序章

 肌を刺すような冷たさが確かに気力を奪っていくのを感じた。
 薄い黎明色の髪は水に濡れて、少しだけ凍っている。体を守るための服も降り注いだ雨でずっしりと重くなってしまっており、この寒さによってただの凶器に成り果てている有様だった。このままでは凍えて死んでしまうほうが先なのではないだろうか――と、琥珀色の瞳を少しだけ揺るがせて、少女はふと思った。
 彼女の目の前にある小さな焚き火だけがなんとか彼女に暖を与えていたのだが、それも本当に僅かなもので、気がつくと彼女は眠りにつこうとしていた。必死で意識を保とうと色々考えていた。この作戦が終わったら、とか。基地に帰ったら早くお風呂に入りたい、とか。とりとめもなくどうでもいいことばかり考えて、それがなんとか彼女の意識を紡いでいた。
「マスターちゃん」
 自分を呼ぶ声が聞こえて、顔を上げた。そこに見えたのは一人の男だった。柔らかな声と同じくらい優しい緑色の瞳を見て、少女は少しだけ安堵したように息を吐いた。それを見てわずかに顔をしかめたその男はマスターと呼んだ少女の元へ駆け寄ってくると、自分がつけていたマントを躊躇いもなくかぶせた。
「悪い、少し濡れてるけど」
 ないよりましだろう、と笑ったその男の声に緩やかに笑ってありがとう、という。
「マスターちゃんの指示どおり、みんな撤退を始めた。――今日のところは失敗も仕方無しとしようぜ」
 その言葉に、ぎり、と奥歯を噛み締めた。自分の弱さがとても歯がゆくて、とてもつらいものだった。眼の前にいる彼だったボロボロで、それを治療する力は今の自分には殆ど残されていない。自分も、彼らも早く基地に戻って休養を取るべきだった。
「……大丈夫だって、また次の機会があるさ」
 彼はそう言って、少女の前に背中を晒した。少女は何も言わずとも彼の意思を汲み取ったのか、そっと腕を伸ばしてその背に乗った。彼は少し細身だったが、あっさりと少女を背負って立ち上がると周囲を警戒しながら歩き出した。――少女はここまでの戦闘で、足を負傷し、動けなくなっていた。情けない、と歯噛みした声が男の耳に入ってきて、男は少女を抱いている手に少しだけ力が入った。
「そう、落ち込むなって」
 できるだけ明るく声をだすように努めた。
 自分の背中で、肩に顔を埋めている少女は今、きっと一人で苦しんでいる。明け方までまだまだ遠い暗闇の中を、誰にも見つからないように逃げて戻らなければならない屈辱を一人で噛み締めている。自分が生きて帰らなければならないという自覚が彼女にあったからだ。それがあるだけ、マシだと思うが、と男は考えるわけだが、まだ少女は幼く、負けて撤退などという状況に耐えきれるはずもなかったのだ。
 その心情を察してあまりあると言わんばかりに、男はそれ以上は何も言わなかった。言ったところで、少女を傷つけるだけだと知っていたからだ。

 ――どこか、遠くの方から銃声が聞こえてきた。

 今の自分達には逃げ帰ることしかできなかった。
 その屈辱は、男も引き受けようと決めた。
 嗚咽を消して、必死でこらえるように男の服を握りしめて泣いている少女を守るためならば――この世界にいない神とやらにすがってもいいと、男は思ったのだ。
「お母さん……っ」
 小さな、少しだけ高い声が聞こえて、男はふと立ち止まった。しかし、その声は聞こえなかったことにすると少女を背負い直して再び歩き始める。



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