――本当に、あの時は驚いた。
昔からいろんな人に好かれやすく、異性にも好意を寄せられることが多かったけれど、自分へ向けられる好意にはとことん疎い姉。友達の話はよく聞くけれど、恋人の話なんて話題にも出したことのなかった姉。一人暮らしの姉の家に度々足を運んでいたけれど、男の気配なんて微塵も感じなかった。
そんな柚那姉ちゃんに、恋人がいるだなんて、知らなかった。
正直、ショックだった。姉ちゃんに恋人が出来たことで、ボクから離れていってしまうのではないか。一緒に居られる時間が短くなるのではないか。ボクだけに甘かった姉ちゃんが、ボクを優先してくれることはもうないのではないか。それになにより、恋人がいるだなんて聞いてなくて――信頼、されてないんじゃないかって、思ったんだ。
「ちいくーん! らーい! 早く早くー!」
まあ、そんな心配いらなかったみたいだけれど。楽しそうに前を歩く姉を見て頬を緩ませた彼は、ゆっくりとした足取りで歩いて行く。そんな彼の背を見ながら、ボクはあの日のことを思い出していた。
*
日曜日、いつものように姉の家へと向かっていた。チャイムを押しても返事はないけれどそれはよくあることだし、合鍵も持っているから勝手に入った。
「…………誰……?」
しかし、中にいたのは見知らぬ男。しかも寝ていた。スマホを顔の上に乗せて、気持ちよさそうに寝ていた。ここまで熟睡しているのだから、空き巣の可能性は低い。姉ちゃんの知り合いなのだろうけど、この人の話は聞いたことがない。とりあえず声をかけて軽く揺すってみる。……起きない。
「あの……」
『……もしかして、來?』
「えっ」
寝てる彼の顔に乗っているスマホから聞き慣れた姉の声がした。思わずスマホを手に取って画面をみると、ゆずさん、と表示されている。当たりだ。
そのとき、揺すってもまったく起きる様子を見せなかった彼の目がぱちりと開かれた。眠たげな瞳がゆっくりと当たりを見渡して、ボクに焦点を合わせる。
「……だれ」
「え、……いや、貴方が誰ですか」
『いやちいくんそれ弟! 私の弟だから!』
「“ちいくん”?」
「なに?」
「……呼んだわけじゃないです」
『あれっ、えっ? 來の声が近いぞ……ええと、來がちいくんのスマホ持ってるの? ええ? なんでぇ?』
何やら姉がぶつぶつと呟いているが、正直ボクはそれどころじゃなかった。もう家着くから待ってて、という少し焦った言葉を残して通話が切れる。
起きたときに知らない人間がいたというのに、姉に“ちいくん”と呼ばれていた彼はのんきに欠伸をこぼしている。思わず溜息をついてしまったボクは悪くないと思う。
「……とりあえずお茶でも淹れますね」
「……あ、砂糖ないよ」
「…………」
「ゆずさんが買いに行った」
彼は、姉の名を呼ぶときにふわりと頬を緩める自身に気付いているのだろうか。
ああ、ダメだ。わかってしまった。こんなときは聡い自分が嫌になる。心の奥で黒い何かがくすぶるのに気付いたけれど、忘れたくて、見なかったことにしたくて、怖くなってしまって、蓋をするかのようにぱちぱちときつく瞬きをした。
「……た、ただいま」
「おかえり」
「……おかえり。紅茶淹れるね」
音を立ててリビングの扉を開けて姉ちゃんが入ってきた。テーブルに置かれた砂糖を手に取りキッチンへと入る。
あの空間にいるのが辛かった。姉ちゃんと彼が会話するところを見たら、またあのどす黒い感情が湧き出してきそうで、落ち着く時間が欲しくてキッチンへと逃げ込んだのだ。はあ、と溜息をひとつ。二人の関係はきっとボクが思っているので合っている。本当は、察する前に姉ちゃんの口から直接聞きたかったけれど。
目の前でヤカンがシュンシュンと音を立てて沸騰しているのに気付いて、思考を中断する。とりあえず、彼に話を聞いてみよう。
「似てないね」
おぼんにティーカップを乗せてリビングへと足を踏み入れると、彼の声が聞こえた。初対面で姉ちゃんとボクを姉弟だと見抜く人はほぼいないし、彼もそうだったのだろう。
知ってる。知ってるよ。姉ちゃんとボクが似てないなんて、知ってるよ。思わず、俯いてしまう。
そんなボクに気付いたのか、姉ちゃんが慌てたように立ち上がり、ありがとう、とおぼんを受け取った。彼も、ありがとう、とボクを見て言った。
ボクはバレないように小さく深呼吸をし、彼の正面に座って話を切り出す。
「……ええと、お名前は」
「きりはらちかげ」
「……姉とはどういったご関係で」
「こいびと」
「…………ご職業は」
「こーこーせー」
「年齢、は」
「じゅうはち」
「ご家族は、」
「……ゆずさんが家族になる予定」
こいびと、こうこうせい、じゅうはっさい、かぞく。それらの単語が意味もなくぐるぐると頭を巡る。ああ、どうして、ボクはこんなにも泣きそうなのだろうか。姉ちゃんは、どうして、ボクに何も言ってくれなかったんだろうか――
「似てるね」
――聞き慣れない言葉が聞こえた。
「……え、」
「その泣くの我慢してる顔と、家族が好きなところと、あとゆずさんが帰ってきたときの嬉しそうな顔」
彼は、さっき“似てない”と言った口で、変わらない声音で、正反対の言葉を紡ぐ。まだあるけど、と前置きをしてさらに続ける。
相手の目を見ながら話すところ。何を話すか考えているときにええと、って言うところ。ここからキッチンに行くまでの足音。カップ持つ時に人差し指と中指が綺麗に並ぶところと、座る時にちょっと目を伏せるところ。あとたぶん無意識だろうけど嫌なことがあるとぎゅっぎゅって瞬きするところ。
「……まだ聞く?」
「いえ、もういいです。勘弁してください」
「ちいくんすごいね……」
素直に驚いた。そして、嬉しかった。まさか、会って一時間も経っていない人に、お世辞ではなく似ていると言われるだなんて。
ボクは姉ちゃんにも兄ちゃんにも似ていない。顔も、性格も。姉ちゃんと兄ちゃんは似通っている部分はあるけれど、ボクはずっと周りに似ていないね、と言われ続けていた。
――でも違ったんだ。探せばいくらでも似ているところがあるんだ。周りが、自分が、探さなかっただけで。
「……ちかげ、さん」
「好きなように呼んでいいよ」
「…………ちいさん」
「うん?」
「……姉を、よろしくお願いします」
「うん」
「じゃあ、」
「待って」
ボクはこれで。そう続くはずだった言葉が遮られる。
「來くんも俺の家族になる予定だから、遠慮とかしなくていいから、今まで通りでいいから」
「……うん」
ああ、と。なるほど、と。思った。姉ちゃんが何故この人を選んだのかが、わかった気がした。心の奥の、隠したはずの黒い何かが、すうっと消えていった。この人なら、きっと、姉ちゃんを大事にしてくれる。この人なら――ちいさんなら、大丈夫。
「……また、来週も、来るから」
「うん! お姉ちゃん待ってるからね!」
「お兄ちゃんも待ってるー」
「…………何なんだよそのテンション……」
ふと視界に入ったちいさんのティーカップは、空になっていた。