秋暮の雨
ある日の暮れ方のことである。
一人の演劇部員が、曇天の下で学校の廊下を陽気に歩いていた。
廊下には彼女のほかに誰もいない。ある教室の前に着くと、彼女は勢いよくその扉を開けた。
「薫ちゃん!」
舟橋が意気揚々と大声を張り上げると、教室に一人残っていた男子生徒がびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
「一度も呼んだことねぇだろ、その名前」
薫ちゃん、と呼ぶには目つきの悪すぎる彼は、広げていた教科書に筆を挟むと教室にずかずかと入ってくる彼女を目で追った。
「海堂、悪いことしよう」
「あ?」
舟橋は彼の向かいの席に座るとおもむろに上履きを脱いだ。
「お前図書室で本探してたんじゃねぇのか」
「いいからいいから」
舟橋は靴下を脱ぎ去ると、その足を海堂に見せつけた。
「何だ…?ネイルか?」
「うん、ネイル」
慣れない靴で舞台を奔走するために、絆創膏だらけの足の爪には、爛々と照る赤色が施されていた。
「悪いことってこれかよ」
「そうです」
ネイルをして学校に来ることは立派な校則違反である。しかし、手に塗るならまだしも、ほとんど表に出ることのない足に塗るというのは、些か反抗心が中途半端なのではないか。
「俺が言うのも何だが……。お前、小さいな」
「まあまあ。受験期で溜まった鬱憤を校長室沙汰にならない程度に晴らすには如何と、一受験生として考えたわけよ。そこでバレず目立たず反抗できる方法を発明しました。それがこれです」
得意げな舟橋とは反対に、海堂は呆れて物も言えないようだ。
「海堂もやろうよこれ。意外と気持ちいいよ」
「何でそうなる」
「先生が私のことを贔屓して褒めても心の中でほくそ笑むことができるっていうメリットが」
「下らねぇ、早く本借りてこい」
教科書から筆を取ろうとした海堂の手を舟橋が素早く阻止する。
「たまには恋人らしくオソロイしようよ。ね、お願い」
舟橋はいつになく真剣に不真面目だった。
外ではいつしか雨が降っていた。夕暮れ時にしては仄明るい空からぼたぼたと滴がこぼれ落ち、外灯に打ちつけられて不思議な模様を作った。
教室の中では、舟橋が慎重な手つきで海堂の足にネイルを塗っている。
男らしく角ばった無骨な指に、不相応な美しさが添えられる。舟橋は恍惚としていたが、海堂は神妙な面持ちでその様子を見ていた。
「俺の足でやって気持ち悪くねぇのか」
「どうせ見られないからいいでしょ」
それが全く的外れな回答であることに、舟橋はまるで気がついていないようだった。
親指、人差し指と完成していく。やがて全ての指が塗られると、舟橋は達成感に満ちた表情でうんうんと頷いた。
「あー、海堂が校則違反してる」
「お前がやったんだろうが…」
わざとらしい声音に凄味のある声で返すと、舟橋は嬉しそうに笑った。
帰りの道、雨の中を小さな歩幅で進む。
道端の小石を蹴飛ばした舟橋は、雨の川に流される橙色の花を見つけた。
「あ、金木犀だ」
垣根にあれほど咲いていた金木犀が、雨に打たれてぼとぼとと落ちていく。秋もまだ中盤だというのに、何とはなしに物悲しい。
「金木犀が無くなると秋が終わった感じしない?」
「寒くなったら冬だろ」
「情緒がないなあ」
雨のせいか、いつもより肌寒いような気がして身震いをする。
海堂はそれ見ろという様に傘で小突いた。
雨の中を規則正しい歩幅で二人の学生が歩いてゆく。
側から見れば真面目な顔をして、当たり障りのない会話をしながら真面目に帰る優等生だ。
しかし、その足にわずかな反抗心を抱えていることは、二人だけが知っていた。