喪失が満ちるU


そこから忙しい兵団業務の日々が過ぎていき、夜会当日。参加者たちへの挨拶もそこそこに、案内された部屋に入る。

月明かりが差し、蝋燭の火が揺れる、薄明かりの中でも目を惹く美しい金髪。
ゆったりとした動作で振り返ったなまえの瞳には、わずかに驚きの色が見えた。    

「突然のことで驚かせてしまいましたね、
お詫びいたします。」
「いいえ、スミス団長。
貴方とは話してみたいと思っていましたの。」

ソファから立ち上がったなまえは、微笑みながら手を差し出す。
透き通るような白い手を取り、吸い込まれるように口づける。

「エルヴィンとお呼びください、みょうじ卿」
「なまえと、困った貴族の相手をさせてしまって申し訳ないわ。」
「貴女との密会なら喜んで馳せ参じますよ。」
「ふふ、エルヴィン、あなたも困った方だこと。」

薄暗い室内で、アルコールも入り、男女が時間を過ごせば身体を求め合う雰囲気になるのだろうが、二人の間にはお互いの様子を探るような空気が流れるだけで手を触れあうこともない。

なまえにはそんな人づきあいが新鮮だった。自分ではなく家名と莫大な財産にしか興味をもっていない人たちに囲まれて過ごした日々だったから。

まっすぐに自分を見つめるエルヴィンの瞳から目を逸らせなかった。

その日から、王家に最も近いといわれる名家の女当主と死に最も近いといわれる調査兵団団長との人知れぬ逢瀬が始まった。

当たり障りのない手紙のやり取りから、兵団への支援、お礼として屋敷への訪問。団長業務として行われているようで、エルヴィンにとっては私的な思惑が徐々に増しているようだった。

自分を見つめる彼女の瞳には熱い想いが垣間見えることには気づいている。彼女を見る自分の瞳も同じように見えているだろう。純粋な恋心だと認めてしまうことが憚られる立場だからこそ、決して愛する人と想い合ってはならない立場だからこそ、エルヴィンはその思いを口にせず、彼女に触れたい気持ちを心に何重もの蓋をして抑え込んでいた。

何気ない会話の中で微笑む顔、兵団の様子に耳を傾ける真剣な眼差し。逢瀬を重ねるたびに、抜けられない泥沼に足を踏み入れていることを
自覚しつつも、決して足を運ぶことをやめられないでいた。

「貴女は蝶のようだ」

人々を魅了する姿を持ち、決して簡単には捕まえさえてくれない。無理に捕まえようとするものなら、その翅は簡単に壊れてしまう。それを知っているから、人は無理に捕まえようとしない。

「私が蝶なら、あなたはそれを捕らえる蜘蛛のようね」

そして私はもう捕らえられてしまっている。
蜘蛛の巣に捕らわれた蝶がどうなるかは誰にでもわかる。もがいても決して逃れることはできない。

「だから私は楽しむことにしたの。」

逃れられない、ゆっくりと死滅に近づいていくのであれば抗わず、その運命に身を委ねてしまってもいいのではないか。

永遠に続く楽園生活の破滅を最も望んでいたのは自分なのかもしれない。だから身を亡ぼす蜘蛛の巣に捕らわれに飛び込んだのかもしれない。

冷たい微笑みを浮かべるなまえの頬に手を伸ばす。その手に甘えるかのように首を傾け、頬を預ける。自分のような人間が触れることを許される存在ではないと、抑制していた理性は彼女に触れたとたん吹き飛んでしまったようだ。

頬の手は耳を掠め、後頭部にまわる。
触れる唇の熱さは彼女の冷たい瞳も溶かしてしまう。唇から漏れる熱い吐息がエルヴィンの心を搔き乱していく。

普通の男ならばこのままの勢いで情事に持ち込むだろう、だがエルヴィンは兵団団長と出資者という立場をわきまえているつもりだった。

身体は密着したまま、唇のみを離す。
押し倒してしまいそうな欲情を必死に理性で抑え込んだ。エルヴィンにとっては初めて夜会で見かけたときから焦がれていた相手。欲情と理性はギリギリのラインでせめぎ合っている。

「私はもう…この気持ちに蓋をし続けることができません…」

溢れる思いを口にしたなまえ。
超えないように見合っていた一線を阻むものはない。お互いが恋焦がれた相手にやっと触れることができる。

先程より深く、熱い口づけは何度も角度を変えてどちらが自分の舌なのかも考えられないくらいなまえの口内で絡み合う。

広いソファに倒れこみ、見上げた青い瞳は見たこともない強さで自分を求めている。

あぁ、やっと“なまえ”を見てくれる瞳を見つけた。欠落していた心が満たされていく。なまえの瞳には冷たさはなく、恍惚に満ちた色を携え青を求めて手を伸ばす。温かな涙が一滴頬を流れた。


***


調査兵団、壁内は大きな時代のうねりを向かえていた。

隻腕となったエルヴィンはクーデター後も身を休める間もなく各方面の調整のための会議への出席していた。忙しない日々の中で気がかりなのがみょうじ家のこと。

旧王制の中枢で甘い蜜を吸っていた貴族達は一通り粛清の対象となったとの報告書は目にしたが、彼女の名前を目にしてはいない。

国政に一切関わっていなかったとはいえ、傀儡の王家に最も近いと言われていたのだ。何かしらの処分が下されるはずだ。自分が裏から手を回して助けるには、彼女の家名は大きすぎた。

いま私情で動いて、不安定な新王制を揺るがすわけにはいかない。悔いなき選択を、と語ってきた信念が聞いて呆れる。惑わされ、焦がれて、掴んでしまった蝶の翅は壊してしまった。

拷問まがいの尋問は国政を動かしていた貴族、議員を対象に行われていた。旧王制で王の側近という立場の男はガタガタと震えながら命乞いをした。

嬉々として拷問具を見定めるザックレーを横目に、ピクシスが問い始めた。

「さて。みょうじ家、なまえ・みょうじは何に関わっていたのか話して貰おうか?」

ピクシスがちらりとエルヴィンに目線を向ける。この男はどこまで知っているのだ、不真面目に酒ばかり煽っているようにみせかけて、押さえている情報網は侮れない。

「…っ、みょうじは、なまえは、レイス家のスペアだ…!」
「レイスの、スペア…だと?」

過度の緊張で息の上がった男の口から出てきた言葉は3人誰もが予想もしていなかったものだった。王家に最も近い貴族、の指す王家が傀儡でなく真の王家だったということか。ボロが出ないように噤んでいたエルヴィンの口から、つい言葉が漏れた。


レイス家が代々継いでいる始祖を途絶えさせないように本家の王の血筋に万が一のことがあった場合、血を途絶えさせぬように作られた分家がみょうじだった。

分家といえ、王家の血を引く存在。政の中心で力を持てばレイスにとっても都合は悪い。よって、レイスはみょうじを徹底支配した。幼いころからレイスのために生きるよう洗脳まがいの教育を行い、反抗勢力になりうる配偶者は子が生まれたら消された。

なまえの母は出産に耐えられず死亡。
2代前の女当主の夫は若くして病死していると記録されていたが、それらはすべて仕組まれていたということか。

どれだけの犠牲の上にこの壁内の安寧が保たれてきたのか。100年の安寧を壊した今、自分たちは先に進むしかない。

冷たい目をした彼女の心は何を思っていたのだろうか。壁外調査の継続は王家にとって都合のいいものではなかった筈。それでも調査兵団へ資金提供を続けた真意は何か。

エルヴィンの思考は一つの答えに辿り着いた。

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