深淵と煌めきの狭間
広間での喧騒が嘘の様に、湖畔は静まり返っていた。靴底で地面を踏みしめて歩けば、小気味良い草を踏みしめる音が響き渡る。杖先に光を灯し、杖腕を上げた。けれど、広すぎる湖全体を照らすことは出来なかった。
影の一つでも揺れ動いてくれたなら。そう思い目を凝らしても、この城の湖に住まう半人魚は顔を出さない。
「教授が卒業パーティーに顔を出さないなんて、どういう了見だ?」
込み上げてくる苛立ちを押し殺し、言葉を発した。広間に居る浮かれた連中の程度の低い騒ぎにも、猫撫で声で擦り寄ってくる鬱陶しい下僕にも、教授陣への愛想笑いも、全部壊れてしまえばよかったのに。
鬱陶しい首周りのタイを外し、ドレスローブを脱ぎ捨てる。学年末の馬鹿馬鹿しい一大行事、卒業生を送り出すダンスパーティーにあの人魚の姿はなかった。最初から来るとは思っていなかった。それでも僅かな期待を胸に、視界の端に映りはしないだろうかと探していた自分自身に、言いようのない感情が湧き上がる。
湖畔に響く水音を察し、更に高く杖を掲げた。杖先の光はいつの間にか俺の背後を漂うランタンに吸収され、おぼろげな炎が灯る。
「あなたも物好きね」
水音の主は探し求めていた生物だった。古代ルーン文字学教授の、変わり者の半人魚。教鞭を振るう姿は気だるげで、けれど水中を自在に泳ぎ回る姿は美しい。スリザリン寮から泳ぐ姿を何度か見たことはあったが、人魚として鰭を付けたこの女を間近で見たのはこの前が初めてだった。接点など特にない。ただ、あるのはお互いの退屈凌ぎの玩具という歪な思いだけ。
半人魚は未だ水面から顔を出すこともせず、水中からこちらを窺っているのだろうか。ランタンに灯る橙色の篝火が、恨めしそうに揺らぐ。
「そういうお前もな」
「パーティーなんて……卒業生のためにあるものでしょう?」
水面に波紋が広がった。波打つ湖畔はそれでも静寂を孕んでいる。一筋の流星が頭上で輝こうとも、水面に反射する月明りの煌きがやけに眩しく感じる。この場所に身を投じでもしたら、深淵に誘われるであろう。身動きも満足に取れず、呼吸すらままならない。
「……何故地上にいなかった」
「地上は嫌いよ。水の中がいい」
静寂を孕んだ湖が隠し持つ二面性は、狂気にも近い。美しさと孤独を併せ持つのだ。それはこの、半人魚も同じだった。そして俺も、優等生の皮を被り息を潜めて時機を待つ。
「どっかの誰かさんのせいで、歩くのも難しいの」
先日喰らった人魚の肉は、お世辞にも美味いとは言えなかった。良薬は口に苦いとはよく言ったものだ。俺の身体には大した変化もない。変化があったとすればこの女の方で、鰭を人間の脚に変化させても深く刻まれた傷により、満足に歩くことが出来なくなったくらいだ。元より、人魚は陸地で生活をする種族ではない。普段から重たそうに引き摺る脚を、更に引き摺らせ歩く姿は滑稽だった。
「……悪かったよ」
「本当は踊りたかった」
「だから、悪かった」
湖に向かって声を荒げれば、水面から女が顔を出した。どうやら、案外近いところに居たらしい。月明りを浴びた人魚の口元は弧を描き、濡れた髪を掻き上げて妖艶に微笑んだ。
「そう思うなら、誠意を見せなさい」
半人魚の分際で、とは、口には出さなかった。この生意気な半端者が、いつの日か自分に傅く様を思い浮かべると気分が良い。傅き、頭を垂れ、忠誠を誓う。甘いだけの紅茶よりも余程甘美な情景だろう。
「ほら……手、出せ」
杖をしまい、湖に向かって手を差し出した。人魚になれなかった出来損ないの半端者。不完全な伝説上の生物。永い時を生かされる人魚は何を願うのか。何を感じ、誰を想うのか。
けれど、この半人魚は憐れとは無縁の存在だった。儚げで不吉の象徴とは程遠く、「あんた、女の子の口説き方も知らないの?」そう言って挑発的な笑みを浮かべた。
「……俺と、踊っていただけませんか」
言い終わるよりも早く、白く細い腕が水中から伸びてきた。手を取って、引き上げることもままならない。
「……及第点ならあげてもいいわ」
不敵に微笑む半人魚の言葉を反芻する暇もなく、重く鈍い水音が響いた。地上よりも温かみのある水中世界で、半人魚が嬉しそうに表情を綻ばせる。
退屈凌ぎには大掛かりな仕掛けだとしても、それでも納得出来た。美しい歌声で船乗りを惑わし、難破させ、海中へ引き摺り込む。それが人魚の[[rb:性 > さが]]なのだ。湖でしか生きられない出来損ないの半人魚にも、同じ血が流れている。
「言ったでしょう? 地上は嫌いなの」
女がそう言って俺の額に口付けしたところで、漸く自身の置かれている状況に気が付いた。溺れたのは人魚が先か、それとも俺か。深く水中に沈んだ今となっては、もうどちらでも関係なかった。