こうして面と向かうのは久々かもしれない。優衣がなるべく直接の対話を避けていたというのもあるが、互いに多忙な日々を過ごしていたから、なかなか予定が合わなかった。
正直なところ、顔を合わせるのに不安はあった。まともに恋を自覚してから、察しの良い彼に悟られるのが怖くて、どうすれば平常心を見せかけられるのかわからなかったから。
それでも思いの外気にせずにいられたのは、学校行事に集中していたことで気が紛れたからか、或いは彼のステージをこの目で観られるかもしれないという期待感が上回ったからか。
それだというのに、現実はいとも容易く裏切る。
「ええっ、一ノ瀬さんステージ出ないんですか!?」
「抽選に外れてしまいましたので」
「そうなんですね……」
がくりと肩を落として、細長いグラスを満たすオレンジジュースをストローで吸う。薄ら明るく狭いこの個室の外の喧騒とは対照的に、優衣の心は虚しくも沈んでいった。
学園の中でも一番上の位のクラスに属しているからといって、皆が発表の場を与えられるわけではないのだと知ったのは、たった今し方。せっかくトキヤのステージを拝めると、それはもう今から胸が高鳴って眠りが浅くなるくらいには楽しみにしていたのに。
「私としても、あなたには是非とも私のステージを観ていただきたかったのですが……こればかりは仕方ありません」
とはいえ、最も悔しいのは他でもない本人であるはず。とやかく言う権利など、勿論こちらにはない。
無念に目を伏せるトキヤの横顔を見つめながら、優衣は手にしていたグラスを目の前のテーブルに置く。 険しく溜息を溢す姿は、ほのかに苛立ちを滲ませているように見える。
「よりにもよって、あの男が……」
ぼそりと小さく吐き出された独り言が、忌々しげに冷たく地を這う。HAYATOのことを話している時のような、否、それ以上の不穏な情が見てとれる。冷徹な心を掻き乱す存在が他にいるのか。
HAYATOではない他の誰かの話を聞くのは初めてで、彼の心を案じながらも首を傾ける。
「あの男?」
「いえ、こちらの話です……が、まあ、いいでしょう」
彼はこちらをやんわりと一瞥すると、ひとりでに折り合いを付けた様子で、改めて真っすぐな視線を向ける。
「私には……あまり認めたくありませんが、宿敵のような存在がいます」
「宿敵、ですか」
「私とは正反対の男です。明るく、とにかく騒々しく、誰とでも仲良くなれて、気づけば輪の中心にいるような存在とでも言えばいいでしょうか。歌は、今はそれなりに進歩しているようですが、最初は聴くに耐えないくらいのデタラメな実力でした」
「な、なるほど。本当に正反対ですね」
優衣は納得して深く頷いた。
トキヤの口から語られるその人物の特徴は、まさに何から何までトキヤとは相反していた。性格ははどちらかといえば、HAYATOに似ているように感じる。
「それでも、あの男の歌には人々の心を惹き付ける力があったんです。感情に身を任せ、ありのままの自分を声に託し、自由に歌うあいつが……私は、羨ましかった」
湖のように涼しげな瞳が、物悲しく翳る。静かに落ちていく声は、虚しい響きをしていた。
歌と真摯に向き合っているからこそ、見過ごすことができなかったのだろう。その人物が持つ天性の才能を。
「春日さん。以前、あなたにデモテープを聴いていただいた時、あなたは私の歌を機械のようだと言いましたね」
「えっ! そ、そんなこと……言ったような……」
「何も知らないあなたの言葉だからこそ、純粋な世間の評価として重く受け留めざるを得なかった。あなたがあのようなことを言わなければ、私はあのままあなたを帰し、私達の関係はそこで終わっていたでしょう」
「あ……」
当時は自分の気持ちを伝えるのに精一杯で、深く相手のことを配慮する余裕はなかった。ただ、思ったことを率直に告げただけ。
だから、その時の彼が何を考えどう受け留めたのか、考えたこともなかった。知らない間に、自らの言葉が彼を繋ぎ留めていただなんて。
愕然としていると、厳しく結ばれていた緊張の糸が解けていくように、彼は穏やかな笑みを見せた。
「あれから、あなたと時間を共にすることで、私も少しは変わったのではないかと思います」
その声は、とても心地好い優しさに揺らめいていた。
純粋に嬉しかった。自分にできることなんて何もないと思っていたけれど、少しでも彼の背中を押し、力になれているのなら。
ただ傍にいるだけでは意味がない。本来なら、こうして関わりを持つことすらあり得ないはずだった。彼の貴重な時間を分けて貰っているのだから、役に立たなければ。
思い上がるでもなく、むしろ気を引き締めている優衣の気も知らず、トキヤは目の前に置かれている液晶パネル型のリモコンに手を伸ばし、それをこちらへ差し出した。
「学園祭は駄目でしたが、せっかく楽しみにしていただいたのです。人様の曲ではありますが、今日は今の私の歌を聴いていただこうかと」
「それでカラオケにっ?」
「そういうことです。今日はあなたのためだけに歌いますから、好きな曲をリクエストしていただいて結構ですよ」
「ひええ……な、なんて贅沢な!」
いずれはアイドルとして世に羽ばたく彼の、歌声を独り占めしてしまうだなんて。恐れ慄くあまり腰が引けていると、よほど滑稽だったのか、彼はくすくすと軽快に笑った。
こんなに幸せな体験をしてしまっていいのだろうか。これ以上好きになってはいけないからと、一定の距離を保とうと思っていたのに、これでは深みに嵌まっていくだけではないか。
それでも与えられた時間を無駄にするのは勿体ないので、恐る恐るではあるが曲を選んでいくことにした。あえて恋愛物は外して、好きな曲を探す。
さすが、有名どころは大方把握しているらしく、これは歌えるかと確認する度に大丈夫だと頷いてくれた。
プロ顔負けの歌唱力は、実際に隣で聴いていると迫力が増す。艶のある歌声に心を掴まれ、どんな歌も容易く自分のものであるかのように歌いこなす姿がとても格好良く、胸が高鳴った。機材の画面なんてそっちのけで、ただただ彼の横顔に釘付けになってしまっていた。
もっと聴きたくて、逸る気持ちが抑えられなくて。思うがままにどんどんリクエストするうちに、とうとうネタが尽きてしまった。
「……ふう。少し休憩します」
コツ、とマイクをテーブルに置く彼の顔には、さすがに疲れの色が見える。うっかり10曲近くも連続で歌わせてしまったので、当然だろう。
「お、お疲れ様です!」
「こうも遠慮なく次々入れられるとは……」
「あはは、すみません。もっともーっと聴きたいって思ったら、調子に乗っちゃいました」
やんわりと恨めしく睨まれると、罪悪感に駆られて肩を竦めた。それでも満ち足りた幸福は隠せていなかったのか、彼は気が抜けたように困った笑みを見せる。
「今でも、私の歌は機械のように聴こえますか?」
「まさか。今日の一ノ瀬さんは、とても楽しそうに見えましたよ」
「楽しそう、ですか……」
学園での彼がどのように歌と向き合っているのか、実際に見ているわけではないから、比べることはできないけれど。目の前で歌ってくれた彼は、間違いなく歌が好きなのだと感じさせるくらい、いきいきと煌めいていた。
それは確固たる事実だと自信を持って答えると、トキヤは意外そうに目を丸めたが、それでも否定はせず素直に受け入れてくれた。
「そうですね。久々に、純粋に歌を楽しめたような気がします。あなたがあまりにもきらきらした目で私の歌を聴いていたものですから、つられてしまったのかもしれません」
「えっ。あたし、そんなにはしゃいでました……?」
「ええ、それはもう。もっとあなたを喜ばせたい、楽しませたいと思うほどに、ね」
揶揄うような調子で弄ばれ、ぐっと言葉を詰まらせる。
そんな風に思ってもらえたのは純粋に嬉しいが、無我夢中にはしゃぎ過ぎたかもしれないと思うと羞恥の方が勝ってしまう。なんとも複雑な心境だ。
「やはり、私にはあなたが必要です」
熱くなった両頬を必死に手のひらで押さえ込もうとしている傍らで、静かなる独り言が雫のように儚く落ちた。
視線を上げると、優しくもどこか悲しげに目を細める彼の姿を見た。何故だろう、きゅうっと胸が締め付けられて、ちょっぴり息が苦しくなる。
「大丈夫ですよ。あたし、ちゃんと一緒にいますから」
少しでもそこに秘められた負の感情を取り除いてあげたくて、彼の手の甲に自らの手をそっと重ねる。ぴくりと驚いたように強張ったその手は、すぐに力が抜けて落ち着いていく。
「ええ。ありがとうございます」
たったこれだけしかできないけれど、それでも彼は安堵を浮かべて笑ってくれた。
「いえ、誘ったのは私ですから、私が払いますよ」
「いやいや、こういう時いつもそう言いますけど、地味にずっと全部払ってもらってるの良心的にキツいんですから! 今日という今日はあたしが払います! これはライブのチケット代だと思ってください!」
「ライブって……むしろ私が聴いていただきたいと思ってのことだったのですが」
「あたしだって、聴きたかったんです!」
退出時間になり、フロントに戻るべく狭い通路を進みながら繰り広げているのは、個室を出る前から勃発したいつもの応酬だった。
自分の分は自分で払うと散々言っているのに、彼はいつだって聞いてくれない。結局負けてしまうのが恒例になっているが、今日こそは折れるわけにはいかなかった。何故なら、今まで自分で払ったことがほとんどないからである。
フロントに戻ってからも決着は着かず、会計の順番を待っている間も言い合いは続く。
「いいですか? 映画代に、お祭りの時のりんご飴代、それからカフェでのドリンク代に……」
「映画は人から貰った招待券なのですが」
「そ、それを抜いてもまだ返し足りてないです! 無理です!」
「無理って……だったら、せめて割り勘に」
「だーめーでーす! ふんっ!」
「なっ……!」
こうなったら実力行使だと、不意打ちの体当たりでトキヤを退かせてやった。威力としてはあまり効いておらずよろけさせる程度ではあったが、それでもレジの前を陣取ることができたので良しとする。
カラオケ代を支払うのに必死なあまり、そこそこに密着してしまっていることにも、トキヤが不意打ちを喰らったことにたじろいでいるわけではないことにも、優衣は気づいていない。
レジに立つ若い女性の店員が、ふっ、と堪えきれずに吹き出す。
「ふふ。仲良いですね」
「へっ? ……あっ、そ、そそ、そういうのじゃないです!」
店員の意図にようやく気づき、慌ててトキヤから離れた。体当たりのつもりが、自ら彼に寄りかかる形になってしまっていただなんて。認知した途端に触れ合っていた体温を今更意識しだして、心臓が早鐘を打つと共に顔が火照りそうになる。
どうして何も言ってくれなかったんだろう。ちら、と目深に被った帽子の下から彼の顔を覗くと、思いもよらぬものを見てぎょっとしてしまった。
早くここから逃げ出さなければ。恥ずかしさのあまりに震える手を奮い立たせ、どうにか会計を済ませて店を出た。
外は夕焼け空が晴れ晴れと広がっていて、あっという間に過ぎ行く時間に置き去りにされた気分になる。
「えっと……人前で無闇にくっついてしまってすみませんでした」
気まずい空気が二人の間に流れている。
やってしまった。そんなつもりはなかったにしても、店員には勘違いされてしまったし、彼がもしもデビューしていて、その存在に気づかれてしまったらと思うと、想像しただけで胃が絞られる。
己の浅はかな過ちを猛省して、深く落ち込む。
「い、いえ……まさか体当たりされるとは思いませんでしたが。まあ、周りは特に私の顔に気づいていないようだったので、今のところは問題ありません。今後、気をつけていただければ」
あくまでも冷静な視点で語る彼だが、声は心なしかぎこちない。先程見てしまった彼の表情を思い出して、体に熱が浮き上がり、胸が甘く締め付けられてしまう。
確かに、帽子のおかげもあってHAYATOに瓜二つの顔には気づかれず、それに関して店員に騒がれることはなかった。彼が何も言わなかったのは、存在を主張しないためだったのかと、今になって理解する。
ただ、優衣が申し訳なく思っているのはそれだけではないのだが。
「あの、もちろんそれもあるんですけど。なんて言うか……特別好きでもない異性にやたらと迫られるのって、いい気しない、ですよね」
今でこそ彼との距離は縮まりつつあるが、初めて会った頃の彼は他人をあまり寄せ付けない印象を持っていた。彼の置かれている境遇もあるのだろうが、元々、彼のパーソナルスペースは広いのではないかと感じていた。
臆病にも怯えながら、顔色を窺うべくそうっと覗き込もうとしていると、あからさまに深い溜息を頭上で吐き出されてしまった。
「あなたはそういうつもりで体当たりしてきたのですか? 意外と大胆な行動に出ますね」
「ちっ、違いますよ!」
「だったら気にする必要はありませんよ」
それは、本気で疑っているのではなく、勝手に気にしすぎて要らぬ配慮までしようとするこちらへの皮肉だった。
トキヤは幼子に言い聞かせるように軽く頭を撫で、あっさり許してしまうと、優しい手のひらの感覚に思わず固まる優衣を置いてさっさと歩きだす。
「……あまり無自覚に可愛らしいことをされても、困りますが」
顔を背ける瞬間、小さな風のように過ぎ去ってしまったが、確かにそう聞こえた。
自分に都合の良い幻聴かとも思った。でも、最後に見えた彼の表情は、さっき見たものと同じで――
「ま、待ってください!」
ぐるぐる混乱して思考を巡らせている間に、彼の背中が容赦なく遠退いていく。優衣は我に返り、慌てて後を追いかけた。
追いついた時には既に平然と戻っており、その真意を確かめることはできなかった。
微妙な沈黙が流れる、駅までの帰り道。休日の夕方は繁華街でもわりと人通りが減ってきている。背の高いビルの隙間から差し込む夕陽に照らされた地面に、並んで歩く二人の影が仲良く伸びている。もうじきこの影が離れ離れになってしまうのを、ぼんやり寂しく思う。
このまま彼のいる学園に一緒に帰れたらいいのに。才能もなく、小さい頃に習わされていたピアノもとうに辞めてしまい、平凡な人生を送ってきた自分には、夢を追うために努力を積み重ね、そのチャンスを掴み取った人々を羨む資格もない。ましてや、彼の傍にいたいからだなんて、そんな軽率で邪な理由で。
それでも、一人のアイドルのために曲を作り、共にデビューを目指す未来の作曲家たちが羨ましかった。
「悩み事、ですか?」
「へっ?」
無意識に溜息を溢していたらしい。沈んでいた視線を上げると、心配そうに首を傾ける彼が映った。
「あ、いえ。大したことじゃないですよ」
あなたのことで悩んでいました、なんてさすがに言えるわけもなく。とっさに愛想笑いを貼り付ける。
「いつもあなたに救われている分、私も少しはあなたのお役に立てたらと思ったのですが」
こちらの気も知らないで、彼はさらりとそう言ってのける。救われている。そう言ってもらえるだけで、こちらは何倍にも救われているというのに。
彼の厚意を突っぱねてしまうのも申し訳なくて、かと言って素直に打ち明けられるような悩みでもなく。
「……一ノ瀬さんは、告白とかされたことあります?」
ちょうど別に抱えている個人的な悩みを、犠牲に出すしかなかった。
これでも優衣にとっては重大な悩みだったのだが、切り出し方を盛大に間違えてしまい、トキヤは唖然と口を開いた。
「は?」
当然の反応だと、我ながら思う。悩みを言えと言っているのに、唐突にそこそこの下世話な質問が返ってきたのだから。しかも、アイドルを目指すほどの魅力を持つ人に問うには野暮である。
「いや、愚問でしたね。ないわけないですよね、一ノ瀬さんだし」
「何なんですか、さっきから」
早く本題に入れと、じれったそうな視線が急かしてくる。
本当はあまりこういう話題も彼の前では挙げたくなかったのだが、友人たちはすぐ揶揄ってくるし、他に相談相手もいないので致し方ない。
「最近、どうも告白される機会が増えてしまいまして……というか今までそんな経験もなかったんですけど、文化祭の後から急に」
「それは……大変ですね」
「ありがたいことに、シンデレラの評判がわりと良かったみたいで。でも、いきなり知らない人とお付き合いなんてできないし、あたしには一ノ瀬さんがいるので断るしかないんですけど」
「……私、ですか?」
不意に足を止めた彼を一歩先で振り返ると、狼狽する姿が見られた。そこから己の失言を自覚して冷たい焦りが込み上げてくるのに、そう時間はかからなかった。
「あ、いや、変な意味じゃなくて! あたしには、一ノ瀬さんの夢を応援するという使命がありますから! ……ただ、どう断るのが一番いいのかわからなくて」
「恋人がいるとでも言えばいいのでは?」
「ええっ、嘘はさすがにまずいですよ。そんなこと言ったらすぐ広まって、噂を聞きつけた友達に容赦なく問い質されるのがオチなんですから」
想像しただけで恐ろしい。
今でさえ友人たちの質問攻めに付き合わされて苦労しているのに、とうとう彼氏ができただなんて知った日にはどうなるか。確実に余計な詮索を受けることにはなるだろう。
「まあ、変に取り繕うよりは、はっきりその気がないことを伝えた方がいいとは思いますよ。諦めの悪い相手なら、まだ可能性があると付け上がってしまう場合もありますから」
「な、なるほど……そう、ですよね」
どこか冷ややかな鋭さを持つ言い草が、棘のように胸に刺さった。彼にはそのつもりがなくとも、まるで自分のことを言われているみたいで、不穏に心臓が強く脈打つ。
ましてや自分は、初めに断りを受けているのだ。彼はあくまでも純粋な協力者として、求めてくれたはずなのに。
「それでもしつこく食い下がるようであれば、私が代わりに断ってやりますよ。私たちの貴重な時間を邪魔するなとね」
「えっ……」
なのに、近頃はこうして大胆不敵に、こちらが思い上がるような言動で翻弄してくる。距離を置こうとすれば、惹き寄せられる。いけないとわかっていながら、嬉しいと思ってしまう。
「できることなら、デビュー前からあまり目立つようなことはしたくありませんが」
「う……頑張って断ります」
きっと、強引に背を押そうとして、そんな風に持ちかけたのだとしても。
「それでよろしい。頑張ってください」
勘違いを許してくれる間は、その優しさに甘えてしまおう。罪の意識から目を背け、満足げに頷く彼を見上げながら無邪気を装って笑った。
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