トド松と喧嘩した。原因は些細なことだったように今となっては思う。
昔からわかってはいたんだよ、トド松のライン引きが普通の人の感覚から離れてるって。なんだよ、囲碁クラブって。そこで知り合った女の子にジム教えてもらって一緒に通ってるってどういうこと?やましいことはないって言ってたけど、普通の女の子だったら嫉妬の一つや二つくらいしても可笑しくないよね?一方的にまくしたてて、久しぶりに二人で過ごせるからって昼から準備していたご飯も手をつけずにトド松を家から追い出した。
もう、最悪、ご飯だってせっかく作ったのに全部無駄になっちゃったじゃないか。キッチンから香るいい匂いに、トド松と見るために借りてきたDVDに、自分から追い出しておいて、それらが自分の思い描いていた幸せな時間を辿れなかったことに腹を立てる、と同時に涙がでてきた。
時間がたった今では、そうなんだと腹を据えて、自分の中にストンと落とし込んでしまえば良かったのにって、そうしたら一生懸命作った料理を3日間1人で食べることはなかったし、トド松においしいね、これ見たかったんだよって一緒にくっついてDVDをみることができて、さらには今まで毎日とっていた連絡が1週間以上来なくてこんな気持ちになることはなかったはずだ。さすがに、怒らせてしまったかな。どうしよう、今までこんなことなかったんだ。私がわがままを言って困らせてもその顔はいつも笑顔で、最終的には私の頭をなでてくれた。引っ込みのつかない意地がもう私から彼に連絡をとるということをさせてくれない。
ラインを開いたり閉じたりを繰り返しながら悶々と日々を過ごし、彼と連絡を取らないで1週間と4日が過ぎた日、私は仕事で大変なミスをしてしまった。
上司にはしこたま怒られ、社内にはミスが伝わり、私のいないところで話の種にさせていることは見聞きしないでもわかった。ここから今すぐにいなくなりたい。心臓はどくどくと早鐘を打ち、全身を嫌な汗が伝う。他のことに集中しその気持ちが薄れても、ことあるごとに思い出しその度に手が震え、顔が強ばるのを感じた。みんなが退社した後も、ミスの処理、始末書に追われ会社を出る頃には私の精神はボロボロだった。
もう嫌だ、明日仕事行きたくない。願わくば今ここに車が突っ込んでこないだろうか。おぼつかない足取りで家路につく。
トド松に、あいたい
そう思うと目の奥が熱くなって涙が溢れてきた。唇を噛んで必死に我慢する。鞄の奥底に押し込まれた鍵を引っ張りだし無機質なドアに鍵を回し込めば音を立ててドアが開く。あれ、明るい…。暗いはずの部屋には明かりが灯り、キッチンからはあの日2人で食べられなかったご飯の匂い。玄関には見覚えのありすぎる靴。
目の前にはトド松がいた。
「トド…松…」
「おかえり」
ずっと見たかった、聞きたかったトド松の笑顔が、声が全身に染み渡っていく。染み渡って、目から溢れた。
「…っ…トド…まつ…」
「おかえり、名前」
玄関に立ったまま涙を流す私を優しく抱きしめて頭をなでながらトド松は何度も、おかえり、おかえりと繰り返す。
なんでいるの、どうして今日来たの、怒ってないの、色々なことが頭を巡ったが声にはならなかった。ただただその場で泣き続ける私をトド松はそれ以上何も言わずあやしてくれた。
少し落ちついたらトド松に手を引かれ、こたつに座らされ、手際よく目の前にあの日私が作ったものとほぼ同じ料理が並べられる様を眺めていた。
「トド松…」
「なんでいるのかって?怒ってないのかって?そもそも怒ってないし」
「え、怒ってないの」
てっきり怒ってるのかと思ってたからびっくりして顔を上げると、トド松は、「それに」と言葉を続ける。
「名前、そろそろ僕が必要だったでしょ?」
あ、謀られた。そうわかるような悪い顔をしていた。
「名前はね、僕がいないとダメなんだよ」
「…あざとい」
えー、そんなことないよーって笑いながら料理を取り分けてくれるトド松は心底楽しそうだ。
「さ、早くご飯食べちゃおう!僕が腕によりをかけて作ったんだからね!それで、食べ終わったら一緒にお風呂に入って髪の毛乾かし合いして、そのあと、あのとき一緒に見れなかった映画、見よ?」
机に肘をついて両手に顎をのせて小首をかしげるその仕草に、全てを見透かされているような気さえして、そんなの最高のプランじゃないかと悔しくも笑みがこぼれる。
夜トド松に抱きしめられて眠りにつく前、気付けば今日のことを思い出しても手が震えることや、顔が強ばることはなくなっていた。きっと起きてしまえば失敗を糧にまた会社に行くことができるだろう。それさえ見透かしたように、
「いつでも僕がそばにいるよ。だから名前は大丈夫。いい子」
そう、髪の毛にキスをおとしてくれるんだ。
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