からあまりにも夜遅くなるようなら秘書室に泊まるようにと言いつけられるようになった。確かに本部は安全だ、秘書室付近は解錠番号がわからないものには立ち入れないようになっている。だが、佐登は少なからず恐怖心を感じるのだ。見えない鳥かごの中に押し込められているような――そんな。
先日、異能力の実験中に倒れた、らしい。らしい、というのは未来予測した後の記憶があまりないからだ。与えられた情報を整理して、こうなるかもしれないという漠然とした映像を感じ取った後からのことが思い出せない。首領からは異能力が偶発的に発動した場合は仕方ないとして、意図的に、遠い未来のことを長時間見ようとすることは禁止された。それが必要なときには、首領から直接指示をすると言われたばかりだった。
「そういえば」
鴎外の声で、佐登は過去から意識を戻してきた。鴎外の声にあっという間に戻ってくるのは仕えるものとしての矜持なのか、心臓の高鳴り故なのか佐登には区別がつかないが――どうしても鴎外の声は耳につく。はっきりと聞こえてしまう声につい目を伏せたくなるが、佐登は何とかこらえた。
「佐登くん、舞踏の経験はあるかな?」鴎外はニコリと笑う。
佐登はキョトンと目を瞬かせた後、言われている意味を整理しようと頭をいつもよりもずっと回した。しかし、正しい答えをうまく導き出せなかったため、素直に「教習程度は」と答えた。実際、秘書科の大学に通っている間に教習程度に舞踏の経験をさせられた。秘書といっても、社長が行くところについていくことも多く、適度にそういった教養も求められるのだ。だからといって佐登はそれ以降そういう機会もなかったので再び練習しなくては人前で踊れるほどではないだろう。
「舞踏が必要なパーティーなのですか?」
先程鴎外が眺めていた手紙は招待状だ。そこで、舞踏の話が出るということはそういうことなのだろうが、幾らついていく秘書とはいえうまく回避すれば踊らなくて済むはずだが、と頭の中でとんでもないことを考えていると、鴎外は相変わらず何を考えているか見えづらい柔和な笑みを浮かべるばかりだ。
「うん。だって、私の恋人役をしてもらおうと思うからね」
沈黙。
そう言えば、こんな風に聞き違いのような物を起こしたことが最初にもなかっただろうか。佐登は思い返しながら、驚くわけでもなければ、叫ぶわけでもなく、ただ目を瞬かせるばかりで、鴎外を見つめる。あの誘拐事件以降、新しくできたコンタクトレンズを着けているおかげで、眼鏡の心配をしなくていい。嗚呼、そう言えば、今日はこれから重要書類の決済が――。取り留めのない事で頭を一杯にして置かなければ、佐登は今にも叫びだしそうな気分だった。そんな佐登の心情を知ってか知らずか、鴎外は意外そうに目を見開いた。「おや。」少し退屈そうな声だ。
「もっと驚いて叫んでくれるかと思ったのに」
叫びたいです、本当は。
佐登はどう答えてよいかわからず、ただ、そのまま固まっているだけだ。ある意味動作停止してしまっていて、何も思考がまとまらなくなってきた。佐登は改めて思う。――今、この人は何を言っただろうか。
「秘書、としてついていくのですか?」
「ううん」鴎外は首を横に振った。「私の恋人として」
「待ってください」
流石にこれ以上、思考停止している場合ではなかった。時として秘書は社長(この場合は首領)の蛮行を止めるという重大な役割が課されているのだ。自分の聞き間違いで流そうとしてはならない事案であると佐登は気づくと、幾らこのポートマフィア内で彼の言葉が絶対であろうとも、意見しなければと意を決した。
「首領、パーティーに参加されるのは承知致しました、招待状を確認した上で日時を照らし合わせて車や護衛等の手配をさせて頂きます」
仕事であるという側面を強調するように佐登は強く言った。予定手帳を開いて日程的に無理がないように仕事の組み直しが必要となるが此れももう何時ものことだ。流石に半年も此処で働いていれば、この程度の予定変更は大したことはない。幸いにして最近では大手の会食も無いため、無理なく予定を組み直せそうだと佐登は安堵した。安堵したのと、この問題は別問題であるが。
「恋人役が必要であれば、構成員から出せば宜しいではありませんか。――中原幹部に女装させるとか」
きっと、本人に聞かれていれば自分の命はなかっただろうという選択肢であったが佐登は提示した。彼なら、首領の命令とあれば喜んで、とは行かなくともやってくれるはずだ。自分が恋人役として傍にいるよりもずっと効率的だと思うのだが。
(だって、私は、自分の異能すら碌に使いこなせない、銃も使えない、そんな足手まといだ)
佐登の表情が一瞬暗くなる。傍にいても何もできないくらいなら、傍にいないほうがいい。此処の中ならば、秘書として鴎外の手助けができる。だが外に出て、何かの危機にさらされた時、自分は、自分の身すら守ることができない。膝の上に乗せていた手に、自然と力が入った。
「首領には首領のお考えがあってのこととは思いますが……私に首領の恋人役は荷が重すぎます。今ですら、首領にご迷惑を……かけているのに」
自分で言っていて此れほど悔しいことが有るだろうか。鴎外が求めている自分に、自分がたどり着けていないことがこんなにも悔しくて、もどかしい。穏やかに笑って許してくれる鴎外に申し訳が立たなくて。佐登は鴎外を見上げた。
「それは自分が異能力を使いこなせず、銃も碌に扱えないままだからかな?」
鴎外自身に言葉にされると、ずしりと心に伸し掛かってきた。分かっている、分かっていたことだ。自分は自分にできることをしよう。そうなら無くてはならない。
「――はい」声は酷く冷たく、淡々としていて、自分の声とは思えないほどだった。それくらい、佐登はこの返事を絞り出すのに全神経を使ったに違いない。鴎外は佐登の表情の強張りを見逃さなかった。面白いくらいに顔に出る子だ、と思いながら蒼白に近いその手にそっと自分の手を重ねた。
「寧ろ、その方が都合がいいのだとしたら?」
緩やかに撫でるように動く手に佐登は心臓が強く高鳴った。きゅ、と唇を噛みしめる。顔は上げられそうになかったのだ。鴎外はそんな佐登の様子を知りながら、耳元で話すように口を近づけた。
「中也くんに女装させるのも――まあ、悪くはない。紅葉くんは無理だろう。裏社会では顔も名前も知られすぎている。それに此れが一度きりのこととは限らないのだよ」
――わかるかい? そう聞かれ、佐登はかろうじて頷いた。恋人役に下手な人選ができない、という首領の話はわからないわけではない。ポートマフィアの構成員に女性がいないわけではないが、そういう人物たちは須らく顔が知られているのだ。裏社会に通じていればいるほど、その傾向は顕著にある。では、それらの人物が知らず、更にはうまくポートマフィア内部の人間も誤魔化せるような、そういう人選を首領が求めているのが解った。
「解るだろう? 佐登くんは適任だ。常に私の傍にいることができて、もし、恋人になったとしても内部の人間が怪しまない。……私が趣味を変えた、その程度の認識だろう」
あれだけ熱烈な幼女趣味が簡単に変わるとは思えないが、と言いたくなって佐登は何とかこらえた。水を指すのが憚れたからだ。何より、首領が近いせいで、心臓がうるさく、血が沸騰しそうで、異様なほどに喉が渇く。喉が乾きすぎて、声が出せる気がしなかった。
「……しかし、」
「君の未来予測は原則として、君が危機と感じる時でなくてはならないだろう? ならば、私の傍にいたほうがいい」
そのとおりである。佐登は最早反論する言葉すら失っていた。そもそも、この人に口で対抗しようと思ったのが完全に間違いだったのだ。命令は絶対、この部屋に二人きりしかいないとしても守られるべきそれに忠実にならなければならなかった。
「……首領、その」
「うん?」
「……ち、近いです……っ」
耐えきれなくなって、佐登は漸く自分と鴎外の間に手を滑り込ませた。その胸元を力なく押してみるが鴎外はなかなか下がってくれそうにない。心臓がもう、爆発する。できうるなら離れてほしい、と思って訴えかけるように鴎外を見てみるが、彼は楽しげに笑みを深めるばかりだ。その綺麗な笑みにすら、顔が死ぬほど熱くなってしまい、佐登は顔をそらそうとしたが、鴎外に顎を捕らえられ、強制的に鴎外の方へと向かされる。
「首領、は厭だなぁ」
「へ……?」
「ポートマフィアの幹部すら騙すつもりじゃないと、相手は騙されてくれないよ? だから、二人きりのときから練習しなくちゃ」
からかっているのか、それとも。佐登には鴎外の考えなど、どこまでいっても想像できないものだ。ただただ、翻弄されて流されるだけ。
「ほら、言ってご覧?」耳をくすぐる、鴎外の低い声に目を閉じたくなる。「――鴎外さんって。」
「お、………鴎外、さん……」
満面の笑みを浮かべた鴎外が、よくできました、と佐登の額に口づけを落とす。もう、限界をとっくに超えている。耳も、頬も鼻も熱くて熱くてたまらない。もう、泣きそうだ。手が震えて、紅茶のカップが落ちないかだけが心配になってきたが、佐登の脳と心は完全に噛み合っていない。
(首領、い、いい匂いがする、ふえ、あ、顔、綺麗……)
思考がまとまらなくなり、とりあえず目の前から拾った情報に逐一感激するばかりになっている。「暮?」――止めてください、名前呼びなんて、と言えないまま、慌てて顔をあげると涙が一つ、こぼれた。なんて、情けない。鴎外はそんな、佐登の姿を見て、困ったように笑うと、ゆっくりと手を離した。
「虐め過ぎたね、ごめんね」
そう悪戯っ子のように笑う鴎外にすら、心臓がうるさいのだから、本当に恋心はままならない。
(たとえ、契約の恋人であっても構わないなんて)
――重症だ。