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 ――ああ、なんて眩い藤色なのだろう。
 本丸に着いてまず初めに思ったのは、それだった。
 眼前に佇むのは、敷地をぐるりと囲む門を彩っている藤の花と、質素ながらも荘厳さを失わない佇まいの日本家屋であった。
 淡い紫色のカーテンが陽光に照らされ、輝きを放つ。
 審神者の任を与えられ、現世を発った昨夜は、寒さの最も厳しい冬のさなかだったはず。なのに、いま目の前には初夏に咲くはずの藤の花が咲き誇っているというのは、ひどく奇妙な光景だった。
 どうやら時の流れから切り取られたこの空間は、季節の流れすらも自在らしい。
 凍てつく空気の過酷さとは打って変わって、この本丸は爽やかな初夏の陽気が心地よい。
 そんなことを考えながらやしきの門をくぐった瞬間、目の前でぼふんと煙が立つ。

「お待ちしておりました、審神者殿! はじめまして、私は【こんのすけ】と申します。案内人を務めさせて頂きますので、以後お見知りおきを」

 いったいどこから出てきたのやら。
 高らかな声とともに現れたのは、ずいぶん丸っこい獣だった。ピンと立った三角耳と、ふさふさの尾、それから[[rb:黄金 > こがね]]色の毛並みを見るに、狐の一種のようだ。
 獣が言葉を操るなんて、物の怪の類に違いない。おそらくは[[rb:管狐 > くだぎつね]]か、あるいはそれを模した式神か。政府もまた酔狂な使い魔を用意したものだと、少々呆れた。
 こんのすけと名乗った狐はゆたかな尾を揺らしつつ、この広い屋敷を先導していく。
 鍛刀部屋、手入れ部屋、[[rb:厨 > くりや]]。それから六畳ほどの個室が続く回廊に(顕現した男士たちのための個室だろうか)、大広間に風呂場と、部屋の数は際限ない。
 外観よりもずいぶん広く感じる建物だ。部屋数の多さもそうだが、廊下が複雑に入り組んでおり、下手に脇道に[[rb:逸 > そ]]れようものならうっかり迷ってしまいそうだなぁ、などとくだらない心配をしてしまう。
 こんのすけの後をついて必死に建物の構造を頭に叩き込んでいる途中、ふと風に乗って舞う花弁が横切ったので、足を止めた。
 先ほど見事だと思った、藤の花だ。
 周囲を見渡すと、進行方向の先に中庭があるのが目に留まった。どうやらこの中庭に、先ほど門に絡み付いている藤の大元があるらしい。少しくらいなら、見ていっても構わないだろうか。こんのすけの先導からはずれ、中庭が良く見える縁側へと足を運ぶ。
 やはり思った通り、見事な藤の木であった。それも一本ではなく、幾十本という数。
 太い幹から張り出した[[rb:蔓 > つる]]は長く伸び、中庭を覆ってしまう勢いだ。薄紫の[[rb:花房 > はなぶさ]]は三十センチ以上あろうかという大きな花で、丁寧に整えられた藤棚のおかげで美しいトンネルをつくり出している。
 庭先には小さな水路がのびており、水面は鏡のように藤の色を映している。
 風に揺られて波打つ花房からは芳しい香りが漂い、この中庭全体を満たしていた。
 いつまでも見ていられる、幻想的な景色である。
 しかしいつまでもここにいては、先導のこんのすけといよいよ[[rb:逸 > はぐ]]れてしまう。そろそろ来た道を戻ろうと[[rb:踵 > きびす]]を返そうとしたとき、なにやら気配を感じた。
 もう一度中庭を見遣ると、縁側の片隅に佇む人影があった。
 軍服のような衣装をまとった、色白の少年である。
 年は十代前半くらいだろうか。肌と白さと対比するように、[[rb:艶 > あで]]やかな黒髪が美しい。柔らかな陽光に照らされた顔は陶器のように滑らか。遠目でよく見えないが、うたた寝でもしているのであろう、瞳を閉じて静かに座っている姿は人形のようだ。
 一陣の風が吹き込む。
 風に[[rb:攫 > さら]]われ、藤の花吹雪が、庭先を染めた。
 花嵐に溶けて消えてしまいそうなほど、藤色が似合う少年だと思った。藤から生まれた妖精だと言われても信じてしまうくらい、彼の姿は現実味が薄く、幻のような儚さを[[rb:醸 > かも]]していた。
 政府の事前説明では、本丸には、審神者である己以外の人間はいないと聞かされていたため、この少年との邂逅にはいささか驚きを隠せない。
 あれもまた、こんのすけと同様、式神の類だろうか。
 獣姿ならまだしも、等身大の人型を模した式神などは高等な術式を使わなければなかなか用意できないだろうに。政府もまたずいぶんと太っ腹なことをしてくれるなあ、と感嘆半分、呆れ半分だ。
 あれは誰なのかと案内役の狐に問おうとしたが、もう狐の姿は周囲には見当たらなかった。どうやら完全に逸れてしまったらしい。焦って周囲を見渡すが、この広い邸の中だ、もうどこの通路からこの縁側に辿りついたのかよくわからない。
 少年のほうも、こちらの気配に気づいたらしい。[[rb:項垂 > うなだ]]れていた頭が、ピクリと揺れた。
 [[rb:白磁 > はくじ]]の[[rb:瞼 > まぶた]]がゆっくりと開かれる。
 作り物のように美しい瞳が、己を捕らえた。
 瞳の色は、藤の花を宿したかのような紫に染まっている。
 藤色の瞳に見つめられた瞬間、言いようのない既視感に囚われた。あの少年と出会うのは初めてのことなのに、どうしてか見覚えがあった。

「……よう、あんた。見ない顔だな」

 ずいぶんと低い声だった。
 儚げな[[rb:風貌 > ふうぼう]]とは釣り合わない男前な声色は、あまりにもミスマッチすぎて、どこから声が出ているのだろうかと驚いた。
 さて、こちらの動揺などいざ知らず、少年は縁側から立ち上がり、おもむろに近付いてくる。
 彼の視線はまるで品定めするかのように、全身をじろじろと見つめてくる。足元から胴体、そして頭部。余すことなく彼の藤色の瞳に暴かれていく。
 部外者とみなされ、敵意を持たれるだろうか。一瞬緊張で身が強張ったが、どうやら杞憂だったらしい。
 少年が晴れやかに[[rb:破顔 > はがん]]したからだ。

「どうした? もしかして邸のなかで迷子にでもなっちまったか?」
「え? あ、その……はい」
「はは、冗談のつもりだったんだが、本当に迷子なのか」

 [[rb:明朗 > めいろう]]に笑う少年。大口を開けて笑う姿は豪快で、第一印象の儚さを見事に打ち砕いた。
 敵意を持たれるかと警戒したが、むしろ歓迎しているように見える。想像したものとは真逆の反応に、緊張の糸が緩む。万が一にと懐に忍ばせている小刀から、ゆっくりと手を放した。
 迷子かと尋ねられ、思わず[[rb:是 > ぜ]]と答えてしまったが、もしかしてこの少年はこの邸の構造を知っているのだろうか。そうであれば、邸を案内してもらい、こんのすけの元へ帰れるかもしれない。
 しかし、淡い期待とは裏腹に、少年はなにやら困り顔で腕組みしている。

「迷子かぁ……本丸を案内してやりたいのは山々なんだが、俺も似たようなものでな。ここから動けねえんだ。ああ、[[rb:厠 > かわや]]の場所くらいなら教えてやれるが」

 悪いな、と少年はまた明朗に笑った。
 まさかの回答である。
 式神であれば、審神者をサポートするためにあらかじめ必要な情報はインプットされているはずだ。ここから動けないとは、どういうことだろう。
 もしかしてプログラミングのバグか。ありうる。
 なにせここは、政府が初めて運営する本丸だ。
 歴史修正主義者に対抗する手段として生まれた策は、いまようやく動き始めたばかり。自分たち審神者の第一陣の戦果が良好であれば、本丸の数も徐々に増やすとは聞いているが、いまは[[rb:備前 > びぜん]]と[[rb:相模 > さがみ]]にしか設置されていないと聞く。
 まだ稼働したばかりのシステムなのだから、初期不良があっても仕方ない。
 そうじゃなければ、厠だけ案内できる式神なんて出来上がらないだろう。なんでよりによって厠だけ。確かに厠は大事だが。

「迷子になったときは、その場から動かない方がいいってよく言うし、大人しくここで迎えを待ってようぜ。そのうちだれか来るだろう。ほれ、ここに座れよ」

 どっこらせ、と年寄りくさい掛け声を発し、少年はまた最初のように縁側に腰掛けた。それからこちらを見やり、隣に座るようにポンポンと床を叩いて誘う。
 再び周囲を見渡す。
 やはり回廊は何本もが複雑に入り組んでおり、どの道がどの部屋へ続いているのかは検討がつかない。こんのすけの姿も見当たらない。やみくもに邸内を駆けまわるより、少年の言う通りここでこんのすけを待つ方が、すれ違うリスクもなく見つけてもらえるかもしれない。
 しばらくどうするべきかと悩んだが、この少年ともう少し話してみたい気持ちもある。
 最終的に少年の手に誘われるように、彼の隣に腰かけることにした。
 さて、隣に座ったのはいいものの、なにを話せばいいだろうか。
 思案し始めたのも束の間、少年が先に口を開いた。

「旦那はどうしてこの本丸に来たんだ? まだ若いように見えるが、政府関係者か?」

 彼の問いに少しだけ首を傾げた。
 今日が審神者の着任日であることは、政府を通してすべての機関に通達がなされていたはず。現にこんのすけをはじめとしたすべての案内人には、己は審神者として認識されていた。
 やはりシステムの不具合が起こっているのだろう。あとで政府に報告して、調整してもらう必要がありそうだ。
 ただ、いまだけは無粋な真似はせず、せっかく提供してくれた話題に乗る事にしよう。
 
「私はこの本丸で任務を遂行するように政府に命令され、赴任してきた。歴史修正主義者――歴史遡行軍と戦うために、刀剣男士を顕現させる審神者として」

 審神者、という言葉を聞いたとたん、少年の目が驚いたように見開かれた。
 それから小さく「ああ、そうか」と呟く。
 繰り返し「そうか、そうなのか」と。まるで噛みしめるように、何度も呟いた。

「それじゃあ、戦が始まるんだな」

 戦。
 不意に紡がれたその単語に、わずかに肩が震えた。
 膝に置いていた拳に、無意識に力がこもる。
 少年が静かに問う。

「……戦が怖いか?」

 どこか労わるような優しい声だった。
 少年の問いに、思わず小さく首を縦に振る。

「実感が、沸かないんだ。これから歴史を守るための戦いに身を投じるとは思えない。だって、私がいた現世は平和だった。この本丸も、戦地の最前線とは思えないほど穏やかで、美しい。命を懸けたやり取りが行われるだなんて、信じられなくて。……本当に、俺に歴史を守れるだろうかと、不安になる」
 
 思わずこぼれたのは、怯え。
 己を律するために気張っていた口調も人称もあっという間にそれに呑まれ、はがれてしまう。
 覚悟はしてきたつもりだったが、いざ本丸に着任し戦が始まるのだと言われると、情けないことだが怖気づいてしまった。
 しまった、と思ったのと同時に、背中に強い衝撃が。バシン! という音ともに訪れた痛みに、思わず「痛!」という叫びが漏れた。
 どうやら少年に、背中を思い切り叩かれたらしい。
 華奢な見た目だが、思ったより力がある。
 叩かれてジンジンする箇所をさすっていると、ぐいと肩を引っ張られ、少年の腕に抱きかかえられるような形になった。至近距離で少年がニッと笑う。

「始まる前からそんなに弱気じゃ、勝てる戦もしくじっちまうぜ! 心配するな、あんたにはこれから強くて便りになる、たくさんの仲間ができる。刀剣男士たちはきっとあんたを――審神者を助け、守ってくれる。だから、俯くな。安心して前を見てろよ、大将」

 再び肩を強く引かれ、強制的に頭を上げさせられた。
 視界に映ったのは、陽に照らされて淡いグラデーションを作り上げる藤の花と、垣間見える底抜けに青い青空。どこまでも広がる青空を見ていると、不思議と胸にわだかまっていた不安が消えていく。肩から伝わる少年の温もりが心地よい。
 がさつではあるが、少年なりに励ましてくれたのだろうか。「ありがとう」と小声で呟くと、少年は「いいってことよ」と笑い、今度は肩をバシバシ叩かれた。非常に痛い。
 それから少年は人の頭をぐしゃりと一撫でしてから肩を離す。
 こちらのほうが大人なのに、逆に子ども扱いをされているという、なんとも不思議な状態だった。彼のほうがよほど大人に見える。けれど、否な気分はしなかった。
 ぼさぼさにされた頭を整えながら、眼前に広がる薄紫の景色を作り上げる、藤の巨木に視線をやった。
 先ほど中庭で見た通り、見事な樹だと素直に思う。

「それにしても、本当にきれいな藤だ」

 つい心で思ったことが口をついて出てきたが、それを聞いた少年は喜色満面といった様子である。

「お! 嬉しいことを言ってくれるねえ、旦那。俺も鼻が高い。自慢じゃないが、こんな立派な藤はそこらの本丸ではお目にかかれないぜ?」
「これは君が育てたのか?」
「いいや、俺の主がここにいたとき、趣味で育てていたんだ。花が好きなお人だったが、とりわけ藤には思い入れがあったらしい」
「そうか、君の主が――」

 それ以上は言葉にならなかった。
 はし、と片手で口元を抑えた。
 いま、自分は、ありえないことを言ってしまった。そんな思いに駆られての行動だった。
 先ほどから少年が発する言葉の違和感。
 その正体の一端が見えた気がしたのだ。

「待て、待ってくれ。[[rb:主 > ・]]だと? いま、そう言ったか。君には主人がいたのか。この、本丸に」

 震える声を気取られないように、努めて平静を装う。
 引き絞ってようやくひねり出した問いに、少年はあっけらかんとこう答えた。

「そうだ。俺には、主がいた。この本丸で、共に過ごした主がな」

 たらり。
 輪郭をなぞるように、一粒汗が流れ落ちる。
 それから、泡が消えるかのように、うわごとのように呟いた――ありえない、と。 

「――ありえない。まさか、私の前に審神者が赴任していたと? いいや、そんなはずはない。我々は歴史遡行軍に対抗するために派遣された、第一陣だ。今日が初めて、本丸が稼働される日だ。我々が初めて選出された審神者のはずだ。私たちの前に審神者がいて、本丸が稼働していたことなど、あるはずがない。君は、いったい――……」

 ――何者なんだ?
 喉から出かかった言葉を、思わず飲み込んだ。ふと、彼の素性に思い至ったからだ。
 初めて会うのに感じる既視感。
 違和感のある会話。
 そして、己の前に赴任してきたという審神者の存在。
 すべての要素をつなぎ合わせれば、自ずと答えははじき出された。
 記憶の片隅から、政府からの事前資料に彼の姿が記載されていたことを思い出す。
 式神などではない。もっと高尚な存在だ。
 違和感の欠片が頭の中で、パズルのピースのようにはまって一枚の絵を描くような、ありえない結論の尻尾を掴むような、そんな感覚に陥る。
 毒でもなめたような苦いジリジリした気持ち。
 不可解な胸の濁りが消えない。
 そんな奇妙な感覚も、少年の声で紡がれた小さな一言でしん、と静まり返る。

「……やっぱり、知らないんだな。主の言った通りか」

 呟かれたそれは、どこか寂しげな色が[[rb:滲 > にじ]]んでいた。
 俯き加減で濡れ羽色の髪に覆われた表情は、どんなものかまでは伺えない。
 おそるおそる、少年に尋ねる。

「仮にここが稼働していた本丸であって、君の主はどうしたんだ? どうしてひとりだけ、ここにいた?」

 問うて、少年はしばらく沈黙した。
 答えたくないのか、審神者とはいえ見知らぬ男に教えてやる義理はないとでも言いたいのか。
 無理にでも少年から答えを聞こうとは思わない。もしかしたら、あの案内役の狐がいればこの本丸の詳細についてわかるだろうと踏んだのだ。
 しかし、やがて少年は、語感を確かめるかのように、[[rb:訥々 > とつとつ]]と語り始めた。

「――役目があると思ったんだ」
「役目?」
「ずっと、ひとつだけわからないことがあった。その答えを探して、伝えなくてはいけないと、それが俺の役目なんだと。だからこそ、俺はまだここに居る」

 ふわり、と髪が揺れる。
 甘やかな風とともに、少年が振り返る。

「なあ旦那。少し俺の話に付き合ってくれるかい? なに、迎えが来るまでの暇つぶしだと思ってくれりゃいい」

 そう、少年は笑う。
 けれど、その笑顔はあまりにも――あまりにも、悲しげで。
 いまにも泣いてしまいそうなその表情は、見ている者の胸をいたく締め付けた。
 自然と首を縦に振っていた。
 ――ああ、きっと。
 少年の話を聞かなければいけない。きっとそのために自分は、この本丸にやってきたのだと。不思議とそんな気持ちが芽生えていた。
 少年は先ほど見せた泣きそうな笑顔を一瞬で引っ込め、また明朗に笑う。ただ「ありがとう」と言ったその声音は、[[rb:幾許 > いくばく]]か震えているような気がした。
 さて、と少年は居住まいを正す。
 俯いた顔を上げ、藤の花を慈しむように仰いだ。

「そうだなあ、どこから話そうか。まずはここの前主の――[[rb:玻璃 > はり]]のようなおんなの話をしようか」



[newpage]



「初めまして、薬研藤四郎」

 初めて瞳に映したものは、深い水底を想わせる澄んだ色。
 初めて耳に響いたものは、静寂を裂く鈴の転がる淡い声。

――[[rb:玻璃 > はり]]のようなおんな。

 澄み切った瞳で鉄の身を射抜く女を見て思ったのは、それだった。


一.玻璃のおんな


 本丸の季節は初夏を過ぎた頃。
 夏と呼ぶには[[rb:些 > いささ]]かはやく、湿気を[[rb:孕 > はら]]んだ長雨が窓の外で、[[rb:烟 > けぶ]]るような景色をつくり上げている。[[rb:雨露 > あめつゆ]]に濡れた青紫色の[[rb:紫陽花 > あじさい]]が、地平の境界線を淡く[[rb:滲 > にじ]]ませていた。
 つい先日までは新緑が萌え、あたたかさと涼しさが混在する爽やかな季節だったが、あっというまに梅雨がやってきた。
 本丸が建つ空間というのは、どんな時間軸からも切り離された、いわゆる異次元というところに存在するという。
政府の術式で組み上げられた強固な結界と、この本丸の主たる審神者の霊力によって成り立つこの領域は、大海に[[rb:揺蕩 > たゆた]]うボトルメールのようなもの。あるいは、好きに組み替えることのできる箱庭のようなものだ。万年桜を咲かせることもできれば、永遠の冬をもたらすことも可能だという。
 ただ、この本丸の主は現世の時の流れに逆らうようなことはしなかった。
 ここでは[[rb:滔々 > とうとう]]と四季が巡る。
 きっと現世でも、ここと同じように雨足やまぬ梅雨の時期なのだろうな、と薬研藤四郎は窓際の壁にもたれてぼんやりと思った。

(ああ、蒸し暑い)

 まとわりつく不快感に、薬研は思わず顔をしかめる。じわりと滲む汗のせいで、服が肌に張り付いてきて[[rb:鬱陶 > うっとう]]しい。普段は固く結んでいるネクタイも、この頃は緩ませてばかりだ。
 元来鉄から生まれたものであるゆえに、金属が[[rb:錆 > さ]]びやすく劣化しやすいこの時期は、刀剣男士にとっては本能的に嫌悪しがちだが、薬研自身は雨が嫌いではない。
 作物にとっては恵みの雨だし、[[rb:淑 > しと]]やかな雨音を聞きながら過ごす時間は穏やかで好ましい。
 ただ、好き嫌いと心地よさはまったく別の問題だった。
 この湿気だ。主の手伝いで事務仕事をしようにも、半紙が湿気を含んでしまい、筆を落とすと墨が滲んでしまう。
 これがなかなか不愉快だった。
 書いては滲み、紙を捨てては書き直し。それを何度か繰り返して、集中力が途切れてしまったところだ。
 窓際に座り呆けて、そろそろ[[rb:四半刻 > しはんとき]]がたつ。
 シャツの襟元を豪快に開け、ぱたぱたと胴体に風を送りこむ。
 こう蒸し暑い日は、仕事のやる気も削がれてしまう。

「薬研、いる?」

 障子の向こう側、部屋の外から自分の名を呼ばれた。惚けていた薬研も我に返る。
 薬研は立ち上がり、障子を開けてやる。
 廊下に立っていたのは、赤い衣をまとう刀――加州清光だ。

「ああ、加州の旦那か。どうかしたか?」

 さすがにこの蒸し暑さに耐えかねたのだろうか。内番着に身を包んだ彼は、普段つけている襟巻をしていなかった。長い髪が湿気で飛び跳ね、滲む汗で前髪が肌に張り付き、少々不機嫌な様子だ。
 しかめ面で「ん」と差し出してきたのは、紙の束。

「こないだの遠征の報告書。主に渡しといてくれる?」
「そうか、わざわざご苦労さん。だが、主はいま部屋にいなくてな。急ぎなら、直接主に渡してくれたほうが――」
「いいよ別に、急ぎじゃないし。主の机の上にでも置いておいてよ。あ、もしわからない部分があったら、薬研また聞きに来てね。俺、しばらく非番だから本丸にいるだろうし」

 薬研の言葉を遮るように紡がれた加州の台詞に、薬研の眉尻がぴくりと吊り上がる。

「……なあ、旦那。欠かさず報告書を出してくれるのはありがたい。だが、前から言ってるが、報告は主に直接してくれ。俺からの伝聞だけじゃ不備が出るかもしれないし、現場に行った奴のほうがスムーズに事が運ぶ」
「薬研はよくできた近侍だから、不備が出たことなんて一度もないじゃん。心配いらないって。主からの信頼も厚いし。それに……」

 加州は、不機嫌そうな表情をさらに歪める。
 それから、忌々しそうに、吐き捨てるように言った。

「俺、“玻璃の女”とは口利きたくないから」

 加州はそれ以上話すことはないとでも言いたげに、踵を返して部屋を去っていく。
 遠ざかっていく彼の背を見つめて、薬研は重いため息をつくことしかできなかった。

 ――[[rb:玻璃 > はり]]の女。
 刀剣男士のあいだでそう[[rb:揶揄 > やゆ]]される女が、薬研たちの主であり、この本丸のすべてを束ねる審神者である。
[[rb:慇懃無礼 > いんぎんぶれい]]ともとれるこの渾名がついた[[rb:所以 > ゆえん]]はいくつかある。
 まずは[[rb:風貌 > ふうぼう]]。
 審神者である女の肌は雪のように白く、着物から伸びる腕は、折れそうなほどにか細い。顔には常に面布をしているためその素顔は知れないが、濡れ羽色の長い髪は絹糸のようにさらりと揺れる。
 触れれば崩れてしまいそうなほど[[rb:華奢 > きゃしゃ]]で繊細な[[rb:体躯 > たいく]]は、[[rb:硝子 > がらす]]細工の人形を思わせた。
 玻璃と呼ばれる所以はほかにもある。
 彼女は感情をあらわにしない。
 [[rb:面布 > かおぎぬ]]をしているせいで表情を読み取れないというのもあるが、それ以上に審神者はひどく物静かな人間だった。
 布の下からのぞく口元は、常に真一文字に引き結ばれている。
 声音は終始淡々としており、抑揚などない。この本丸では古参の部類に入る薬研も、主が声を荒げる姿は一度も見たことがなかった。
 無表情。無感情。
 その程度の言葉では物足りない。
 ――無機質。
 そう、主がどのような人間かと問われれば、そう答えるのが最適解かもしれない。
 この西暦二二〇五年には“あんどろいど”と呼ばれる機械仕掛けの人形が[[rb:闊歩 > かっぽ]]しているというが、主もそれと同種のものだ と言われた方が、納得がいく。
 いつだったか、主を見て誰かが言った。

「主は、我々よりもよほど“もの”のようだ」

 人間の肉の身を得る以前、かつてただの“もの”であった刀剣たちの目には、この女の在り方はことさら奇異に映った。
 人間というものは感情、表情、情愛、情熱――とにかく様々な“情”を持つ生き物であると、刀剣たちは長い生のなかでそう認識していた。
 だがこの女は、そういった情が欠落して見えた。
 泣きもせず、怒りもせず、笑いもせず、生けるものが持つはずの[[rb:生命 > いのち]]の熱量すらも感じない。人形か、あるいは死肉が動いているようではないか。
 あるのはただ玻璃のように[[rb:脆 > もろ]]い体躯。きっとその皮膚の下には、赤い血は流れていない。氷のような、[[rb:凍 > い]]てて透明ななにかが流れているに違いない。
 きっと我らへの情もない。
 たとえ情があったとしても、それは[[rb:塵芥 > ちりあくた]]と同義。
 だって彼女は、玻璃なのだから。
 薬研の傍らでそう話した誰かは、ひどく怖ろしげに審神者を見ていた。
 まるで、ひとではないなにかを見てしまったかのように。
 ちゃんちゃらおかしな話だ。
 人ではないのは自分たちの存在であるというのに、人間の小娘をそう呼んで嫌悪し、まして怖れるなんて。
 しかしきっと、刀剣たちが感じる漠然とした恐ろしさが、審神者を“玻璃の女”と呼ぶ最たる理由なのだと、薬研は思う。
 薬研が近侍に任命されたとき、他の仲間から深い[[rb:憐憫 > れんびん]]の眼差しを向けられたことを、いまも覚えている。その裏にある彼らの暗く[[rb:淀 > よど]]んだ感情は、見て見ぬふりをした。
 さて、当の薬研はというと、確かに審神者は玻璃のようだと思うことはあった。だが他の刀たちのように審神者を忌避することはしなかった。むしろ審神者のことを好ましいとさえ思っている。
 先にも述べたとおり、薬研はこの本丸では、初期刀の加州清光に次いで顕現した古参だ。あとから顕現した刀剣たちと比べれば、幾らか主の性根を理解している自負があった。
 そして、彼女の本心は薬研も知らないが、どうして刀剣たちとの間に距離を置くようになったのかも、薬研は見てきた。――頑なに刀剣たちを冷たくあしらう理由も、知っている。

 ピピピ、ピピピ

 無機質な電子音が、物思いに耽っていた薬研の意識を引き戻した。
 この音はたしか、政府からの通信を知らせる連絡音だったはず。緊急性は低い。
 あいにくこの部屋の主は休憩と称して席を立っていて不在だ。
 タイミングの悪い政府の通信に薬研は気怠い様子で息を吐き、隣の部屋に設置された大型コンピューターの通信スイッチを入れる。部屋に設置された政府との通信用コンピューターのモニターが一斉に開く。
 画面越しに届いたのは、無機質な電子音と、抑揚の少ない事務的な音声だった。

『オペレーター[[rb:YC〇二 > ワイシーゼロツー]]より、相模国第[[rb:〇弐 > ぜろに]]号本丸審神者殿へ。定期連絡を行います』

 ディスプレイに表示されたオペレーターとやらは、いかにも事務員という装いの女である。
 女の口から紡がれる機械的な文句に[[rb:倣 > なら]]うように、薬研もまた返す。

「こちら相模国第〇弐号本丸。現在当本丸の審神者が席を外しているため、近侍である薬研藤四郎が受電いたす。用件を伺おう」
『審神者服務規程第十五条第三号により、定期連絡を行える権限を持つのは審神者のみとなります。審神者殿はご不在ですか?』
「あー……ついさっきまではいたんだがな。本丸内にはいるはずだ。折り返し連絡を入れさせようか」
『いいえ、結構です。二十分後に再度通信をいたしますので、それまでにお戻りになられますようお願いいたします』
「了解した。伝えよう」

 薬研はそう言い、通信を切る。ああ、七面倒だ。誰に聞かれるわけでもないため、薬研は声に出して愚痴る。毎度このオペレーターとやらは、規定規則を持ち出してきて融通を利かせてはくれなかった。確かに国の、政府の定めたルールがあるのだろうが、薬研にとってそんなことは知ったことではないし、知りたくもない。
 しかし規則に背けばそれなりのペナルティが与えられるため、嫌々ながらそれに従っていた。
 システムを閉じると席を立ち、執務室の外をキョロキョロと見渡した。
 近くに審神者の気配は感じない。
 休憩と称して審神者が席を立ってから、それなりに時間が経っている。厠にしては長すぎるし、外出するなら近侍に一声掛けるはずだ。いったい、執務をほっぽりだしてどこに消えてしまったのか。
 執務室を不在にするのは気が引けるが、政府からの定期連絡までさして時間的猶予があるわけではないので、仕方なく探しに出ることにした。
 薬研たちの住まう本丸は、非常に大きな建物である。
 なにせ数十人が住まう邸だ。部屋数は数え切れず、建物の階数も三階建て。廊下は入り組み、おまけに母屋以外にも離れがいくつかある。さらに[[rb:厩 > うまや]]に畑、中庭にと外の敷地も広大だ。
 そんな敷地内の中から、たったひとりを探し当てるというのは、なかなか骨の折れる作業である。薬研は一通り思い当たる場所を当たってみるが、これがなかなか見つからない。
 本丸内は大勢が行き交い、大層賑やかだ。執務室の静けさとは大違いだ。雨が屋根を打つ音は、彼らの笑い声で掻き消される。
 廊下の窓越しに、外を眺める。胸いっぱいに広がる雨の香りと、庭を包み込むように降る柔らかな雫。雨は変わらず降り続いていて、止む気配はない。縁側から眺められる景色には、庭に植えられている紫陽花に、花菖蒲に[[rb:木槿 > むくげ]]、それから[[rb:紫君子蘭 > アガパンサス]]。池には睡蓮が咲き誇る。雨に濡れた花々は、宝石のごとく輝いている。
 その花の群れの間を、なにか白っぽいものがするりと動いた気がした。
 人影のようだ。人目につかない場所を掻き分け、納屋のある裏手へと動くのがわかる。
 あれは、もしかして。
 行儀が悪いのは承知だが、思わず廊下を駆けた。
 途中、歌仙の声と思しき怒号が飛んだが、それも無視して玄関へと向かう。適当に傘を二本掴み取って雨の中に飛び出した。
 本丸の裏手側、北東に位置する境界。鬼門と呼ばれる薄暗い場所だ。そこに、雨に打たれながら庭に佇む審神者の姿があった。なにやら上空のほうを気にしている様子だ。
 着物はずぶ濡れ、しかも淡い青い色の着物の裾には泥も跳ねている。よりによってこんな雨の日に、靴ではなく草履をはいているせいで、足袋も水浸しだ。
 薬研は持ってきた傘をひとつ開き、審神者に差し出す。
 ようやく薬研の存在に気付いたようで、雨雲覆う空を見上げていた視線は薬研のもとに注がれる。
 もっとも、顔が薬研のほうを向いただけであって、目元は相変わらず布で覆われているので、実際に視線がこちらに注視されているかは定かではない。
 審神者を少し見上げる形ではあるが、薬研は[[rb:諌 > いさ]]めるようにねめつけた。

「大将、探したぞ。いったいこんなところで、傘も差さずになにしてたんだ?」
「結界に[[rb:綻 > ほころ]]びがあったので、修繕をと」

 それなりに凄んだつもりだったのだが、審神者は何事もないという風に淡々と答えた。
 打っても響かないというか、なんというか。
 だが、それもいつものことなので、諦め半分だ。
 本日何度目の溜め息だろうか。深く深く息を吐き、差していた傘を審神者のほうに差し出す。

「……せめて傘くらいはさしてくれ。風邪ひいたらどうするんだ」

 審神者は、薬研に差し出された傘を受け取り、「わざわざすみません」と言う。
 持ってきたもう一本の傘を、今度は自分のために差す。
 それにしても、結界に綻びがあるとは物騒な話だ。
 先ほど上空を見上げていた審神者と同じように、薬研も同じところを見やる。審神者と違って薬研には結界は見えないが、特に景色に異常があるようには思えなかった。
 本丸の結界は、外界の敵から探知されず、侵入も許さないという強固な術である。それに綻びがあるとすれば、もし時間遡行軍に居場所を知られて強襲にでも遭えば、破れてしまうかもしれなかった。
 結界の成り立ちの詳しいところは知らないが、システムの不具合なり審神者の霊力の不調なり、いずれにしても見過ごせない。
 思案に暮れていると、頭上から審神者の声が降ってくる。

「それより、薬研。私のところまで駆けてきたということは、なにか報せがあるのでしょう」
「あ、ああ、そうだったな。まず、加州清光が先日の遠征報告書を提出しに来た。机の上に置いておいたから確認してくれ」
「わかりました。後程目を通しておきます。加州にも、そう伝えておくように」
「了解。それから、十分前くらいに政府から通信があった。定期連絡だそうだ。あと十分後にまた連絡を入れるから、部屋に戻っていてくれとのお達しだぜ」
「……ああ、そんな時間だったかしら。ずいぶん長く執務室を不在にしていたようで、悪かったですね」

 いかにも「忘れていた」といった様子に、薬研は肩を[[rb:竦 > すく]]めて呆れた。
 審神者は普段からしっかり者で近侍を置く必要を感じさせないのだが、たまにこうして物忘れをしたり、思いもよらないミスをしたりする。そういうところは、いかにも人間らしかった。審神者が「あんどろいど」ならば、きっとこういうことは起こりえないだろう。
 つい先ほど考えていた、とある男士の妄言を思い出し、ひっそりと苦笑を漏らす。
 一度執務室に帰ろうとした審神者だが、「それならば」とこちらに引き返してきた。そして、審神者はなにかを薬研に渡す。

「薬研、これを」

 受け取れば、それは小さな鳥だった。
 美しい青い羽をもつ鳥だ。
 雨に濡れた体は冷え切っていて、ところどころ赤い染みがあるのが目に付く。特に左の羽は、赤黒く大きな染みがあった。
 どうやら翼を怪我しているらしい。腹のあたりが上下しているのを見るに、まだかろうじて生きてはいるようだ。
 平素から血なまぐさい環境に身を置いているとはいえ、小動物の傷ついている様子にはさすがに胸が痛む。

「どうしたんだ、この鳥?」

 懐からハンカチを取りだして、小鳥の血と雨露を拭いながら、審神者に問う。
 やはりというか、審神者は淡々とした声色で答える。

「さて。そこらに転がっていたので拾ったまで。獣に食われて庭を汚されるのも不快ですから、生きているのなら、手当を。死んでしまったのなら、墓を作ってやりなさい。私の代わりに」
「あのなあ、俺は鳥を手当した経験はないんだが……」
「その鳥の処遇はすべて薬研に一任します、好きになさい」

 なんの興味もないらしい口調。冷ややかで、つっけんどんな話しぶり。突き放しているようだがしかし、どこか「否」とは言えない圧がある。
 薬研は頭をガシガシと掻いて、苦虫を噛み潰したようなしかめ面をした。
 観念するしかなかった。

「……わかった、善処する」
「頼みます。では、私は執務室に戻ります。残りの執務は私が片づけるので、薬研は休んで結構。ご苦労でした」

 言って、今度こそ審神者は立ち去る。
 言葉の端々から「その鳥の治療に専念せよ」と言われた気がした。気のせいかもしれないが。
 ふと、審神者の手が視界に映った。
 彼女の両手は、赤く染まっていた。
 一見するとぎょっとするような出で立ちになっていたが、おそらくは、小鳥を拾ったときについた血だろう。彼女にそれを[[rb:厭 > いと]]う様子はない。
 それを見て、どうしても考えずにはいられない。
 ――彼らは本当に、審神者に情がないと思うのだろうか。
 物言いは確かに冷たい。
 だが、本当に情のない人間が、死にかけの小鳥の生死など、そんな[[rb:些事 > さじ]]を気にかけるだろうか。己の手と着物が血で汚れるのを厭わずに、骸になりかけの小さな命を、わざわざ救えと託すだろうか。助からずとも、墓をつくってやれなど、言うものだろうか。
 いくら考えても、答えは出ない。
 けれど、薬研は、それは否だと答えたい。
 掌に感じるかすかな温もりが、その証になると信じていたい。

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