「いたたたっ……」
「どうしたの、そんなおばあちゃんみたいな声出して」
脚を襲う激しい筋肉痛に悶えていると、傍から友人が怪訝な顔をして見下ろしてくる。
「な、なんでもな……あーっ!」
少し態勢を変えただけで、激痛が走る。耐えきれずに悲鳴をあげると、周りの目はますます何事かと集中する。ぷるぷると震えながら床で転がっていると、興味津々に近づいてくる別の友人の姿が。
「あははっ! 何やってんの優衣、生まれたての子鹿みたーい!」
指まで差して、声をあげて大笑いする友人に、恨めしく視線を向ける。
「ちょ、ちょっと日頃の運動不足が祟っただけだもん」
「何、そんなに激しい運動したの?」
「いや……友達と山登りとかしてみちゃったりして……」
「山登り!? 家族と一緒ならまだしも、友達とって……渋くない!?」
「だって、山の上の方が星が綺麗に見えるからって! ……あっ」
勢い余って墓穴を掘ってしまったことに気づいて、慌てて口を噤む。しかし、断片的ながら事情を知っている友人たちは、既に好奇心に目を光らせていた。
「へー? ちょっとその話、後で詳しく聞かせてもらっちゃおうかなー?」
「うっ、それはノーコメント!」
また余計に詮索をされては堪ったものではない。気を引き締めて、頑なに拒否を示した。それでも諦めの悪い友人たちは放っておいて、板に貼りつけた大きな紙にペンキを塗り進める手に集中した。
文化祭の準備は着々と進んでいる。衣装係としての仕事は大方終わってしまったので、今は校庭の日陰を借りて背景の製作を手伝っている。片や教室で練習している役者チームも、だいぶ台詞に慣れてきたようだった。
「そーいえば、文化祭にまたHAYATO様が来るって聞いた!?」
時折、集中の切れた者がこうして思い出したように雑談を切り出しては気を紛らわせていたのだが、美術部として大道具を仕切っていたひとりの女子が口にした衝撃の情報に、皆のテンションが涌いた。
「えっ、何それ聞いてない!」
「また番組の企画で、ダンス部と一緒に文化祭のステージで踊るんだって!」
「えーっ、そんなの絶対見に行くに決まってるじゃん! いつ!?」
「確かエンディングの方だったかなー」
「よかったー、みんな見れるじゃん!」
主に女子たちが黄色い声で大はしゃぎしていたが、その傍らで優衣は気まずい思いをしていた。
HAYATOに会うのは、以前にこの学校を訪れた時以来だった。トキヤを通じて言葉を交わしたこともあったが、まともに面と向かって会うのは初めてだ。とはいえ向こうは仕事なのだし、実際に顔を合わせることもないだろう。
「おーい! ちょっと一旦集合!」
非常口から慌てた様子で出てきたのは、役者陣を仕切っていた演劇部の男子だった。まだ作業途中だというのに、何かあったのだろうか。美術部の女子が不満げに唇を尖らせる。
「何よ、今いいところなのにー」
「いや、今思いっきり私語してたよな!? そんなことより、大変なんだよ。可哀想な方のシンデレラに欠員が出ちまって」
「ど、どういうこと?」
結局、一部の美術部員を始めとする大道具係の者だけが残り、優衣を含む手伝っていた側の人間は教室に集められることになった。
魔法にかけられる前後でシンデレラの配役は分かれていたのだが、どうやらかけられる前のシンデレラを担当していた子が足を骨折してしまったらしく、ひとまず短期入院することになったのだという。そういえば今日は連絡もなく練習に来ていなかったようだが、まさかそこまで大事になっていたとは。
「……で、誰か代役を頼みたいんだけどさあ。誰かやってくれる人いない?」
文化祭は来月の中旬。ほぼ主役といってもいいポジションを、あと一ヶ月もしないうちに完成させなければならないというのだ。無謀だと理解して、監督はすっかり意気消沈している。
「いやいや、責任重大すぎるでしょ。絶対無理だよ」
「ここは早着替えで何とかして、シンデレラで纏めて一役にしちゃうとか……」
「いや、それこそ無茶だよ。着替える場所だってないし」
いくら出番が分かれているとはいえ、よりにもよって主役だ。敷居が高い上に残された時間が短いとなると、誰も手を挙げようとはしない。
「くそー。こうなったら、王子様のご指名でもお願いしちゃおうかなーなんて」
自棄を起こしたか、遂には決定権を丸投げしてしまった。気安く肩を叩かれた王子役の男子は、臆する様子もなく教室を見渡して思案する。
彼はクラス一のイケメンと言われており、サッカー部では期待のルーキーとも囁かれている、所謂典型的な人気者だ。かといってクラスの女子たちに特別な好意を抱かれているわけでもなく、どちらかというとアイドル的存在として遠巻きに見守られている。
他のクラスの女の子から告白されただの、遂には他校のサッカー部のマネージャーからも告白されただの、クラスメイトは完全にスキャンダルを楽しむという感覚だ。優衣にとっても別段接点があるわけでもなく、他人事のように噂話を耳にするだけ。
不意に、そんな彼と視線が合ってしまった。たまたま、ではない。彼は何故か、しっかりとこちらを見据えている。
「……俺、春日がいいんじゃないかって思うんだけど」
「な、なんで!?」
「なんとなく、シンデレラのイメージぴったりっていうか。普段あまり目立たないけど、健気で一生懸命だし、裏で頑張ってる感じとか」
気恥ずかしさのようなものが、肌の上を駆け抜けた。会話もほとんど交わした覚えがないというのに、いつの間に見られていたのか。動揺のあまり肩を竦めて固まっていると、監督の視線が目敏く走った。
「あー、確かにアリだな。どうよ、春日。シンデレラ、やってみない?」
「いやいやいや! そういうのはちょっと〜……演技とか自信ないし、セリフも覚えられる気しないし、絶対緊張して無理だし!」
「うーん、そこを何とか〜!」
そんなに軽々しく頼まれても、自身のスペックに見合わなさすぎる。必死に断ろうとするも、相手は一向に折れてくれる気配を見せない。そして、極めつけには王子様からの懇願。
「俺も練習に付き合うからさ。頼むよ。このままじゃ、練習も進まないし」
「うっ……うううう……わ、わかった。やれるだけ、やってみる!」
もう、どうにでもなってしまえ。良心をなし崩しにされた優衣は、自棄になって首を縦に振った。途端に周りの空気が晴れやかに変わる。特に監督は、それはもう感激して力強く拳を握り締めている。
「春日……! ありがとう!」
「俺もできるだけサポートするから。よろしくな」
「う、うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
ほぼ初対面のような緊張に包まれながら、快い微笑を浮かべる王子様を前に改まって頭を下げた。
*
『一ノ瀬さん、一生のお願いがあります……演技のノウハウをあたしに教えてください……!』
一生のお願いを軽率に使うなとか、そういう野暮な指摘は置いておくことにして。泣いている顔文字まで添えられて送られてきたメールだったが、内容が端的すぎて事情が全く読み込めずに首を傾げたのは、つい先日のことだった。
文化祭のことにしても、確か彼女は衣装係ではなかっただろうか。疑問を浮かべて送り返すと、次に送られてきたのは詳細な事情だった。病気で欠員が出た“可哀想な方のシンデレラ役”に、よりにもよって王子役の男子生徒に指名され、案の定人の好い彼女は情に流されて断れなかったと。
なるほど、変身前のシンデレラなら彼女の雰囲気に合うかもしれないと、想像して腑に落ちてしまったのは内緒である。
『いいでしょう。いつもお世話になっていますから、特別レッスンをしてさしあげますよ』
そこから、実にスムーズに予定が組まれていった。さすがにこの手の事情なら外で会うわけにもいかず、かといってこちら側に招くわけにもいかない。どこか個室を借りるほどの用事でもないと彼女は言い張るので、結果、苦渋の決断として彼女の部屋に上がり込むことになってしまった。
躊躇しなかったわけではない。それでも尊重すべきは彼女の願いで、我々の間には何も疚しいこともない。あくまでもただの友人なのだから、特別な意識は必要なく、堂々と構えていればいいのだ。そう自身に言い聞かせて、来たる日を迎えた。
「ああもう、覚えられない〜!」
薄いピンク色の羽毛絨毯の上、部屋の真ん中に置いてある小さな丸テーブルに台本を広げて、ふたりで台詞を読み合わせていたのだが。集中力が途切れてしまったらしい彼女は力なく寝転がり、傍にあったクッションを抱える。少々無防備なのではないだろうかと小言を浴びせそうになったが、懸命に台本と向き合う姿勢に免じて黙っておくことにした。
「あなたはきっと、文章を覚えようとするから覚えられないのだと思います。物語の流れや情景をまず捉えていくと、案外すんなりと台詞まで覚えていけるかもしれませんよ」
「流れや、情景……」
幼気な上目遣いに縋るような視線を向けられ、何かぐっと熱く込み上げるものがあったが、それはさておき。
小さな子どもを宥めるように優しい手つきで頭を撫でると、彼女はぴくりと目を瞑って体を小さく揺らす。嗚呼、柔らかく艶のある黒髪は、至極触り心地が好い。じっくりと手のひらで感触を愉しみながら、緩やかに撫で続ける。
「得意でしょう? 人の感情を読み込んでいくのは」
「そ、それは……」
「まずは台本を読みながら、もう一度物語をさらってみましょうか」
こちらの提案にこくりと控えめに頷いた彼女は、抱いていたクッションを傍らに置いてゆっくり起き上がる。その頬はほんのり血色が良くなっていて、不思議と甘やかな衝動にそそられてしまいそうになる。ああ、いけない。理性を研ぎ澄ませて、己を律する。そして何事もなかったかのように、また台本に目を落とすのだった。
台詞の読み合わせではなく朗読という形で、ふたりで台詞を分担して読み進めていく。時折、彼女なりのシンデレラの解釈を挟んでみたり、それに対してこちらからも意見してみたり。こうして童話を改めて読み取っていくというのも、こちらとしては初心に帰ったような、なかなか充実した時間だと思う。
後半になるにつれて、ガラスの靴を頼りにシンデレラを探しだした王子の心情が高まりを見せていき、つられるようにこちらの心までもが目の前のシンデレラを求めようとしてしまう。
「……ああ、ようやく見つけた、私の運命の人。ずっと探していたのです、他でもないあなたを」
やけに己の心境とシンクロする言葉に、自然と熱が入る。もう逃すまいと固く手を握って、シンデレラを一心に見つめる。シンデレラの瞳は焦りと動揺が溢れて潤み、頬も鮮やかに紅潮している。そこへ、もう一押し。
「必ずや、生涯あなたを幸せにすると誓いましょう。だからどうか、私のお妃になっていただけますか?」
「あ、あの、えと、よ、喜んで……!?」
混乱の末にひっくり返る声は、感動の場面を打ち壊すかのごとく、情けなく部屋に響いた。これでは先が思いやられる。トキヤは堪らず深いため息を吐き出す。
「そこで恥じらいを持つようではいけませんよ」
「だ、だって! 普通に恥ずかしいんですけど、これ!」
「仕方ないでしょう、脚本がそのように台詞を要求しているのですから」
「それはそうですけど……!」
もはや悲鳴のような声が訴えを叫ぶ。すっかり耳まで真っ赤に染めて、やれやれ、先が思いやられる。見ていると少しの加虐心が生まれそうになるが、今は堪える。
「慣れるまで、練習を繰り返すしかありませんね」
「ええっ!?」
「おや、学校でもそのような顔を見せる気ですか? 私しか見ていない今のうちに、恥を晒しておきなさい」
「恥って……あたし、そんなにみっともない顔してましたかっ?」
さらなる恥に追い詰められた彼女は、今にも泣きだしそうな顔でこちらを見上げる。腹の底が熱に疼く。それでもトキヤは冷ややかに演じてみせる。
「みっともないと言いますか……他の人には見せてはいけない顔をしていましたね」
「一緒じゃないですかそれー!」
喚きぶつけられる文句を涼しい顔で受け流しつつ、腹の中ではその顔を独り占めしてしまいたいという邪な衝動を潜ませている。
「ううん、学校で恥を晒すのはやだなあ……絶対みんなにからかわれるんだ……ううう」
顔を赤らめたまま苦悩に眉を寄せ、項垂れる。そしてしばらく奥歯を噛み締めて唸り続ける彼女だったが、やがてこちらの袖を控えめに引く。
「一ノ瀬さん」
「何です?」
「特訓、お願いしてもいいですか」
表情は未だ険しいが、覚悟を決めた眼に揺るぎない光を宿して見上げてくる。求められるがままに絆されて、トキヤは気分好く微笑を浮かべる。
「いいでしょう。あなたから言いだしたのですから、待ったはなしですよ」
「の、望むところです!」
力強い返答に満足して、遠慮という良心を容赦なく捨てた。――地獄の特訓が、幕を開ける。
「あああすみませんもうゆるしてくださいおねがいしますだめですむりです」
とりあえずこちらまでもが恥ずかしく思えてくるような台詞を、思いつくだけをありったけ浴びせていった末に、とうとう彼女は発狂してその場で土下座してしまった。よほど初心らしい。反応を眺めながらいたぶるのはなかなかに愉快なひとときだったのだが、随分と呆気なく終わってしまい、物足りなさを感じる。
「これはいけませんね」
「だって、こんな……うっ……刺激が強すぎますし……」
「そんな、泣かなくても……」
やりすぎた。ぐずぐずと鼻をすすりながら泣きだす様を前に、さすがに罪悪感を覚えてしまった。
「なんだか一ノ瀬さんに純情を弄ばれた気分です……」
「人聞きの悪いことを言わないでください。そんなことでは、舞台は成功しませんよ」
「というか、よくよく考えてみれば一ノ瀬さんの演技の問題だと思うんですよね! こう見えて、学校で試しに王子役の子と一緒に台本読み合わせた時は全然大丈夫でしたし!」
「こちらはプロを目指す身ですから。素人の方と一緒にされては困ります」
「ううう、それはそうですけど〜……」
不満げに頬をやや膨らませて、じっとりと恨めしくこちらの目を見上げてくる。ふてくされた子どものように幼くて、しかしそれが不思議と疎ましくはなく、むしろいっそう悪戯心を擽られてしまう。
「それに、あなたの反応を見ていると、つい……ね」
「や、やっぱり弄んでたんじゃないですかー! 一ノ瀬さんのいじわる」
「ふふ、すみません。あなたといると、どうも子どもじみたことをしてしまいますね」
笑いながら自らを省みる。彼女のころころと移り変わる表情を見ていると、もっといろんな色を見たいと欲が生まれて転がしてしまう。そうしているうちに、自身もつられて様々な表情が色づいていくのを、最近自覚するようになった。彼女と出会ってから、笑う瞬間が増えた気がする。
自分は今、どのような顔をしているだろうか。彼女はこちらを拍子抜けしたように丸くした目で見つめてから、ふとどこか悩ましげな色を瞳に滲ませ、小さく呟く。
「……そういうの、ずるいと思います」
そして、すぐさま視線を余所へと泳がせてしまった。
「春日さん……?」
目を合わせようとしても、逃げられてしまう。何か後ろめたい感情に縛られているらしい彼女は、自らも困惑している様子だった。
顔をよく見せてほしい。慎重な手つきでその頬に触れようとすると、彼女はするりと躱して立ち上がり、表情を明るくすり替えてしまった。
「なんだかちょっと疲れちゃいましたし、いったん休憩にしましょう! あたし、飲み物入れてきますけど、何がいいですか?」
「あ……ああ、ありがとうございます。お茶で構いませんよ」
「わかりました! ちょっと待っててくださいねー」
そそくさと逃げるように部屋を出ていく後ろ姿を、呆然と見届ける。
近頃、彼女の様子がおかしい。よく上の空になったり、急に動揺したり。挙げ句の果てには、何か思い詰めた表情を見せて、こうして距離を取られてしまう。
彼女には既に幾度となく救われている。だからこそ、今度は自分が彼女のために何か貢献したいという想いが膨れ上がっていく。このような感情を抱くのは、生まれて初めてだった。
「お待たせしましたー! ただの麦茶ですけど、よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
やがてトレーにコップを乗せて颯爽と戻ってきた彼女は、何事もなかったかのように振る舞う。隣に座り、机に麦茶がなみなみ入ったコップを置くその横顔には、隙さえなかった。
食い入るように見つめるこちらの視線に気づいて振り向いた彼女は、きょとんと小さく首を傾ける。
「ん、どうしました?」
「いえ……」
一切踏み込むことは許されない。頑なな線引きがされているように感じて、トキヤは触れるのを躊躇った。そんなことも知らずに、彼女は何食わぬ顔で問うてくる。
「あ。そういえば、HAYATOさんが今度うちの文化祭に来るって友達が言ってたんですけど、何か聞いてます?」
そういえば、そのような企画が出ていたことを思い出す。以前に彼女の学校を訪れた時の企画の続編といった形だ。文化祭のエンディングステージの大トリを、そこのダンス部と共に飾ることになっている。
下手に反応をして、彼女が疑心を深めてしまうと不都合だ。今は素知らぬ振りをしておくに限る。
「いえ、兄とは特に連絡を取り合っているわけでもありませんので」
「んー……ずっと思ってたんですけど、一ノ瀬さんってお兄さんと仲悪いんです?」
「別に。私が一方的に疎ましく思っているだけですよ。私の方がもっと上手くやれるとね」
これは本心だった。本来の自分であれば、きっと今以上にこの業界で活躍できるはずなのに。HAYATOというキャラクターの方針と、そこに費やされる時間が邪魔をする。一ノ瀬トキヤとして存在をこの世に刻むための時間すら、阻まれてしまう。
きっと、何も知らない彼女には伝わらないだろうが。それを体現するように、彼女はやはり不満げな視線を向けてくる。
「一ノ瀬さんはそう言いますけど、あたしはHAYATOさんのことも凄い人だと思ってますよ。だって、自分がどんなに辛くても、それを表に出すことなく笑顔でみんなに元気をくれるんだもん。そんなHAYATOさんの努力は決して誰かと比べるものでなければ、誰かに否定されるものでもないと思います」
それはHAYATOが届けるものを心から受け入れる彼女の、確固たる肯定だった。苦悩しもがきながらも闘い続ける自身の行いは決して無駄ではないと、何も知らないはずなのに教えてくれている。
「だって、一ノ瀬さんだって誰にも負けないくらい努力してるのに、たくさん苦しんでも頑張ってるのに、簡単に否定されたくないでしょ?」
「別に、私は……」
「少なくともあたしは嫌です、一ノ瀬さんが誰かに否定されてしまうのは。そんなの、絶対にやだ」
彼女の表情が悲しみに染まっていく。厳しく眉を寄せて、膝の上で拳を固く握りしめている。それでも今にも泣きだしそうなほどに濡れた瞳は真っすぐに、こちらの瞳を捉える。
渇ききった心の底に秘めたる本音を鏡に映しだされているみたいで、逸らしてしまいたい気持ちに駆られる。長年、この業界に身を置いている者としては、もうとっくに割り切っている事情だ。今さら、そんなものに心を病んでいる余裕すらないというのに。
「私はそもそも、自分が万人に愛される人間だとは思っていませんよ。多くの人の目に触れるのですから、私が気に入らないという方に批判されるのも仕方のない話です」
「そんな……」
「でも、私にはあなたがいますから。独りではない限り、たとえ膝が崩折れても立ち上がることはできます」
それでも、こちらの想いを一緒に抱えてくれる彼女の優しくも繊細な感受性は、尊ぶべきだと思った。窮屈に縛られた心を柔らかく解いてくれるその温かさを、手離してはいけない。だから、抱えなくてもいい苦しみに耐える拳を解きたくて、優しく触れて包んだ。
「あなたがいるなら、私は無敵ですよ。あなたがHAYATOのことも同じよう応援してくれているのなら、HAYATOもきっとそう思っているはずです。不本意ですけどね」
一ノ瀬トキヤとして、そしてHAYATOとして、そのひたむきに注がれる深い想いは確かに受け取ったと伝えたかった。
次第に力が抜けたように柔くはにかむ彼女を見て、胸が甘い熱に浮かされていく。ああ、あれほど彼女に忠告していたのに。その甘さに溺れていった他者を散々に蔑んできたのに。確かに自分は彼女に惹かれているのだと、気づかざるをえなくなってしまった。
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