手に入らなかった未来


会議に出席する上官の到着を待つなまえの視界に入ったのは、上官のものとは似ても似つかない鮮やかな金髪。

「やあ、なまえ。ナイルとは外で会ったからもう着く頃だろう。」
「こんにちは、エルヴィン団長。そして、ハンジ分隊長。」

エルヴィンの後ろにいるハンジは憎しみのこもった眼でなまえを睨みつけている。

「憲兵団のお人形さんは今日も調査兵団の情報収集に精を出しているんですかー?見上げた忠誠心だこと。」

きっちり結い上げられた髪に、皴一つない制服。完璧に整えられた身なりには全く隙はない。その外見の上、睨みつけられようが罵られようが、顔色一つ変えないなまえの様子は、まるで人形のようだと噂されている。

「…ハンジ、あの件はもうどうにもならないんだ。ここで感情的になるな。」

あの件とは、ハンジが研究対象として巨人を壁内に持ち込もうとする動きがあることの証拠を集め、ナイルに報告したことだ。結果、ハンジの目論みは失敗---そもそも動き出してもいなかったが---に終わり、どこから聞いたのかなまえによる情報提供がきっかけとなったことを知ったハンジから恨まれる状況となった。

「おい、うちの部下に突っかかるのはやめろ。」

睨み続けるハンジ後方、やっと現れた上官の姿を見るなり、ハンジの視線は気にもしていない様子でナイルの横に移動する。彼女に感情はあるのかと疑ってしまう。

「ナイル団長、こちらは問題ありません。本日の追加資料はこちらです。」
「ああ。ではエルヴィン、我々はこれで。」


去っていく2人の後姿を腕を組み睨みつけるハンジ。

「あー、腹立つ。調査兵団の何がそんなに憎いのかね。」
「彼女は彼女の仕事をしている、我々もそうするだけだ。」




*****




すっかり日が落ち、仕事を終えた者たちの賑やかな声が聞こえる頃。シーナの外れ、酒場や宿屋が立ち並ぶ一角にある小さな宿屋の一室にエルヴィンはいた。薄暗い室内、シャツだけのリラックスした様子だが、手にしているものはアルコールではなく、報告書の類。

控えめなノック音に応えると、宿屋の主人が顔を覗かせた。

「旦那、お連れがお越しで。…呼ばれとりますかな?」

男の後ろに見えるのはローブを深くかぶり顔は見えないが、長い髪を下ろし、胸元の露出が強調された装い。酒を飲んだ後、女を連れ込んだり娼婦を呼んだりするような宿だ。エルヴィンが頷けば、主人に促された女性が入室し静かに扉が閉められた。

足音が遠のくのを待ち、なまえはローブを脱いだ。

「何度見ても君のその姿には慣れないな。」
「密会なんですもの。こんな場所で疑われないのはこの姿が一番なの。うっかり兵団の誰かに会っても誰も私だと思わないわ。」

昼の姿からは想像もできない、しっかりと施された化粧にゆるく波打つロングヘア。誰が見ても娼婦、しかも貴族相手しか客を取らない高級娼館のだと言われても誰も疑わないだろう。

「何事も完璧にこなす君の仕事ぶりには感謝しているよ。」
「貴方の部下にはとっても嫌われていますけどもね。」

なまえの仕事、表向きは憲兵団団長補佐、裏の顔はエルヴィンと繋がる間者。憲兵団、王政の様子を探り調査兵団、エルヴィンにとっての危機を素早く察知し情報を流す。

「なまえからナイルへの報告で表に出た情報だからこの程度の制限で済んでいるんだ。あれが他のルート、君が察知した調査兵団廃止の一派からの動き出しだったら今頃街は調査兵団廃止の色一色だっただろう。」

ハンジにはもう少し警戒心を持たせないと、と考え込むエルヴィンをじっと見つめる。なまえが命の危険を冒してまで、こんな活動をしているのはこの男がそれを望んだから。

エルヴィンと出会ったのは人生の中でも最悪の日。唯一の肉親だった母が、押し入った盗賊に目の前で殺され、犯され、死を覚悟した時。偶然通りかかった当時調査兵団の一団員だったエルヴィンに助けられた。

何もかも失ったなまえの保護先を探し、心の傷が癒えるよう時間を掛けて接し、兵団業務の合間を縫って顔を見に訪れてくれた。なまえにとって生きる希望がエルヴィンだった。すべてを失った少女が縋った、たった一人の生きる希望は、常に死と隣り合わせの環境にいた。それを知った時、自分の人生の使い方をはっきりと理解した。

訓練兵団に入り、3年間訓練も座学も文字通り死に物狂いで取り組んだ。最終試験で首席と結果が出てから3年ぶりに会ったなまえがエルヴィンに提示したのは自分の使い道だった。憲兵団に入り必要な情報を集めるスパイ、もしくは調査兵団に入り直接駒としての使い道。どちらも危険なことは同じ、人間に殺される可能性が高まるか、巨人に喰われる可能性が高まるかの差だ。

そして今、憲兵団入団後、予定通りの動きで予定通り団長補佐としての地位を確立させた。情報のためには体も使うし、殺しも数件。もうとっくに引き返せない場所に独りいる。調査兵団に入り、エルヴィンの下にいたら今頃自分はどうなっていたのか。

一通りの報告を終え、いつも通りエルヴィンが先に宿を出るのだろうと思っていたら、珍しく酒を勧めてきた。部屋に入ったあと、宿屋の主人が持ってくるグラスとブランデー。

「いつも手を付けずに帰るのに、どうかしたの?」
「たまには仕事以外の話でもと思ってね。ご存知の通り調査兵団は活動制限中で、いつもより余裕があるしね。」

初めて会ったあの時から、何年経ったのか。ただの少女から憲兵団長の右腕、調査兵団長の間者となったなまえ。調査兵団長まで上り詰めたエルヴィン。あと何度こんな風に時間を過ごせるのだろうか。何度も聞こうとして言い出せない問い。


なぜあの時わたしを助けたの?


答えを聞くことが、受け入れることが怖くて何度も言葉を飲み込んだ。優しい瞳でなまえを労わり、必要としてくれるエルヴィンが私を助けた理由。

ナイルの妻、マリーに会った時。
その姿を見るエルヴィンの瞳を見た時。
その答えが浮かんで心が泣いた。

マリー本人にも、妹ができたみたいだと言われるほど、なまえはマリーに似ていた。


「こんな他愛もない話をしたのは何年ぶりだろう。君が訓練兵団に入る前の頃みたいだ。」
「貴方には返しきれない恩があるわね。」
「そのために助けたわけではない。いつ身を引いてもいいんだ。」

なまえが決して途中で身を引くこと等ないとわかっているだろうが、必ず逃げ道を示し続けるエルヴィンの優しさに勘違いしてしまいそうになる。自らの生きる希望を見つめる瞳に気持ちは漏れていないだろうか。

「貴方のために生きること、これが私の幸せの形なんです。」

ありがとう。と静かに自分を抱きしめるエルヴィンの腕の中で、そっと目を閉じる。


私もあなたのように、この想いは墓場まで持って行きます。





手に入らなかった未来
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