解放的な空気を謳歌し尽くした夏休みも遂に終わりを告げ、まだふわふわと気楽な余韻に引きずられながらも新学期を迎えてしまった。規則正しく過ぎ行く時間にだらけきった集中力は置き去りにされ、それでも授業の間や放課後を縫って文化祭の準備は懸命に進められる。
大道具と小道具、衣装の仕事はもうほとんど終わっている。あとは役者と照明や音響のタイミングを合わせたり、場面転換はどうするなど、本番を想定した練習を詰めていくといった状況だ。
周りの仲間たちやトキヤのアドバイスのおかげもあって、優衣は順調に台詞を覚えて演技に集中できるようになってきた。意外と自分はできるのかもしれないと可能性に気づいてからは、浮かれているのか不思議と練習も楽しくなっていた。
「春日、なかなか板についてんじゃん。いかにも不幸背負ってますって感じすげー出てるし、やっぱ春日のイメージぴったりだな!」
「ははっ、ありがとう……」
監督のお墨付きも貰った。……褒められているのか貶されているのか、微妙な気持ちではあるが。
夏休みもしっかり堪能したし、宿題も無事に間に合わせたし、こうして高校ならではの行事にも熱を入れて取り組んで、順風満帆な高校生活を送れていると思う。クラスメイトも特に揉め事を起こすこともなければ誰かの愚痴を言い合うこともなく、優しく協力的で恵まれている。
なのに、胸にはひとつの懸念がわだかまりとなって留まっている。それを深くため息にして吐きだしてみても、悶々と抱える想いが解消されることはない。
好きになってはいけない人を、好きになってしまった。もう誤魔化すことはできない。これはきっと、恋なのだと。
予め忠告は受けていたし、互いの立場も理解していたつもりだった。ただ純粋に彼の夢を応援していたかっただけなのに、彼の心に触れるにつれ深みにはまってしまっていた。
あれから本格的に直接的な対話をする勇気もなく、またちょうど彼の方も夏休みを終えて忙しくなってきたようで、淡々としたメールの文面だけでの交流が進んでいた。
彼は何も知らずにこちらの演劇に対するアドバイスをくれ、舞台の成功を願ってくれている。とてもありがたいはずが、なんだか純粋な厚意を踏み躙っている気がして、妙に落ち着かない。
罪の意識の末にいっそもう関わらない方がいいのではないかと慄く一方で、やはり彼との約束が目にありありと浮かんでは断ち切れずにいる。裏切るのが恐ろしくて、傷つけるのも傷つくのも嫌で、優柔不断に塞がってしまう。
だからせめて、少しでも夢のような時を長らえようと。だめになりそうな時は距離を取って、寄り添うべき時は寄り添って、付かず離れず振る舞えばいい。過ちの片鱗さえ見せないように、大事に大事に抱えていくことにしたのだが。
「どーしたの? さっきからため息ばっかり」
「えっ!? あ、いや……なんでもない」
ぼんやりと靴箱に手を伸ばしたところで、唐突に友人の顔が怪訝にこちらを覗き込んできた。びっくりして心臓が強く跳ねると共に、混沌と渦巻いていた思考が吹き飛んでしまった。
「えと……あたし、そんなにため息ついてた?」
「うん、めちゃめちゃついてた」
「しかもあからさまに悩んでますって感じの、でっかいため息」
「ええ……」
いつもの友人たち3人の容赦ない指摘が突き刺さる。無関係である人間の前でさえ、心の惑いを隠し通せないだなんて。己のあまりの軟弱さに、さすがにショックを受けてしまった。これでは、最も知られてはいけない人にだって悟られてしまうではないか。
「なになに〜? ひょっとして、劇の練習が上手くいってないとか?」
「別にそんなことはないけど」
「確かに、さっきもわりと順調そうに進んでたもんね」
「はっ、まさかウチの王子と何かあった!?」
「いや、何かって何」
「そりゃあやっぱ、芝居を越えたラブロマンス的な〜!?」
「あー、ないない」
「ええーっ。でも優衣を代役に選んだの、あいつなんでしょー?」
「それはそうだけど。別にそういうのじゃないでしょ」
靴を履き替えながら、友人たちはあれやこれやと愉快に突っつき回してくる。突かれているこちらは全く愉快ではないが、彼女たちなりにも心配はしてくれているようなので、無下にせず聞く流しておくことにする。
「あ、わかった。さては例の彼と何かあったな〜?」
「っ!? ち、違う!」
しかし、不意に核心を突かれると心臓は過剰に反応し、鋭い否定を突きつけてしまう。無邪気に詮索を続けていた彼女たちは呆気にとられ、きょとんとした顔で見つめてくる。
ああ、やってしまった。また墓穴を掘ってしまった。焦燥に上擦った声も、わかりやすく速まる鼓動も、肯定として捉えるのには充分だった。
「……あんた、ほんとわかりやすいよね」
そこまで酷く顔に出ていたのか、友人たちは哀れみの眼差しで、恐らくは真剣に心配してくれていた。この期に及んで否定も言い逃れもできず、唇は固く閉ざされる。
先程まで賑やかだった空気に、静かな影が落ちる。真っすぐにこちらを見つめる視線がなんだかいたたまれなくて、目を合わせられずに足元へと沈んでいった。
「よっし、明日詳しく聞かせてもらうからな!」
「優衣の初めての春だもんねえ。作戦会議しなくちゃ」
「明日は絶対逃さないよ〜!」
それでも友人たちは明るく振る舞い、強い力で肩を組んだり目の前で獲物を捉えんと笑いながら睨みつけてきたりする。励ましてくれているのは明白だ。ほんのり救われた気持ちになって、自然と小さく笑みが吹き出た。
「もう、そんなプレッシャーかけないでよ」
作戦会議なんてしたところで、この恋が叶うはずもないけれど。彼女たちの協力はとても安心を与えてくれて、苦しみに塞ぎ込んでいた心が解れていった。
背中を押されながら玄関を出ると、外はすっかり日が沈んで夕闇が下りていた。まだまだ地に残る暑さを拭い取るような涼しい風が、優しく吹いている。
新学期が始まってから、帰りはずっとこんな調子だ。本番まで残り一週間程。今は文化祭のことに集中しなければと、己を奮い立たせた。
*
一般的な高校の文化祭にしては規模が大きく、随分と力が入っている。HAYATOとして彼女のいる高校に足を踏み入れてみて、率直に感じたことだった。
校舎内の装飾はとても凝っており、敷地内の各所には屋台なども多く並んでいるし、何より人が多く、それはそれは活気に溢れている。ここの生徒の家族や、恐らくは他校の生徒も多く来訪しているのだろう。
HAYATOとここのダンス部のステージはまだまだ先だが、せっかくだからとこの文化祭を一日かけて取材することになった。カメラの存在もあってすっかり注目されてしまい、黄色い歓声を常に浴びながら校内を回っていった。
「それでは、いったん休憩にしましょう。休憩所となる教室は確保していただいてますので、そちらへ」
「わかりました」
取材が一区切りすると、スタッフの誘導で校舎の最も奥へと向かう。学校側の計らいで、その辺りは文化祭の間だけ関係者以外の立ち入りを禁止しているらしい。
次第に人通りが疎らになっていく廊下を、今後の段取りに関しての確認をスタッフと交わしながら進む。まさに祭りのような賑わいを見せていたエリアとは打って変わって、こちらは休日の校舎の静けさが満ちている。
「あああ、緊張する〜」
ちょうど通りがかった教室から、絞り出したような弱々しい声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に思わず振り向くと、少し開いた扉の隙間からよく見知った姿が垣間見れた。
変身する前のシンデレラの素朴な衣装に身を包んだ彼女は、同じくそれぞれの役の衣装を纏う同級生たちに囲まれて、机に伏して覇気のない目で前を見つめている。
つい立ち止まりそうになってしまったが、咄嗟に足に力を加えて前へ進ませる。しかし、視線は尚もガラス窓の向こう側に吸い寄せられてしまう。
「あははっ、優衣ってば顔真っ青だよ〜」
「こういう人前で何かするの、慣れてないんだってば。うっ、吐きそう」
友人だろうか、長い髪をふたつに結んだ女子生徒は大っぴらに笑いながら優衣を揶揄う。その傍ら、恐らくは変身後の綺麗な水色のドレスを着飾ったシンデレラと、かっちりと襟の詰まった正装に身を包む王子が懸命に励まそうとしている姿が窺える。
ふっ、と自然に口元が緩みそうになるのを堪えて、そのまま素知らぬ顔で通り過ぎる。自分の前では何かと思いきった言動でこちらの意表を突いてくる彼女も、やはりこういった場面では気弱なのだと初対面時を思い出して微笑ましくなった。
後ほど空いた時間があれば、励ましのメッセージでも送ってやろう。いつも応援してくれている彼女のひたむきな努力が報われるように、人知れず願った。
*
「そろそろ移動するぞー」
体育館で他クラスの劇の偵察をしていたらしい監督が、教室に戻ってきた。ついに出番が間近にやってきたのだという緊張から、待ちぼうけて弛んでいた空気がほんのり引き締まる。
「はーい」
「はあ、遂にかあ」
「できる限りのことはしてきたんだし、何とかなるだろ」
「さ、みんな頑張ろう〜!」
主役の2人が率先して皆を鼓舞してくれることで、本番に向けて連帯感が生まれ始める。本当にいいメンバーに恵まれたと感じながら、優衣も気を引き締めようとしていた。
「ん……?」
体を強張らせながら立ち上がったところで、机に置いていた携帯が振動し始める。教室を出る前に確認だけしておこうと画面を開くと、メールの受信画面に一ノ瀬トキヤの名前が刻まれていて、驚きに息を呑むと同時に悲鳴じみた声をあげてしまった。
先に教室を出ようとしていたクラスメイトたちは、足を止めてこちらを振り返る。
「ん? どうした?」
本文にしたためられた激励の言葉に救われたのも束の間、慌てて携帯を閉じて鞄に仕舞い、何事もなかったように彼らの後に続く。
「ううん。友達が、頑張れってメールくれてたから」
「友達って……まさか、例の彼!?」
「えっ」
「彼って……?」
しまった、と笑顔が引きつる。事情をそこそこに知っている友人が、すぐ傍にいるのを忘れていた。現に、彼女は目を輝かせてこちらを凝視しているし、他のクラスメイトたちから好奇心の入り混じった注目まで浴びてしまっている。なんだか居心地が悪くなってきた。
「い、いや、まあ、そうっちゃそうなんだけど……」
「よかったねー! 何だかんだ脈アリなんじゃないの?」
「そんなわけないでしょ!」
無責任にも恐れ多いようなことを言わないでほしい。思わず焦ってむきになってしまった。
それでも傍らで、主役の2人が関心を示してしまっているではないか。余計な情報が出回ってしまった気がする。
「ひょっとして、春日さんの好きな人……?」
「へえ……」
「い、今はそんなことよりも! 本番、頑張ろうね!」
そう、今は集中を乱す時ではない。トキヤにだって力を貰ったのだから、必ず成功させなければ。意気込んで半ば強引に話をぶった切ってやったものの、周りは何故か和やかに笑っている。
「ふふっ。春日さん、急に元気になったね〜」
「愛の力ってやつ〜!?」
「んも〜、そんなんじゃないってば!」
はやし立てる彼女たちに翻弄されつつ、確かに背中を押してくれる彼という存在の力を否定することはできなかった。
『今日は応援のメッセージをありがとうございました。緊張したけど、一ノ瀬さんのおかげでちゃんと練習の成果を発揮できました!』
先ほどまで風呂でゆっくり疲れを癒やしていた体をごろんとベッドに投げだし、まだお祭り気分が抜けないまま上機嫌に携帯の画面と向き合う。
自分があんなふうに大衆の前で、よりにもよって主役を演じてしまうだなんて、未だに信じられない。人前で何かを発表するのは緊張してあまり得意ではないし、どうせ迷惑がかかるだろうから絶対に裏方に徹しようと決意していたのに。
彼が応援してくれていると解った瞬間、体の奥底からどこに眠っていたのかも知れない勇気が湧いてきたのだ。これが恋の力というやつなのだろうか。
優衣だけでなく皆がこれまでの練習の成果を存分に発揮し、おかげで舞台は無事に成功を納めることができた。これを機にクラスはますます結束を固め、達成感に満たされながらも次の行事にまで意欲を繋げていた。いいクラスメイトたちに恵まれたと、心から思う。
『それはよかったですね。あなたの努力の賜物ですよ。お疲れ様です。あなたの勇姿を見られなかったのが残念です』
少しして返ってきた労いの言葉に、ますます口元が緩む。
プロを目指すような人に改めて観てもらうのは、やはり少し恐れ多く思ってしまうけれど。せっかく熱心に指導してくれたのだから、成長を見てもらいたかったという気持ちは多少なりともあった。だからたとえ世辞だったとしても、そう言ってもらえるのは嬉しいものだ。
そして関連するように、高揚した気分で思い出されるのは、HAYATOのパフォーマンスだった。今でも鮮明に思い出すことができる。レベルの高い迫真のダンスとブレない歌声は、人々の視線と耳を惹き付けて魅了した。画面越しで見るのとは違う、生だからこその迫力に優衣も心を奪われた。
それでも、直後に湧き上がる黄色い歓声に鼓膜を激しく揺さぶられる中、思いを馳せたのはトキヤのことだった。
彼もこんな風に、人々の視線を集めて虜にしてしまうのだろうか。
思えば彼の歌声を聴いたのは、会って間もない頃に聴かされたボイスサンプルだけだった。勿論、あれだけでも彼の上手さはよく伝わったし、彼の美しい声はとても心地好く耳に馴染んだのだが。あれはあくまでも資料であり、彼自身の一つの歌ではない。
だから、願ってしまった。トキヤの歌が聴きたい。否、歌だけではない。彼の全てを込めたパフォーマンスを、この目で観たいと。
そこでふと思った。彼も一応養成所のようなものとはいえ、学校に通っているのだ。だったら、学校行事もそれなりあったりしないものだろうか。もしもそういうチャンスがあるのなら、触れておきたかった。
『そういえば、一ノ瀬さんの学校には学園祭みたいなものはないんでしょうか? みんなアイドルを目指してるんだし、あったら出し物も本格的なんだろうなって思うんですけど』
なので素朴な疑問として、それとなく聞いてみることにした。
メールを送信してから返ってくるまでの間、やけに浮足立って体がそわそわと疼く。さすがに調子に乗ってしまっただろうか。なんだか不安に駆られて、いっそ逃げるように就寝してしまおうかと思ったが。電気を消そうとリモコンに手を伸ばしたところで、携帯が着信を伝える。
すぐさま確認すると、優衣は思わず口元を手で覆ってしまった。
『ちょうど一ヶ月後にありますよ。よろしければご招待しましょうか』
あまりにも簡潔に、そして呆気なく、こちらから願うよりも先に。とても嬉しくて、体中に舞い上がる熱を衝動的にシーツの中に埋めた。
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