きっかけは、他愛のないメールでのやりとりだった。
『今日はクラスに誕生日の子がいて、みんなでサプライズでお祝いしたんです。その子、すごく喜んでくれて、私もなんだか嬉しくなっちゃいました! そういえば、一ノ瀬さんの誕生日って聞いてなかったなーって思ったんですけど、もう過ぎちゃいました?』
『春日さんのクラスは皆、仲がいいんですね。クラス全員が一致団結してお祝いするというのは、なかなか聞いたことがありませんでした。ちなみに私の誕生日は今月の6日です』
昨晩に送ったメールに返事が来ていたことに気づいたのは、ちょうど今だった。淡々と流れていく文面の中に、とんでもない情報が紛れていた。暑さに溶けつつある思考がそれを読み込むのには、少し時間がかかった。
「む、むい……か……って、明後日!?」
頭を強く打つ絶望感に激しい目眩を覚えた。せっかくお祝いするつもりだったのに、プレゼントを用意する時間がないどころか、心の準備すらできていなかった。何がいいかと吟味する時間が、そもそもないのだ。
「なになに、どしたー?」
「友達の誕生日……ちょっと話の流れで聞いてみたら、まさかの明後日って……」
「お、もしかして、例の“お友達”?」
「あ、いや……」
机をくっつけあって目の前に座っている友人たちの、好奇心に満ちた視線が探りを入れてくるのに気づいて顔を上げると、嫌な予感がして肩を竦める。
現在、教室の一角で、友人たちと集まって宿題を進めていたところだった。家ではなかなか集中できないし、図書館だと独特の静けさに気が滅入ってしまう。人の少ない教室なら気楽でいられるし、わからないところは教えあえる。クーラーは設置されていないけれど、それなりに良い環境だった。
「そういえば、聞いたよー。裏方で買い出しに行った時に、優衣が男と仲睦まじく会ってたってね」
「そーそー、しかもかなりのイケメンだったんでしょ!?」
「えっ」
唇の端が引きつる。にやにやといやらしく笑う友人たちの言わんとすることは、言葉にせずとも察せられた。
「べ、別に、たまたま見かけたから声かけただけだし。友達なんだから、別に不自然でも何でもないでしょ」
「んー、今まで男っ気のなかった優衣に、男友達がいるっていうのが重要なんだけど」
「うっ」
鋭い指摘に言葉を詰まらせる。彼女たちは中学の頃からの付き合いだ。下手な誤魔化しは通用しない。目ざとく詮索してくる彼女たちには、はっきりとした言葉で否定しておかなくてはならない。
「前にも言ったけど、ほんとに純粋にただの友達だから。会っても全然そういう雰囲気にもならないし。お互い、そんな気は全くないって言いきってるくらいだもん」
「ええーっ、そうなのっ?」
決定的な情報を突きつけると、彼女たちはあからさまにがっかりした様子で顔を見合わせる。さすがに彼の素性まで話してしまうわけにはいかなかったが、興味を失いつつある友人たちの様子を眺めながら、これでよかったのだと思う。トキヤのことは、周りにはあまり言い触らしたくなかったから。安易に見られてしまったのは、自分がただ迂闊だっただけ。
「そんなことよりも! 男の人への誕生日プレゼントなんて何を用意したらいいかもわかんないし、今からじゃ全然間に合わないよ〜……」
今、目を向けるべきは、目の前の絶望的な事態だった。途方に暮れて嘆いていると、友人たちはさらなる残酷な現実を容赦なく突きつけてくる。
「てか、6日って文化祭の準備で集まるんじゃなかったっけ」
「え」
「あー、そういえば。なんか、衣装係も大道具とか手伝ったりする……んだっけ……?」
哀れみの眼差しが、遠慮がちに向けられる。あれだけ好奇心に目を光らせていた友人たちも、さすがに気を遣っているらしい。
「ああああもうだめだ〜……」
とうとう打ちのめされて力なく机に突っ伏してしまう。せっかく彼の生まれた大切な日を教えてもらったのに、一緒に祝福することが叶わないだなんて。思っていた以上にショックが強くて、気分がひどく沈み落ちてしまう。
そんな優衣に助け舟を出すかのごとく、友人たちは傍らで雑談を始める。
「あ。そういえば今朝のニュースでやってたんだけど、なんか来週の土曜日ぐらいに何とか流星群が見えるんだって!」
「何とか流星群……?」
「あー、あれでしょ。えーっと……名前忘れたけどわたしも朝見た! なんか、流れ星がいっぱい見れるんでしょ?」
「そーそー! なんでも13日の夜中がピークらしいって。週間天気も今のところ晴れ予報っぽいし、綺麗に見れるかもね〜!」
「あーあ。好きな人と一緒に星を眺められたら、ロマンチックで素敵よねえ」
うっすらと顔を上げると、うっとりと蕩けるように夢見る目がこちらに向けられていた。明らかに何かを訴えているのが、見てとれる。
「な、何が言いたいわけ……?」
「誕生日。当日はだめかもしれないけど、チャンスはあるってことよ!」
「いやいや、チャンスって何っ?」
「だって、優衣は散々否定してるけどさ。最近の優衣って、どう見ても……ねえ」
彼女たちが言わんとしていることが、わからない。別段、茶化している様子もない。こちらは何もトキヤとの関係を誤魔化しているわけではないし、嘘を吐いているつもりもない。それでも彼女たちは、まるで見たままを事実として捉えているかのような。こちらが見えていないものを見据えているような視線が、もどかしくて心地悪かった。
「な、なに?」
「ひょっとして、ほんとーに自覚なしなの? 今のあんた、見るからに恋してますって顔してるけど」
「え……」
残酷に突きつけられた事実に、激しい動揺が体中を駆け巡った。
そこそこに長い付き合いの友人に好きな人ができたのなら、それは確かに喜ばしいことなのかもしれない。彼女たちからすれば、純粋にそういう感覚なのだろう。彼女たちには何の非もない。しかし、優衣にとっては大事件だった。
『予め忠告しておきますが、早乙女学園でアイドルを目指す以上、恋愛禁止令という校則は絶対遵守しなければなりません。破れば即刻、退学を迫られます。……まあ、恋愛などという一時の幻想に溺れて夢を疎かにする時点で自業自得ではありますが。万が一あなたが私にそのような情を抱いてしまっても、私がその想いに応えることはまずありえませんので。よく覚えておいてください』
あくまでも協力者として彼との繋がりを持って、間もない頃だった。彼は厳しく冷たい口調でそう突き放したのだ。あれはきっと彼なりの優しさだったと、今なら思う。
もちろん、あの頃も理解はしていた。相手はこれからアイドルになろうとしている人で、そんな相手に恋愛感情など抱いても不毛なだけなのだと。元々そういうつもりで彼と接しているわけではなかったし、ただ彼が夢を叶える様を見届けたいだけだったから。だから、彼に恋をするだなんてありえない。あっては、いけないのに。
結局、あれから直接会話をする勇気がなく、喉の調子が悪いからと通話を断って、全てメールのやり取りで済ませてしまっている。文字ならいくらでも気持ちの揺らぎを誤魔化すことができる。彼に失望されることもないだろう。
だから、彼の誕生日にも迷いなく祝福の言葉を手向けることができた。邪念もなく、心穏やかに。その日は彼の方も予定があったようで、ある意味で都合が良かった。特別なことは何もない。一友人として、誰にでもやることだ。返ってきた言葉だって、祝福への礼としてごくシンプルなものだった。大丈夫、今までと何も変わらない。
確かに彼は大切な人だ。夢を叶えるために努力を惜しまずストイックで、たとえ思い悩むことがあっても独りで闘おうとする人。そんな彼を心から敬い慕っている。
そう、友人たちは恋をしていると言うけれど、きっとこれは恋ではなく尊敬なのだと思う。恋というものがどんなものなのか、まだ知らないけれど。何よりも優先するべきは、彼の夢が叶うように祈ることだから。
そうして自分の気持ちに折り合いを付けていった矢先、久しぶりにトキヤから誘いのメールが来たのだった――明日の夜、件の流星群を見に行こうと。
日が近づくにつれて、テレビなどでは特集が組まれたりして盛り上がりが増していた。天候などの条件が重なり、はっきりと美しく、目で見られるのは数年ぶりなのだとか。
『好きな人と一緒に星を眺められたら、ロマンチックで素敵よねえ』
不意に友人の羨望の声が蘇り、慌てて頭を振って追い払う。
こうして彼の方から誘いがあるとは、想定外だった。意外と天体観測が趣味だったりするのだろうか。勝手な憶測をしながら、返事を打つ。自分の中で彼への結論は出したのだから、もう大丈夫だと自信を持って。
彼と過ごす時間はとても貴重で大切なのだから、せっかくの機会を無駄にしたくない。友達として、また会えるのは楽しみだった。
家族には友人たちと星空を見に行くと伝えて、水色に澄んでいた夏の晴天が愁いの色に染まりつつある頃に家を出た。少しばかりの背徳感を噛み締めながら、待ち合わせに指定された駅へと向かったのだが、トキヤに会うまでに異様な緊張感が体を縛りつけていた。少しでも気を抜けば、邪念に囚われそうになる。可能性は全て否定したはずなのに。
「春日さん。少しお久しぶりですね」
待ち合わせ場所で面と向かった瞬間に、思考が停止する。パニックを起こして、言葉がつっかえてしまう。
体を強張らせていると、心配したらしい彼は不安げに顔を覗かせてくる。
「どうかしましたか? まさか、まだ具合が悪かったのでは」
「だ、大丈夫です、全然元気ですから! 一ノ瀬さんと一緒に何とか流星群見れるの、楽しみにしてきましたからね!」
「ペルセウス座流星群です」
「あ、ああ、そんな名前でしたっけー」
胸の鼓動が激しく緊張を訴えるのをどうにか抑え込んで、無邪気を装う。今にも崩れてしまいそうだが、必死に堪える。
何故だかいやに意識してしまう。今までと何も変わらないはずなのに、少しでも可能性を示されただけで取り憑かれてしまうなんて。
またぐるぐると不安を渦巻かせていると、不意に目の前に手が差し伸べられた。
「さあ、行きましょう。夜道は危険ですから、しっかり掴まっていてくださいね」
「……はい」
ああ、そうだ。掴んだ彼の手を絶対に離さないと誓ったから。信用してくれた自分のままで在ろうという決意を胸に、遠慮がちにその手を取ったのだった。
森のように生い茂る木々の中、一本の道が整備されている。他にそこを辿る者はおらず、鈴のような虫の音と風に揺られる葉音だけを小さく聞きながら、静かで不気味な夜の山道をふたりで歩み進んでいく。涼やかな風が緩く肌を撫でて、都会の夏とは違って快適だと、麓を発ってまだ間もない頃は余裕に構えていたのだが。
山を登り続けて、どれだけ経っただろうか。足に地道な負荷をかけ続けた末に、がくがくと震えて限界を知らせてきた。
「大丈夫ですか?」
「は、はいぃ……結構歩いたと思うんですけど……なかなか着かないですね……」
息も絶え絶えに、なおも一歩先で手を引いてくれる彼を見上げる。
「ええ。あともう少しだと思うのですが……少し休みますか?」
「い、いやいや! まだやれますよ!」
「……どうか、無理はしないでくださいね」
呼吸ひとつ乱すことなくこちらを案じて見下ろす様に、さすが日頃から体力作りをしているというだけのことはあると感心すると同時に、圧倒的な体力の差を目の当たりにして情けなくなる。それでも足を引っ張りたくはなくて、から元気を見せたのだが、彼は困ったようにこちらを見下ろすばかりだった。
その後も懸命に山道を登っていくと、やがて待ち望んだ頂が見えてきた。脇の灯籠の明かりにぼんやりと照らされた社が、ひっそりと暗闇の中に佇んでいる。意外にも、他に人はいないらしい。
その傍を突き抜けると、頂点から見下ろす山の茂みの向こうに小さく集まる街の明かりの頭上に、降り注ぐ眩い光の数々が、手を伸ばせば届きそうなほどに近くに見られた。
「わあ〜っ! すごーい!」
宵闇と流星の光が魅せる奇跡のようなグラデーションに、ふたりして息を呑んだ。
体にずしりと重くのしかかっていた疲労も、密かに抱えていた薄暗い悩みも、あっという間にきらびやかな世界に塗り替えられてしまった。目に映る光全てが、心の中まで眩く照らしてくれる。
ちら、と彼の横顔を盗み見る。大空を駆ける星の光を捉える瞳は、無垢な輝きに満たされている。
「こんなにたくさんの流れ星を見たのは初めてかも。これならお願いし放題ですよ!」
「はい?」
「ほら、流れ星ってすぐ消えちゃうし、どんなに必死に願い事唱えても絶対間に合わないじゃないですか。これだけあったら、どれかは叶えてくれそうだな〜って」
「何ですかその、数打てば当たる的な暴論は」
ときめきに躍らされて、自然と気分が高ぶっていく。あれだけ気後れしていた会話も、饒舌に交わされる。彼の少し呆れたような視線だって、楽しく受けとめられてしまう。
「だって、今日はとっておきのお願い用意してきたんですから」
「とっておきのお願い……?」
「一ノ瀬さんの夢が叶いますようにーってね!」
トキヤは一瞬、拍子抜けして黙り込む。そして少しの間を置いて、ふふ、と力が抜けたように小さく笑った。
「何もそのような不確かなものに願わなくても、それくらい自分の手で叶えてみせますよ。あなたはあなたの願い事をしてみては?」
「いいえ、これはあたしの願い事ですよ。一ノ瀬さんはいずれアイドルになって、世界中の人たちをみーんな虜にするんです。それをどこかで見届けるのが、あたしの夢なんですから」
大きく手を広げて仰ぎ見る、この果てなき天井に散りばめられた煌めきを、世界が向ける彼への眼差しに見立てて。いつか現実となると信じている未来に、大いなる期待を膨らませる。
「……どこか、ではなく、私の傍で見届けていただきたいものですがね」
小さく落とされた声に意識を引っ張られて振り向く。耳に届いた言葉は幻か、そのまま受けとめる勇気はなくて、半信半疑に確かめる。
「うん? 何か、言いました……?」
しかし、彼は静かに目を伏せて微笑むだけ。
「いえ……あなたの夢も含めて、私が丸ごと叶えなければと思いまして」
直接的な肯定でなくとも、恐れ多くも勝手に抱いたこの夢を一緒に背負ってくれることが嬉しくて、体の芯からじわりと温かい感動に満たされていく。
「じゃあ、一ノ瀬さんは流れ星みたいなものですね!」
「私が……流れ星ですか……?」
呆然と瞬かせる目は、理解が追いつかないと言わんばかりにこちらを見つめる。
「ほら、流れ星って人々の願いや夢を乗せて夜空を駆け抜けるわけじゃないですか。それってアイドルも一緒だと思うんです。アイドルに夢見た人々の希望を乗せて、ステージで輝くんですから。だから、一ノ瀬さんは流れ星と一緒なんですよ」
空高く指差した先で、またひとつ星が流れる。きっとあの星にも誰かの願いが託されているのだろう。
隣で柔く目を細める彼にも、きっと。今、この瞬間に託した夢だけでなく、もっとたくさんの人々の夢や祈りが集まっていくのだと思った。
「……流れ星よりも、私はあなたにとっての一番星でありたいですね」
「一番星?」
「流れ星では、すぐに見えなくなってしまいますから。たとえ遠く離れていても、一番星のようにあなたの心に希望の光を常に灯す存在でなければ」
穏やかな声色なのに、そこには揺るぎない自信を秘めている。静かに燃え上がるような熱が瞳を、鼓膜を伝って心臓を浮かす。そして指の先まで走る甘い痺れに、突如畏怖を覚えた。
溢してはいけない。咄嗟におどけた笑みを貼りつけて、胸の中で疼く感情を自らはぐらかした。
「……それ、もしかして未来のステージで使う口説き文句ですか〜? なるほど、いい感じにキザでキマってると思いますよ!」
「い、いえ、そういうつもりではなかったのですが……」
改めて指摘されると、気恥ずかしいものなのだろうか。珍しく狼狽えている様がなんだか可愛らしく思えて、小さく笑ってしまった。
「でも、そういうファンサ的なセリフは大事だと思いますよ! 素敵な男性にそんな風に言われたら、やっぱり夢見てときめいちゃいますし」
「ほう……それはつまり、あなたにもときめいていただけたということでしょうか」
「え……! っと、そうですね……ちょ、ちょっとだけ……」
ちょっぴり調子に乗っていたところを、意表を突いて仕留められてしまった。悪戯に覗き込む視線は、とても興味深そうにこちらへ注がれている。
驚いて咄嗟に嘘を吐いてしまった。この激しく翻弄される心は、絶対に知られてはいけないと思った。それなのに、彼はこちらの気も知らずに熱のこもった眼差しを向けて。
「そうですか。では、もっとあなたに夢中になっていただけるよう、これからも精進しなければいけませんね」
逃げることを許してくれなかった。
彼はきっと、彼なりにいずれ出会えるファンとの向き合い方を模索しているのだと思う。自分だって彼のファンなのだから、こうして真っ向から大切にしてくれるのは喜ばしいことだ。……なのに、邪な情を彼に抱きつつあることを自覚してしまいそうで、臆病にもその真っ直ぐな眼差しを受けとめるのが怖かった。
『あなたにはどうか、これからも私の隣で、私の見る世界を色鮮やかに塗り替えていただきたいのです』
でも、彼の願いは叶えてあげたいから、弱虫は全部閉じ込めて、何でもないように笑ってみせるのだった。