静寂の行進曲アルコールランプに炙られたビーカーの内容物がコポコポ鳴る音だけが聞こえる室内。充満する薬剤の香りは嗅ぎ慣れてしまえば、心地よくも感じる。
実験器具に向かうなまえの表情は、知らぬ人が見れば無表情。人間味のない顔と例えるだろうが、この時が最も人間らしく純粋に自分の好奇心と向き合っていることをエルヴィンは知っている。
なまえが薬師の道に進んだのは、医師だった祖父と幼少期から二人で過ごした環境に影響されたのかとも思ったが、あの没頭ぶりを見る限り、彼女にとって天職と言える道だったようだ。
やっと取れた休みに訪ねてみれば、調合の最中だと放って置かれる始末。仕方なく書斎を覗けば、自分の本棚にはないジャンルばかりで、こちらもつい没頭してしまった。
…コンコンッ
「エルヴィンお待たせ、一段落したからお酒でも飲もうよ」
「そういうと思って、ワインを持ってきている。」
「また持ってきてくれたの?エルヴィンは私を甘やかしすぎよ〜」
そう言いながらも嬉しそうに微笑むなまえ。ここに来るといつも二人で酒を交わしながら議論する。テーマはどちらかの専門分野について、街で流行りのもの、最近起こった事件についてなど様々。
なまえと過ごす時間は兵団団長の肩書を忘れて、自由な意見を言い合え、若かった訓練兵時代を思い出す。年を重ねるごとに、責任やしがらみが増えていきあの頃のように思いのままに走ることもできなくなってしまった。
今自分に何の責任も、しがらみも無ければ何を望むだろう。愛しい恋人の伴侶となって添い遂げられれば幸せなのだろうか。
ワイングラス片手に、ソファの上で両膝を立てて座りながらこちらを見ている愛しい存在の髪を撫でる。なあに?酔ってるの?と笑う彼女の様子に目を細める。
「君に家族を与えられない自分が憎いと感じているんだ。」
「あら、そんなこと考えてたの?私は家族がほしいなんて一言も言ってないわよ。」
また笑いながらグラスに口をつける。
顎が上がりシャツから見える白く細い首筋から目が離せない。
「エルヴィン、人は一人で生まれてきてひとりで死んでいくの。死ぬときまで自分の道を自分の足で歩いていかなきゃいけないの。私は自分の道をこれからも自分で進んでいくわ。だから、あなたが私の人生を理由に気を病むことなんて何もないのよ。」
真っ直ぐ目を見て、そう告げるなまえは至極真面目な顔つきをしていた。
「ふははっ、なまえはたくましいな。俺のほうが女々しいみたいだ。」
「褒め言葉として受け取っておくわ。」
「何もいらないと言われるのも少し寂しい気もするがな。」
結婚も、子供も望まない。
一人で暮らす彼女の支えになりたいと、必要なものはないか尋ねてみても、“何もない”としか返ってきたことはない。せめてもと、訪れる度に彼女好みの酒や花を持ってきている。
「あなたはいつも与えたがるんだから。甘やかさなくても、大好きだから安心して?」
こちらも大好きだからこそ甘やかしたいんだが、と言葉にはしないがその視線でもなまえには伝わっている。
「…ひとつだけ、我儘言ってみようかな。」
「君のいう我儘は、世では我儘と言わないことが殆どだろう。」
グラスをテーブルに置いたなまえが、エルヴィンの胸にもたれ掛かる。決して小柄ではないが、華奢ななまえは、大きなエルヴィンの胸にすっぽりと収まった。胸に頬を寄せ、一定のリズムで鼓動する心音に耳を傾ける。力強い音は、エルヴィンが生きている証。エルヴィンが自分の足で歩んでいる証。
「いつか…いつかあなたの命が尽きる時。」
なまえを抱く腕に力がこもる。
「最後のときだけ、私を想ってほしい。最後の瞬間だけ、団長でなく私の恋人として、その心臓を私のために動かしてほしい。それだけで私は幸せに自分の道を進んでいけるから。」
公に捧げた心臓。
兵団員、ましてや調査兵団長の身だ。そんなエルヴィンの立場を理解しているなまえが望んだ我儘。エルヴィンが進む道は常に死と隣り合わせで、団長であろうといつ死んでもおかしくない。しかしこれが自分の道だと進んできたエルヴィンの背中を押すようななまえの言葉。
「……っ」
なまえの自分を想う深い愛情、エルヴィンは返答を返せず、ただ腕の中の存在を抱きしめた。
「…エルヴィン、大好きよ。」
*****
マリア奪還に街中が沸き、命を落とした英霊たちに哀悼の意を捧げた。街の騒ぎもすっかり落ち着きしばらく過ぎた頃、なまえのもとに来訪があった。
エルヴィン亡き後、団長に就任したハンジ。もちろん存在は新聞でもよく見ており知っていた。ただでさえ忙しいなか、兵団のトップが訪ねてくるとは。
「これを、貴女に。」
ハンジから手渡されたのは、「なまえ」と書かれた封筒。見覚えのある、愛おしい彼が慣れない左手で書いた字。
「見つけたのは随分前だが、貴女にたどり着くのに時間が掛かってしまって…」
申し訳無さそうに伝えるハンジの言葉になまえは首を振る。
「いいえ、“なまえ“だけでよく見つけてくれましたね。」
「ああ、それはね。いつもエルヴィンにくっついていたリヴァイが、時々エルヴィンから薬剤の匂いがするって言っていたのを思い出して。医師にも衛生兵にも聞きまわってたんだ。正直、違ったらどうしようって思ってたけどね。」
それだけの情報から自分を探し当てることができるのが兵団の持つ諜報力なのか。
「エルヴィンの最後、貴女には聞く権利があるけれど…。」
なまえは困った様に微笑み、再び首を振る。
「…わかった。じゃぁ、確かになまえに届けたから。私はこれで。」
ハンジは本当にこれだけのために訪ねてきたようだ。
エルヴィンの最後の思いを届けに。
「確かに、受け取りました。ハンジ団長、、、ありがとうございました。」
ハンジを見送り、薬剤の香りが充満する室内。座る人間が自分一人になった今でも、ソファの右端に寄る癖は抜けない。
封筒の文字をそっと撫で、封を開ける。
入っていた便箋は一枚、たった2行だけの遺書。
俺は自分の道を歩いていく。
最後の瞬間、この心臓は確かに君のものだった。
「…っ!最後の最後まで、甘やかす人なんだから…」
力強く鼓動する自分の心臓に、エルヴィンの存在を強く感じた。
静寂の行進曲
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