いつまでたってもあの日のままで
(ここは、どこだっただろう)
体を起こそうと力を入れてみるものの、何か重たいものが体の上に乗っている……というよりも自分を抱きしめているのが分かった。慣れた肌の感覚と、匂いにその人が誰であるか悟ると、少しばかりほほを赤らめて、そうだ、昨日はともに眠ったのだったと、いまだに寝息を立てる、神聖ブリタニア帝国の第二皇子シュナイゼルの頬へそっと指を当てた。
(ああ、そうだ)
アスナは思い出した。ここは、ロワグランホテル東京。日本が誇る最高級ホテルの最上階特別長期滞在用スイートフロアの寝室である。丁度、昨日の朝に日本へ到着し、入国手続きやら、なんやらと手続きが目白押しであっという間に夜を迎え、夜は夜で、一応は極秘とはいえ、来日した第二皇子シュナイゼル殿下の歓迎会ということで、ロワグランホテルの展望レストランを貸切でロワグランホテルのオーナー筋にあたる、須王家の会長や社長がパーティーを開いてくれた。終わったのが、夜の十時であり、そこから寝るための準備をしてあっという間に日付が変わったのだ。そこからは、考える間もなく寝落ちたはずだ、とアスナは記憶している。
(今、何時だろう)
アスナは目が見えない。いや、厳密には目が見えなくなった。十五歳の冬の事である。十五歳の6月にアスナはとある事故で行方不明となり、今年の六月にブリタニアへ、シュナイゼルの元へと帰り、九月の今、シュナイゼルとともに日本にいる。
日本へ来たのは初めてで、時差もあってからなんとも体内時計が狂っているような気がするのだ。本国にいる間なら、秒単位でアスナが時間を間違えたことなどない。慣れない奇妙な感覚に困っていると、隣の温もりが身悶えした。ううん……としばし唸ったあとゆったりと長い睫毛に覆われた瞳を開いた。
暫く目を瞬いた後に、シュナイゼルはそのロイヤルパープルの美しい瞳を堪らなく愛おしそうに細めて笑う。
「おはよう、アスナ」
アスナは柔らかいその声にうっとりと目を細めた。ああ、大好きな人の声だ。抱きしめられる力が少し強まって、薄い寝間着一枚で直ぐに互いの温もりが肌に伝わって来るから少しくすぐったい。
「おはようございます、殿下」
同じようにアスナもシュナイゼルを抱き返して、胸板に頬を寄せると答えた。するとシュナイゼルがアスナに顔を上げるように促すため、アスナは少しきょとんとしながら顔を上げた。ちゅ、と音を立てて頬に触れた唇の感触にふふと笑った。同じようにちゅ、と唇をシュナイゼルの頬に触れさせてアスナは微笑む。なんて優しい朝だろう。
「今日、学校へ挨拶しに行くんだったんだね」
ベッドの中で、足を絡ませながらシュナイゼルが口にした。何も観光や、外交にために日本に来た訳では無いのだ。二人がここにいるのは留学のため。明日より今日下見にいく学校へ一年ほど通う手筈になっているのだ。
「午後からですね。二時ぐらいに、あちらでMr.須王がお待ちだとか」
「うん、ありがとう」
シュナイゼルがにこりと笑う。ちらりとシュナイゼルが視線をベッド付きのデジタル時計へと向ける。時刻は七時十五分。もう少し寝ていても怒られないと思いたいが、規則正しい生活を愛するアスナはいつもならトレーニングの時間である。予定は午後の二時からとは言っても怠惰な生活は送っていられない。シュナイゼルは名残惜しげにアスナを離す。
「もう起きなくてはね」
少し不貞腐れたような寂しそうな声にアスナはくすりと笑った。周囲からは完璧と称されるこの幼馴染にもこういう可愛らしいところがあるのだ。笑ったことが少し面白くなかったらしいシュナイゼルがわずかにむっとした表情を見せるから、更にアスナは笑ってしまう。
「アスナ」
「ごめんなさい……っ、だって」
あまりにも可愛らしいから。そう言いかけると、シュナイゼルの手がアスナの口をふさいで再びベッドへと押し倒した。ばふ、と柔らかなベッドに沈んで、シュナイゼルが手を離すと、アスナの両の頬を力を入れないようにしてつまむ。
「あはは……っ、殿下、やめ…っ」
「かわいい、なんてどの口が言うのかな? うん?」
シュナイゼルの手は、右手だけ妙に力が入っていない。顔の左側には、痛々しい傷跡がはっきりと残っている。事故から帰ってきたアスナの痛々しい傷跡はシュナイゼルにとっても傷跡だ。アスナはそれに気づいて目を細める。先ほどと打って変わって泣きそうな顔をするシュナイゼルの指がこちらが泣きそうになるくらい優しい手付きで撫でるから、腕を伸ばして首にかじりつくように抱きしめた。
「殿下、」
どっちが泣きそうなのか。どっちが痛いのか、もうよくわからない。アスナに抱きしめられて、シュナイゼルは少しだけ安心したような表情を浮かべると頷いた。わかっている。自分と彼女は別個の存在で無くてはならない。どちらがどちらなのか、わからないくらい溶け合うことは不可能なのだから。
すると、ドアの外がノックされる。
「お二方とも、失礼いたします。朝食の支度が整いました」
連れてきたアスナの使用人の声だ。この留学に伴ってシュナイゼルは母の離宮の使用人たちは連れてこなかった。日本に大量の使用人を入れれば、当然その動きがバレてしまうことはわかっていたからだ。そのかわり、護衛にもなりうる人材としてアスナのシュヘンベルグ家の使用人を厳選して連れてきた。執事を務めるガリオンの声に二人は顔を見合わせて笑った。
アスナの目が見えなくなったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。だが、戦い抜くためにか、それともこのままではならないという自分の意志が働くのか。シュナイゼルの元へ戻ってきたアスナはもう殆ど人の手を必要としていなかった。食事も、移動も、戦いも、自分でこなすことができる。もちろん、服が乱れていないか最終チェックは必要だったし、文字を読んだりのは無理だし、文字を書くのは以前のように整った体裁で書くのは難しかった。点字だって読めるようにするのに、ひたすら勉強したのだろう。見えないことへの不安もアスナは一切口にしなかった。
ガリオンと同じく連れてきた双子のメイドであるリリエルとララエルが形を整えて締めると、もう片方がアスナにこれから通う学校のジャケットを着せた。女子であるが、男子制服を着ることにまったくの抵抗感のないアスナ(軍学校は一応、男女の制服に分かれているものの、女子がスラックスの制服を着たりすることに規制などは設けられておらず、むしろより軍服に近い男子制服を好む女子生徒が多い)は身支度を整えると、リビングで紅茶を飲みながら書類を眺めていたシュナイゼルの元へ戻った。
「おまたせしました、殿下」
「ああ、アスナ、おかえ……り」
「……? なにか?」
シュナイゼルはアスナを凝視する。いや、男子制服もよく似合っているし、アスナの中性的というか女性的というよりも騎士としての凛々しい雰囲気には男子制服が似合うのはよく分かる。わかっている。が。
(女子制服が見たかったのですね)
ガリオンはシュナイゼルの後ろに控えながらこそりと思った。女子制服と男子制服の両方を支度させたのはアスナの父である。おそらく、こっちを選ぶとわかっていて両方用意させたのだから、なかなかにいい性格してる。ガリオンは主人の父の姿を思い浮かべて苦笑する。
「スカート、あったと思ったんだけど」
「あんな動きづらいものは着ません」
ほら。と使用人たちが全員思ったが、意外とシュナイゼルは落胆していた。わかっていたつもりでもあったが、現実として突きつけられると意外とショックなのだ。
(昔はレースとかリボンで飾られたドレスが好きだったのになぁ)
シュナイゼルは過去を思い出して、ため息を付きつつも首を傾げているアスナに対してシュナイゼルはニッコリと笑ってみせた。
「残念だ、君の女子制服姿が見たかったよ」
アスナはぴくり、と反応する。確かに、女子制服に触らせてもらったが可愛らしいデザインだとは思う。色味も聞いてみて、着てみたいなぁと思わないわけではないが――自分は今、ここに護衛のために来ていることを忘れてはならないとアスナは思う。日本にいるから、本国より安全かと言われてそうです、とは答えられないのだから。むしろ、国外のほうがある意味で危険だ。
「今度、私の前だけでも着ておくれ」
時間だからと立ち上がったシュナイゼルがアスナの額にそっとキスを落とす。アスナは少し額を抑えて顔を赤くしながらも後ろからついていく。ホテルでは専用のエレベーターと専用の出入り口を使用することになっているので、スムーズの一階の特別出口にたどり着くことはできる。ガリオンが先回りして車を回してくるとのことで、離れたがリリエル・ララエルがシュナイゼルとアスナの後方に控えている。
アスナは手でシュナイゼルを一度制すると、廊下からわずかにあたりを見回す。見えているわけではないが、気配を感じ取るためにもやはりこうして身を乗り出して集中したほうがいいに決まっている。害意のある気配が無いことを確認すると、アスナはシュナイゼルにニコリと笑いかける。
外へ出ると、すでにガリオンが車を寄せている。それに乗り込むと、リリエル・ララエルはここで一度別れることになる。これから向かう場所は学校であるから、使用人を連れて行くわけには行かないのだ。二人がお辞儀して見送る中、車に乗り込み、アスナは運転手に出発の指示を出す。ガリオンは護衛を兼ねているため、このまま助手席で同行だ。
――桜蘭学院。
一に家柄、二にお金と言われるほどの超金持ち学校であり、有数の高等教育機関である。ブリタニアで言うところの帝立コルチェスター学院に似たところがあるかもしれない。とはいっても桜蘭学院は国立の学校ではないし、パブリックスクールでもない。ブリタニアでは有名な教育機関はどんな人間にも学ぶ機会が国から与えられる。桜蘭学院は世界から有数の名門家系の者たちも多く留学先に選ぶほどの学校ではあるので、神聖ブリタニア帝国第二皇子であるシュナイゼルの留学先として選ばれるのも納得がいく。
アスナはぼんやりと、そんなことを考えながら車の中での時間を過ごしていた。ロワグランホテルから桜蘭学院まで車でおよそ三十分程度。何かするわけでもなく、襲撃が無いかだけ警戒し続けなければならない騎士の性はあるものの、――概ね暇だった。時折、シュナイゼルに話題を振られればそちらへ顔を向けて笑顔で答える。新しい学校にも比較的興味が薄い。
(……どうせ、私の噂は悪い噂ばかりだろうしな)
シュナイゼル以外の人間をどうでもいいと思っているし、自分が当主を引き継いだ事の顛末は正しいことを知っているのはアスナと父親、叔父である皇帝、その側近であるヴァルトシュタイン卿だけである。隣に座っている幼馴染のシュナイゼルですらその話については詳しいとは言えない。ブリタニア本国で最も有力視されている噂は、「異母弟の存在に焦ったアスナが父親から無理やり爵位を簒奪した」というものである。実に根も葉もない噂だが、信じている人間は少なくない。故に、ここ数ヶ月でアスナは貴族社会においてとんでもない腫れ物扱いをされている。
(気にならない、といえば嘘になる)
シュナイゼルの傍にいる人間の評価が低く、それがシュナイゼルの評価へつながってしまってはさすがのアスナもいたたまれない。とても悲しい。自分のせいでシュナイゼルの評価が下がるなどあってはならないのだから――とそれなりに、社交界では愛想を振りまいているつもりだが。ここでもそれなりに愛想を振りまく必要があるだろうか、面倒くさいな、と考えていたら、シュナイゼルが困ったように笑っていた。
「……殿下?」
「君のことだから、きっとうまくやるだろうけれど。顔に出てるから、気をつけたほうがいい」
眉間をぐりぐり、とシュナイゼルの指で押されると、アスナは反射的に目を閉じて頭を後方へと下げてしまった。クスクスと笑うシュナイゼルの声に、少しだけ心臓が早鐘を鳴らしているのが聞こえる。困ったようにシュナイゼルを見上げてみれば、彼は楽しげに笑うばかりだ。
「……あなたの前ですから、表情は作る必要がないでしょう……?」
「ああ、成程。なんてうまい言い回しだろう、不覚にもときめいてしまった」
シュナイゼルは少し大げさに言うと、アスナの額にそっとキスをした。アスナが動揺したようにシュナイゼルへ瞳を向けた。青と緑の美しい瞳がシュナイゼルを映しているものの、アスナはその瞳でシュナイゼルを見ているわけではない。――失明してしまった、というアスナの瞳を見ていると思うところがある。もう、二度と、彼女がその瞳でシュナイゼルを見ることはない。寂しい、と思う気持ちが伝わってしまったのか、あれ以降黒い手袋で覆われたままのアスナの手がそっとシュナイゼルの手に触れた。
「大丈夫ですよ、殿下」
アスナがゆるゆると微笑んでいる。何が、大丈夫だというのか。シュナイゼルは今すぐにでもそういってしまいたかった気持ちをぐっと閉じ込めた。