喪失が満ちるV


多くの貴族が失脚したが、みょうじ家は歴史の被害者という判断、ヒストリアの血族にあたることなどから、資産の多くを返還することで取り壊しは免れた。

シーナの中でも自然豊かなエリアにひっそりと建つみょうじの屋敷でなまえは来訪者を待っていた。

もともと贅を尽くした生活を好んでいなかったため、資産の返還を行っても生活に困ることは何もない。

馬車の音、使用人と言葉を交わす声、近付く足音、扉をノックする音。入室の許可を告げると、待ちわびた顔が柔らかい笑みをたたえていた。

ハッと息を呑んだ。

「花を渡す場でもないと思い、手ぶらで来てしまいました。」
「……腕ごと、置いてきてしまわれたのですね、、、ごめんなさい。」

柔らかい表情に似つかわしくない、片腕を失い、記憶にある姿よりやつれた頬、満身創痍の様子に心が痛んだ。

流れるような動作で、なまえの手を取り口づける。骨ばった指が離れる直前に、その手を掴んだ。

「みょうじのことは、貴方も聞かれたでしょう。私はもう有力貴族でもなんでもない、ただのなまえになりました。」

そう囁いた彼女の瞳は悲しみでも、諦めでもなく少し困ったような、だが意思の感じられるものだ。握られた左手をぐっと引き、華奢な体を胸で受け止める。抱きしめる右腕がないことが悔やまれる。それでも片腕で細い肩を強く抱いた。

「私は、ただのなまえに会いに来たんです。」
「…エルヴィン、ありがとう。」

身体はぼろぼろになっていても、頬に触れる彼の胸からは力強い心音が聞こえる。生きている事実がなまえを安心させた。
口付けを交わし、お互いの無事噛み締めていると、見計らったようにノックがあり執事によりお茶が用意された。


エルヴィンが今知りたい情報、みょうじ家に関わる歴史について。知りえる内容を伝えると、時折眉を寄せ、労わるように聞いていた。
 
「みょうじ家の祖先たちが守り続けた歴史を壊してしまった我々だが、なまえ、貴女が調査兵団を支援したのがこの連鎖を止めたかったからなのか?」

尋問した貴族の話を聞いた時から考えていた疑問を問いかけた。中央が潰したがっていた調査兵団を資金面で大きく支えたのはなまえだ。
実際、なまえからの巨額の支援がなければ、ここ数回の壁外進行は成しえなかった。

じっと見つめ合い、少し間をおいて、口を開いた。

「父は、ウーリに出会えて幸せでした。信じる当主と運命を共にすることこそみょうじの存在意義だと、いつも話していました。なので、次の継承者が決まらぬままウーリが病に倒れたとき、父は喜んで身を捧げました。」

ウーリからヒストリアの異母姉のフリーダに継承される間、わずか1ヵ月ほどの期間だったが、始祖はなまえの父が継いでいた。

「私はフリーダを失った後、からっぽでした。」

自分の片割れと信じて寄り添ってきた存在がなくなった時。目の前が真っ暗になった。父を失った時にはなかった喪失感。存在価値を失ってしまった自分。悔いても悔やみきれない。

その時初めてなまえの瞳から涙がこぼれた。失った存在を思い出すように両目を閉じ、涙を流す。

こんなに美しく涙を流す人を見たことがなかった。儚く、壊れてしまいそうだが心に抱く思いは強く、誰にも触らせない、強い意志さえ感じられる。

閉じられていた瞼がそっと上がり、うるんだ瞳が青い瞳を見る。

「そんな私を暗闇から這い上がらせてくれたのが、貴方だったの」

長い間無気力だった、始祖を奪取した者を見つけようが、もうフリーダはいない。レイスもみょうじも、もうどうだってよかった。そんな時見つけたのが、自分をまっすぐに射貫く強い青の双眸だった。

無気力に生きる自分を責めるような、責務を全うしない自分を責めるような、隠していたものを簡単に見透かされてしまった気がした。

「貴方を欲しいと思ってしまったの。それを叶えるにはみょうじを、旧王制を壊す必要があった。」

目を見開くエルヴィンに向かいあう表情は穏やかな笑みを浮かべていた。始祖を奪われた時から、現体制のカウントダウンは始まっていた。

兵団への巨額の支援は足がつかぬよう行われていた。中枢の人間が把握していたみょうじから調査兵団をへの支援はほんの少額。

「私をただのなまえにしてくれたこと、感謝しています。でも、その代償を貴方が支払うことになったことを悔やんでいます。」

想定外だったのは、エルヴィンが片腕を失ってしまったこと。中身がなくだらりと垂れ下がった、ジャケットの右袖。兵団団長であるエルヴィンが成し遂げたいことを思えば、片腕を失ったことは大きな痛手であることは事実。

「ははっ、確かに片腕を失いはしたが、いまはとても楽しい気分ですよ。」

重々しい空気を壊す、軽快な声色。
強がりでも、慰めでもなく、エルヴィンは体験したことの無い気分を楽しんでいた。自分の指示で多くの命を失わせてきた。すべては自分の描いたシナリオの通り目的のために屍を積み上げてきた。それが、そのようなシナリオを描かされていたということか。

失ったものは大きいが、今回のクーデターで間違いなく人類は新しい歴史への一歩を踏み出した。それは、エルヴィン自身が追い求めていた
歴史の真実への一歩でもあったのは確か。同時に、彼女にとっても目的を成し遂げるための一歩であった。

少年のような顔で笑うエルヴィンに不釣り合いな右袖が目に入り、思わず俯いた。

「それで、なまえ。」

名を呼ばれ、顔を上げると、そこにはもう少年のような面影はなく、力強い眼差しがあった。

「目的のための障害は、もう何もなくなった。」



美しい蝶が欲しいと思ったのは、決して安全な世界ではなかった。
それでもただ終わりを待つくらいなら、捕らわれたのではなく、自ら身を投じる。

捕らえたのか、捕らえられたのか。
もう交わった視線を外すことはできない。
向かいに座るエルヴィンの前に立ち、両手で頬に触れる。

「やっと、貴方を手に入れたわ。」

この幸せのために多くを失わせるのか、
多くを失ったから、今を幸せに感じるのか。
その答えは誰にもわからない。ただこの瞬間だけは失ったものを埋める幸福に身を委ね、生を感じさせる体温と絶え間なく鼓動する心音に溺れることを願った。





喪失が満ちる
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