「おーはやっほー! みんな〜、元気かにゃあ?」
軽快な音楽を背景に、底抜けに明るく弾ける声が、朝の我が家のリビングを賑わせる。それは、いつもと違った春日家の日常であった。
ソファーに軽く腰かけ、制服のネクタイを締め上げながらも、優衣の視線は画面の向こうで人懐っこく無邪気に笑う青年に釘付けになっている。傍らで、水仕事を片付けてリビングに戻ってきた母が、怪訝な顔で娘を見下ろす。
「あんた、そんな番組真剣に見てたっけ」
「えっ! い、いやあ、そういうわけじゃないんだけど……」
不意に指摘され、ぎくりと肩が小さく跳ねた。我に返った優衣はようやくテレビから目を離し、歯切れ悪く答えにもなっていない答えを返しつつ。ますます首を捻る母の視線から逃れるように、再びテレビに集中する。
今をときめく若手アイドル――HAYATO。
今まで特別な意識を持って彼を見たことはなかった。熱烈なファンのように彼が出ているからと番組を追うわけでもなく、たまたま見ていた番組に出ているのを見かけて、人を楽しませるのが好きなんだなあと、なんとなく率直に感じた印象を抱くだけだった。
それを一変させたのは、昨日。休日の繁華街で起きた出来事だった。その時に出会った青年の、目深に被った帽子の下から見えた顔立ちが、まさにHAYATOと同じものだったのだ。その時の彼は、今、テレビで見ている彼とは随分と印象が違ったけれど。
ただ単にそっくりだっただけなのかもしれないし、或いは思い違いだった可能性もある。人気アイドルにそう易々と会えるはずもない。それでも優衣が疑いを拭いきれずにいるのには、理由があった。
「……ところで、時間過ぎてるけどいいの?」
「えっ? うわっ、やばっ! 全然よくない!」
再び母の声で我に返り、画面の端に表示されている時刻を見やるとぎょっと目を丸めた。家を出るべき時間を、五分ほど過ぎてしまっている。優衣は飛び上がる勢いで腰を上げるなり、傍らに置いていたスクールバッグとブレザーを素早く掴み取って、慌ただしく家を飛び出した。
「行ってきまーす!」
そして、道行く人々が思わず振り返るほどの必死の形相で、最寄り駅までの道を全速力で駆け抜けた。
特に目的もなく、買い物と称してよくつるむクラスメイトたちと集って街へ繰り出したのが、昨日のことだった。
日曜の繁華街はどこへ行っても人混みばかりだったが、それでも他愛のない話で盛り上がりながら、気になった店にふらりと立ち寄ってみたりと、それはそれで充実した時間だった。そんな中、たまたま入ったアクセサリーショップが友人たちの好みに当たったらしく、気に入ったものを手に取っては嬉々とレジへ並んでいった。一方、眺めるだけで満足した優衣は、混み合った売場の息苦しい空気から逃れるべく、先に店を出て彼女たちを待つことにしたのだけれど。
「ねえ。君、ひとり? それとも誰か待ってる?」
「は、はいっ?」
待ちぼうけを食らっているところに、不意に見知らぬ男に話しかけられ、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
こちらを見下ろす背の高い男の態度は、あまりにも馴れ馴れしかった。一瞬、実は知り合いだったのだろうかと不安になって記憶を巡らせてみたものの、思い当たる人間はいない。呆然と男の顔を見上げていると、こちらの心情を察したのか、男は急に畏まったように振る舞った。
「ああ、急にごめんね。たまたまそこを通りがかった時に君のこと見かけて、すごくタイプだなって思って。思わず声かけちゃった」
「ええっと……」
これが所謂ナンパというものであると、やっとのことで理解した。こんな風に声をかけられるのは初めてなので、どう返していいのかわからない。何より、見ず知らずの人間に馴れ馴れしく近づかれることへの不快感、恐怖すらも感じてしまう。混乱して、頭が上手く働かない。
「もし時間あるならお茶でもどうかな。君のこと知りたいから、ゆっくり話がしたいんだけど」
「え」
「ああ、もちろん俺の奢りだから。安心して」
問題はそこではない。声にならない叫びを胸の内に秘め、どうすれば逃れられるのかと焦りに駆られる思考を辿々しくも必死に働かせた。
「ご、ごめんなさい。予定あるんで……」
我ながらなんと弱々しい声だろうか。と、情けなく思いながらも、体は自然と逃げるように動き出していた。とにかくこの場を立ち去れば諦めてもらえるのではないかと、切なる望みをかけて。
しかし、男はしつこく後を付いてくるではないか。
「ホントちょっとだけでもいいから。それか、メールだけでも交換しない? ねえ」
「なっ……!」
その軟派な口ぶりとは裏腹に力強く腕を掴まれ、鋭い恐怖心から心臓が痛く縮むような感覚に体が強張った。せめてもの抵抗として腕になけなしの力を込めて振り払おうとしても、びくともしない。悲鳴じみた叫びがひっくり返って、渇いた喉を震わせた。
「は、離してください! 急いでるんです!」
「そのわりにはあそこで暇そうに突っ立ってたよね? ホントに予定なんてあるの?」
「それはっ……!」
図星を突かれ、遂に言葉を詰まらせてしまった。周りを往来する人々は、無関心を装って関わることを厭う。誰も助けてくれなどしない絶望感に、視界が熱く滲んだ。もう、逃れられない。
「すみません」
涼やかなる声が、背後から乱雑な空気を割って入った。
その声に意識を引き付けられて振り返ると、帽子を目深に被った見知らぬ青年がおもむろに近づいてきた。
「えっ」
「私の彼女に何か用でも?」
青年は何の躊躇いもなく、自然な動作で優衣の肩を抱き寄せた。
一体、何が起こっているのか。理解が追い付かずに唖然としていると、腕を掴んでいた男が決まりの悪そうな顔をしてようやく手を離した。
「彼氏持ちならさっさと言ってよ」
忌々しく捨て台詞を吐いて去っていく男の丸まった背中を見て、自分はこの青年に助けられたのだと遅れて理解した。
青年はそれを認めると肩から手を離し、適切な距離を置いて向き合った。帽子の影に隠れて顔はよく見えないが、非常に落ち着いた物腰だと感じた。
「突然すみません。困っているようでしたので」
「い……いえ……」
極度の緊張から解放され、放心してしまったのがいけなかった。腰が抜けて、立つ力を失って萎れるようにその場に座り込んだ。堪えていた涙も、決壊してしまった。
人々の注目もちらほらと集めてしまい、誤解を与えかねない状況に、さすがに青年も焦燥と困惑を滲ませて、ぴくりと僅かに瞼を瞬かせた。
「大丈夫ですかっ?」
「ご、ごめんなさい……もう大丈夫なんで、あの、あたしのことはどうか気にしないでください……!」
「全く大丈夫そうには見えませんが。とりあえず、そうですね……こんなところでは人様の迷惑にもなりますし、あそこのベンチで落ち着かれては?」
「うう、すみません……」
何から何まで世話になってしまい、罪悪感をただひたすらに募らせながら。力の入らない体を支えられ、繁華街の一角に設けられた憩いのスペースへと誘導された。そこで休息を求める人は多かったが、幸いにも優衣一人座れるくらいのスペースは見つかり、ようやく腰を落ち着けることができた。
安堵すると同時に、歩き疲れに加えて先程の精神的な疲労がどっと体にのしかかるのを感じた。
「そうだ、これを」
「へっ?」
不意に黒いハンカチを差し出され、驚いて青年の顔を見上げたその時、初めて彼の顔を間近に見た。
どこかで見覚えのある顔だと思った。知り合いではないけれど、毎日のようにその顔はどこかしらで見ている。見る者の目を奪うほどに魅惑的で端整な顔立ちは、そう。
「HAYATO……さん……?」
その名を小さく口にした瞬間、彼の表情が強張った気がした。触れてはいけないものに触れてしまったかのように、空気が凍り付いたように感じた。
が、頭上に吐き出される皮肉の滲む浅い溜息が、すぐさま張り詰めた緊張の糸を弛ませた。
「よく言われますが、他人の空似ですよ」
「そう、なんですか?」
「まさに今、人気急上昇中とも言われるようなアイドルが、このような多くの人間の注目を集めかねない場所で、リスクを冒してまで見ず知らずのあなたを助けるとでも?」
「そ、それは……」
あからさまな棘を含む正論に、返す言葉もなかった。
今の今まではどちらかといえば紳士的な言動であったのに、HAYATOの名前を出した瞬間からどこか冷たい印象を醸し出すようになった。もしかすると、彼はHAYATOという存在を好んでいないのかもしれない。
助けてもらったというのに、気に障るようなことを言ってしまうだなんて。罪悪感に胸を締め付けられていると、彼はしきりに腕に着けている時計を気にかけだした。
「ああ、すみません。時間がありませんので、私はそろそろ失礼します」
「えっ? あ、あのっ!」
青年は有無を言わさず強引にハンカチを優衣の手に握らせると、足早に立ち去って行ってしまった。
とっさに引き留めようと張り上げた声は雑踏に埋もれゆく背中に届くこともなく、休日の溢れ返る喧騒に虚しくかき消されていった。
「お礼、言い損ねちゃったな……」
懐にもやもやと残された後悔の念は、手中のハンカチと共に握りしめることしかできなかった。
他人の空似と言われてしまえばそれまでだが、だったら何故、あの時に動揺にも似た表情を見せたのか。それとも、あれは単なる見間違いだったのだろうか。
とはいえ、助けてくれた彼はHAYATOとはまるで正反対の印象だった。やはり別人なのだろうか。しかし、声もどことなく似ていたような気がしないでもない。もしも彼がHAYATOだったなら――テレビで見るあの顔は、所謂国民的に受けるように演じられたキャラクターだったのだろうか。
確かに『あの人気アイドルの裏の顔は……』などという噂はよく飛び交うし、大衆に見せるそれがその人の全てとは限らない。所詮はそういうビジネスだと言われてしまえば、納得するしかないのだけれど。
音楽活動に、バラエティー番組やドラマへの出演。HAYATOをテレビで見ない日はない。テレビだけではない、週刊誌やテレビ雑誌などの表紙を飾っているのもよく見かける。きっとこちらの想像も付かないくらいに多忙なのだろう。
ファンに夢を魅せ続け、本来の自分に戻れないままに一日が過ぎてしまうことだってあるのではないか。ついそんな妄想までしてしまった。
「んー、アイドルも大変なんだなあ……」
「どうしたの、急に。えらく深刻な顔して」
「えっ? ……あ、ああ、何でもない」
怪訝にこちらを覗き込む友人に、意表を突かれる。まさかぼやきとも言える独り言に反応が返ってくるとは、思ってもみなかった。
授業の合間に挟まれた短い休み時間、束の間の解放感に包まれた教室。友人たちが集って談笑を楽しむ傍らで、優衣は自分の机に頬杖をついて物思いに耽っていた。
あれからずっと、あの青年のことばかり考えている。半ば押し付けられる形で借りてしまったハンカチを見る度に、しこりが鮮明な形を持って心に沈んでいってしまう。いつか、感謝の気持ちとあのハンカチを返すことができたら――偶然出会った見ず知らずの青年相手には、ほとんど叶わない望みであるけれど。
そんな中、青年がHAYATOと同じ顔をしているという事実は唯一縋るべき希望の糸であった。
「あっ。そうだ、アイドルといえば……みんな聞いて! 来月、HAYATO様がウチの学校に来るんだって!」
例えば、今、誰かが興奮気味に知らせてくれたように、HAYATOが身近に来てくれたならば。それを確かめるチャンスはゼロではないのではないか、なんて夢のような可能性に縋ることもでき――
「……えっ?」
まさに唐突に訪れた、奇跡とも言える機会。気分と共に重く沈みかけていた瞼が、驚きに瞬いた。
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