広大な敷地上に大きく構えられた校舎は、真新しさを感じられるくらいに美しく整備されている。そこらの一般的な学校とはあまりにも風格が違う。
敷地内を往来する生徒たちは、さすがアイドル志望ということもあって存在感のある人たちばかりだ。そうでなかったとしても、作曲家として音楽を創り上げることのできる凄い人たちなのだから、そこにいるというだけで尊敬の念を向けてしまう。
「す、すご……」
足を踏み入れた瞬間から終始圧倒されていた。敷地も広ければ人も多い。きっと外部からも多くの人が来ているのだろう。主に、彼らの関係者が。
たとえトキヤがステージに立たなくとも、彼の置かれている環境が知りたくて学園祭に訪れたわけだが、彼が自分とは全く別の世界で生きていることを改めて思い知った。
当初の予定では彼が案内してくれるはずだったが、急用が入ってしまったと今朝になって連絡が入り、心細さを感じながら一人で回ることになった。一人で行動すること自体に抵抗はないのだが、さすがに自分が場違いなのではないかと不安に思い、畏縮してしまう。
用が済めばすぐに戻ってきてくれるらしいので、それを期待している。正直に言うと、一刻も早く戻ってきてほしいのだが、そんな我儘は言えない。
「講堂のステージは絶対に外さないようにしなきゃ」
入り口で貰ったパンフレットを確認して意気込む。トキヤがライバル視する相手なのだから、この目で見ておかなくてはいけない。
その人物の名は一十木音也というらしい。音楽に生きる人に相応しい名前だと、率直に思った。
「……ん?」
開放されている校舎の廊下を歩いていると、やがて嬌声じみた歓声がどこからか聞こえ、パンフレットに落としていた視線を目の前へ上げた。
少し離れたところで、何やら複数の女性たちが群がっているのが見える。その中心には、オレンジがかった髪を肩まで伸ばした背の高い男。制服らしきシャツを胸元まではだけさせて健康的かつ引き締まった肌を晒し、女性たちに色めく愛想を振りまいている。色気を孕んだ美しい顔立ちとモデルのような体型から、彼もきっとアイドルになるべくこの学園に入ったのだろうと確信する。
ぼうっと見惚れていると、妖艶に流される眼差しがこちらを捉えたような気がして、ドキリと意識してしまった。きっと彼を応援するファンはこんな気持ちになるのだろう。暢気に納得してひとりでに頷いていると、彼は何故か女性たちの輪の中から抜け出して、こちらへ近づいてくる。女性たちの名残惜しげな視線を引き連れて。
「……あ、あれ?」
彼の視線は真っ直ぐにこちらへ向いている。甘い香りをふわりと纏わせて。
どうして。彼とは当然ながら初対面だというのに。そして、女性たちの嫉妬じみた不穏な視線が恐ろしくて、ますます逃げ腰になってしまう。
「あ……あの……何か……?」
「そんなに怯えて、生まれたての子猫みたいだな。大丈夫、取って喰ったりはしないよ」
「え……ええっと……」
そう言われても、こうも身長差があると見下されるだけで怯み上がってしまう。それも、女性たちの心を容易く奪ってしまうような色男だ。
特にそういったタイプの男性に耐性がない優衣は、どう切り返していいかもわからず、困惑して立ち尽くす。
すると、男は艶のある笑みを深めると同時に標的を捉えるかのように目を細め、美しくも力強く象る指先で、こちらの顎から頬までの輪郭をゆっくりと甘やかになぞる。
「ひえっ」
ぞわりと恐怖心と警戒心が駆け上がる。
じっくりと品定めをする視線は熱心なようで、どこか冷たさを持っていた。
「初めて見る顔だね。無垢で愛らしい天使が一人でこんなところにいるなんて……ひょっとして、迷子かな?」
「い、いえっ、そういうわけでは…… 」
「遠慮しないで。せっかくこうして来てくれたんだ、しっかりおもてなしして帰してあげないと」
「えっ、ちょっと!」
さらりととんでもなく歯の浮く称賛を浴びせられたが、いちいち照れている場合ではなかった。
やんわりと追い返そうとしているのに、身を引くどころか腰に腕を回される始末。厄介なことになってしまったと、絶望に苛まれる。
女性たちの反感がとても痛く刺さる。そこに容赦なく追い打ちをかけるように、男は群れに呼びかける。
「レディたち。悪いんだけど、ちょっと迷子の子猫ちゃんを探し主のところに届けてくるよ。すぐに戻ってくるから、良い子で待ってるんだよ」
「はぁ〜い!」
もっと文句を言って引き止めてくれたらよかったのに。優衣の希望は虚しく潰え、この男の前では利口に振る舞う女性たちは、甘く返事をするのだった。
「えええええ」
嘆きの声を力なく叫んでいると、腰を掴む手にぐっと力を入れられ、びくっと小さく仰け反ってしまう。やたらと身を寄せてくる男は、紳士的な笑みを浮かべて促してくる。
「さ、行こうか。二人っきりで、聞きたいこともあるからね」
「聞きたいこと……?」
怪訝に首を傾げる。見当も付かないが、碌でもないことのような気がしてならない。しかし、逃げ道は力強い腕と甘く香る彼の逞しい身体に絶たれている。大人しく、彼の導くままに歩くしかない。
「キミ、イッチーと一緒にいた子だろ?」
「イッチー? 誰ですか、それ」
「ふうん、しらばっくれるつもり? それとも、もしかして口止めされるような関係なのかな?」
「んんん? イッチー……いっちー……いち……一……」
本気で誰を指しているのかわかっていなかったのだが。口止めと聞いて、やがて辿り着いたのは――
「何のことかさっぱりわかりません!」
絶対に口に出してはいけないと察して、慌てて首を横に振った。それはもう全力で。
この男が何を勘繰っているのかはわからないが、余計な詮索を受ける予感しかない。そして、きっと当人に知られた途端に物凄い形相で睨まれるのだろう。それだけは嫌だ、絶対に。
口を貝にしてしまう勢いで固く閉ざすと、男は愉快に笑う。
「意外と口が固いな」
「あたしは貝……あたしは貝……」
「へえ、熱したら開くかな?」
「残念でした、死んだ貝なので開きません!」
「喋ったら開いちゃうよ」
「んんっ!」
指摘され、慌てて手のひらを口に押し当てる。
悔しながら完全に揶揄われている。迷子の子猫扱いされるくらいだ、軽く手懐けられると思っているのだろう。最大に警戒しなければ。
「あれは確か、6月ぐらいだったかな。駅前で子猫ちゃんとイッチーが立て込んでるのを見たんだ」
6月といえば、彼と会ったばかりの時期だ。この学園の最寄り駅ということは、彼に借りていた金銭を返しに来た時だろう。まさか関係者に見られていたなんて。
「あの堅物イッチーがレディと揉めてるだなんて、珍しい光景だろ? 俄然、興味が湧いちゃってね」
「別に、揉めてたわけじゃないです!」
「お、思ったよりあっさり開いたな」
「あっ」
誤認を正さなければという一心で、墓穴を掘ってしまった。再び片手で塞ぐが、もう遅い。
好奇の視線にじわじわと追い詰められていく。
「で、そのイッチーはこんなに可愛い天使を放ってどこに行ったのかな?」
「今朝になって急用ができたみたいですけど。終わったらすぐ戻るって言ってましたよ」
「貝どころか、キミの口はマシュマロみたいに柔らかいね。さては、一人で寂しかったのかい?」
「ううっ……」
笑いながら人差し指で唇を弄られ、優衣はとうとう諦めの境地に至った。
一応、あだ名で呼ぶぐらいなのだから、トキヤとはそれなりに親しいのだろう。それでも妙な誤解を与えないように気をつけなければいけない。彼の迷惑にはなりたくないから。
「それじゃあ、イッチーが帰ってくるまでこの神宮寺レンがエスコートしてあげる」
「ええっ、でもさっきの人たちは」
「迷子の子猫ちゃんを放っておくわけにはいかないだろ? あのレディたちなら、またいつでも会えるさ」
正直、放っておいてほしかった。ありがた迷惑に嘆きはしたものの、彼を出し抜けるとも思えない。
それに、トキヤに親しい人間と一緒なら、何か情報が得られるかもしれないのだ。こうなったら、無理にでも前向きに考えるしかない。
「じゃあ、お願いします」
「オーケー。任せて」
おずおずと受け入れると、レンと名乗る男は快く頷いた。
軟派な態度を取る男に至極不安を覚えていたが、意外にも彼はごく紳士的に学園を案内してくれた。展示物や飲食店は一般の学校でもありがちだが、メインではなくても様々な場所でミニライブやイベントが開催されているところが、さすがと言うべきだろう。
隣にいるのがトキヤだったら、などと願望を抱きそうになるが、それは今エスコートしてくれている彼に失礼なのですぐに振り払った。一人ではこんなに充実して回れなかっただろうから、感謝しなければならない。
ただ一つだけ、強いて不満を挙げるならば。
「……ところで、それ、やめてもらえませんかね」
終始腰に添えられた手を指差して訴える。離れようとしても、すぐに力で制されてしまう。こちらはもうすっかり香水の匂いに酔って、目眩がしてきたというのに。
「それ? ああ、これかい?」
レンはわざとらしく首を傾げ、腰をすりすりと撫でた。そこを悪寒のようなものが走り抜け、反射的に身を捩る。
「ひゃあっ!? ちょ、ちょっと、擽ったいですっ!」
「イッチーに触られてもそうやって可愛い反応するの?」
「な、なんでそこで一ノ瀬さんが出てくるんですか! あの人はそんなことしませんから!」
「ふうん?」
ぞわぞわと襲う感覚に耐えきれずに情けない声まで漏らしてしまい、だいぶ恥ずかしくなってきた。しかも、トキヤとの関係を明らかに勘違いをされている。
一頻り悪戯を楽しんだレンはようやく願いを聞き入れてくれたのか、腰から手を退けてくれた。遂に解放された。ほっと安堵の息を吐いていると、今度は肩に手が添えられる。
「じゃあ、これなら許してくれる?」
腰よりはマシだ。マシだけど、そういう問題ではない。
甘く誘導されてすんなりと頷きそうになってしまったが、慌てて思い留まった。さすがは魅惑の色男、恐ろしい。
「……普通に歩かせてもらえませんか?」
「だって、逃げちゃうかもしれないだろ?」
「ば、ばれてる」
「本当に逃げるつもりだったんだね」
こんなところ、トキヤに見つかったら叱られてしまう。彼が戻ってくるまでには、この男を撒かなければ。そう思っていたのに、あっさりと釣られてしまった。
もう諦めるしかない。観念して大人しくその腕に収まる。が、このまま黙って屈してしまうのも悔しいので、当てつけのように指摘してやる。
「だいたい、女の人とこんな堂々とくっつくようなことしてていいんですか? 周りの人はなんだかそんなに気にしてないみたいでしたけど、上の人に怒られるんじゃ……」
「それ、イッチーに言われた?」
なのに、呆気なく図星を突かれて黙らされる羽目になってしまった。にやにやと笑う視線が憎たらしい。
「ま、本気の恋ならすぐにでも退学になってるだろうね。実際、この学園祭までに結構人数も減ってるみたいだし」
「そう、なんですか」
「オレはそういうのじゃないから。キミは気にせず、オレに身を委ねてくれて構わないよ? 本気になったとしても、別にアイドルもなりたくてなろうとしてるわけでもないし」
何食わぬ顔で語られる内情は、優衣にとっては生々しく衝撃的なものだった。
高い倍率を潜り抜けて入ってきた夢追い人は皆、高い意識を持って励んでいるものだと思っていたのに。目の前の男はアイドルに対して情熱を持たず、他にも色恋に惑わされて道を外れていく者たちもいるのだという。
「……なんか、いろんな人がいるんですね、ここ」
「そりゃあそうさ。いろんな事情を抱えた奴らがこの学園に来てる。皆が皆、イッチーみたいに堅物な優等生じゃない」
彼は先ほどから何かとトキヤが堅物だと揶揄するが、優衣の中ではあまり結びつかない。確かに理性的ではあるが、堅物とは違うような気もする。
ううんと腑に落ちずに首を傾ける。
「一ノ瀬さんってそんなに堅物なんですか?」
「子猫ちゃんには、そう見えない?」
「確かにすごく真面目な人だとは思いますけど……ちょっと意地悪な時もあるし、でもとっても優しいし、実は情熱的だったりするし、たまーに可愛いところもあるし」
優衣なりにトキヤのイメージを思い浮かべていくうちに、心が躍りだす。彼はこんなに魅力的な人だ。だからこそ好きになってしまったのだと、再確認してしまう。
隣で意外そうに聞いていたレンは、次第に興味深そうに笑みを浮かべる。
「へえ。それ、惚気?」
「なんでそうなるんですか!」
不粋な指摘にぴしゃりと言い返してみたものの、強く否定はできなかった。嗚呼、顔が熱い。
きっと見透かしているであろう彼は、ふふっと軽やかに笑い声を漏らす。
「この学園の人間に聞かせたら、誰もが想像できないって言うだろうからさ。きっと、子猫ちゃんにだけ見せてるんじゃない?」
「逆に、ここにいる時の一ノ瀬さんってどんな感じなんですか?」
「知りたい? 聞かない方がいいと思うけど」
「な、なんで?」
そこまで言われると、気になってしまう。自分が知らない彼を知れるかもしれないと思うと、好奇心に駆られた。
「まあ、大真面目で完璧な優等生なのは認めるよ。イヤミったらしいくらいにね。ただ、あいつは周りの人間を敵だと思ってる。近頃ちょっとはマシになったようだけど、最初はクラスの誰とも馴れ合おうとしなかった。皆、あいつを冷たくて近寄り難い奴だと思ってるよ」
自らのイメージとはかけ離れた、殺伐とした空気。確かに初めて会った頃の彼は冷たさを感じたけれど、それでも根にある優しさや面倒見の良さは感じられた。きっと迷惑だったろうに、こちらの我儘にも付き合ってくれたぐらいだ。
「だから、きっと子猫ちゃんが居心地いいんだろうね」
きゅっ、と胸が甘く締めつけられた。
それは買い被り過ぎだと思う。だけど、もしも本当にそうだったなら。そんな風にトキヤが感じてくれているなら、これ以上の幸せはない。
「……って、そうだ! 今何時ですか? 一十木音也さんのライブ、まだ始まってないですよね?」
はっ、と我に返る。呑気に人様の言葉に希望を抱いている場合ではなかった。慌てて時計を確認する。
本日のメインイベントを逃しては、ここに来た意味が半減してしまうのだ。
「イッキのライブ? もうすぐだな」
「講堂ってどこですか? 今から間に合うかな」
「イッキとも知り合い?」
「いえ、全然。でも、一ノ瀬さんのライバルだから……」
動機が不純なのは自覚している。だけど、トキヤの力になるために何かヒントが得られるのではないかと思うと、いてもたってもいられない。
あれだけ肩を離そうとしなかった手が、ようやく解放してくれたと思えば今度は腕を掴んできた。
「よし、少し走ろうか」
「えっ?」
返事をする間もなく、レンはそのまま走りだした。慌てて足を動かすも、縺れそうになる。
「ちょ、ちょっと!」
「頑張って付いてくるんだよ、レディ」
脚の長さが違いすぎるのに、無茶だ。転ばないように必死に足を動かして嘆くも、彼がちゃんと歩幅を合わせてくれているのに気づいたのは少し後のことだった。
「す、すごい人……」
ぜえぜえと息を切らしながら、既に賑わっている講堂に足を踏み入れる。導いてくれた彼は呼吸を大して乱さず、体力の違いをまざまざと見せつけられた。
一学校の講堂にしては、広すぎやしないだろうか。改めてその規模に圧倒されていると、程なくして壇上に男の子が現れ、客席からは親しげであり好意的な歓声が注がれる。それだけで、彼は周りの人間から愛されているのだと窺える。
「ギリギリセーフだったね」
レンの言葉に、優衣は息を整えながら頷く。
燃ゆる赤い髪と瞳、小麦色がかった肌は、まるで太陽に愛された子のよう。緊張した面持ちではあるが、それでも一生懸命にライブに向けての心意気を語るその姿は、とても健気に心を打つ。
そして、傍らに設置してあるキーボードの前に控えているのは、桜色の髪をした可憐な女の子。
「もしかして、あの女の子が作曲家ですか?」
「そうだよ」
声を潜ませて隣に問いかけると、彼は小さく頷いた。
恐らく同じ年頃の女の子だ。それなのにアイドルのために曲を生み出し、あの男の子と共にステージに上がっている。決して主張せずにそこにいるはずなのに、とても眩しく思えて、尊敬を贈る眼差しに羨望が混ざった。
「前置きはいいやっ! とにかく、聴いてみてくださいっ」
そう言って彼が明るく笑うと、全体の照明が落ち、鳴りだす音に合わせてステージ上に眩い光が舞った。
彼らの紡ぐ音楽に突き動かされ、躍動する観客の熱。自然に湧き起こる手拍子や合いの手がますます音楽を盛り上げ、会場一体が興奮の渦に呑まれた。
優衣も会場の空気につられ、夢中になって手を鳴らす。身体の奥底から指先にまで高揚感が疾走し、痺れを起こしている。HAYATOのパフォーマンスを観た時にも感じたライブの力を、まざまざと見せつけられた気分だ。
一十木音也――彼の歌は全身全霊でひたむきな想いを伝え、聴き手の心を激しく揺さぶる。きっとこれは、彼の魂の叫びなのだと感じた。
そして彼を傍で支えていた女の子は、彼にとってかけがえのない存在なのだろう。不意に音也の歌が止むと、タイミング良く彼女の声が入る。
とても息が合っていて、二人の信頼関係の強さがあのステージに詰め込まれていた。
「どうも、ありがとうございました!」
最高潮に湧き上がる客席に大手を振り、彼らは実に清々しく眩しい笑顔でステージを去った。主役がいなくなってからも、しばし客席では拍手喝采が鳴り響いていた。
「すごい……すごく楽しかった……歌って、こんなに元気をくれるんですね……!」
講堂を後にしてもなお冷めない興奮に、声が上擦る。
付き添ってくれた彼は何も言わず、微笑を浮かべて見守ってくれている。その微笑には何か複雑な情が微かに潜んでいるのだが、優衣は気づいていない。
「……そういえば、イッチーからはまだ何も連絡ないのかい?」
「はっ、そうだった!」
彼が言ってくれなければ、危うくこのまま余韻に浸って放置してしまうところだった。
慌てて鞄の中から携帯を手繰り寄せ、ライブのために切っていた電源を入れると、すぐにメールの着信画面に移り変わった。幸いにも、メールは数分前に届いていたようだ。
「あ、もうじき着くっぽいです。正門で落ち合いましょうって」
「じゃあ、行こうか」
「え」
自然な流れで促してくるレンに、優衣は顔を引きつらせる。
「まさか、付いてくるんですか?」
「もちろん。迷子の子猫ちゃんを飼い主に届けるのがオレの役目だからね」
ここで礼を言ってお別れするつもりだったのに。こうなってはもう、抵抗しても無駄だ。親切を装いながら、悪戯に状況を楽もうとする魂胆を隠す気すらない彼を前に、諦めて肩を落とした。
「あ、一ノ瀬さん!」
正門前で待つ彼の姿を見た瞬間、ようやく会えたことへの喜びで胸が高鳴った。
彼はこちらの声に振り返ると、冷たく結んでいた表情を和らげかけた。
「すみません、遅くなっ……って、何故レンまでここにいるんですか」
残念ながら、隣にいる男の存在のせいで驚きに染まった後、一気に険しくなってしまったが。
しかし、レンは悪びれるどころか、むしろ挑発的な態度で優衣の肩に手を回す。
「迷子の子猫ちゃんを見つけたから、保護してあげてたのさ」
「ううう……」
せめてトキヤの前ではやらないでほしかったのに。言っても聞かないどころか、面白がってわざとそうしているであろうことは察しているので、無力に打ちひしがれるしかないのだが。
「レン。彼女を離しなさい。今すぐに」
「怖いねえ。そんなにこの子猫ちゃんが大事?」
「そ、それはっ」
強い不快感を露わにしていたトキヤだったが、あざとく突かれた核心が図星であるかのように動揺を見せた。その動揺の意味が何なのか、優衣にはわかるはずもない。
しかし、レンにはそれが読めているらしい。悠々と笑いながら、突如、優衣の両肩をしっかりと掴む。
「へ?」
「しょうがないな。ほら、返してやる、よ!」
「え、ちょ、きゃあっ!」
そのまま勢い良く押し出され、前のめりに転びそうになるのを慌てて踏み留まろうとするも、蹴躓いてしまう。間一髪のところでトキヤに支えられ、転ばずには済んだのだが。
「大丈夫ですか? 他に何かされていませんか?」
相当心配されていたらしい。鬼気迫る勢いで身を案ずる彼の顔が間近にあった。
正直、ときめくよりも先に畏縮してしまった。
「だ、大丈夫ですよ。普通に色々案内してもらえましたし、無事に一十木音也さんのライブも行けましたし」
「ああ……そういえば。結局、間に合いませんでしたね」
「とーっても楽しかったですよ! みんなが一体になって盛り上がってて、生のライブの力ってやっぱりすごいんだなあってひしひしと感じました。たくさんエネルギー貰っちゃいましたよ!」
「そう……ですか」
ライブの興奮が蘇り、ついつい力を入れて語ってしまった。人々を突き動かすあの熱は、今でも体感的に思い出すことができる。
一方、音也を無邪気に語る優衣の姿を目の当たりにしたトキヤは、次第に表情を翳らせていく。
「一十木音也さん、太陽みたいな人でしたね。輪の中心になるっていうの、わかる気がします。あの親しみやすさは、HAYATOさんに似てるかも」
「っ……!」
ひゅっ、と鋭く息を呑む音がした。
「一ノ瀬、さん……?」
目を見開いて硬直するトキヤの表情は、酷く追い詰められていた。苦しそうに眉を顰めて、血の気が引いたように顔色を悪くして。
すぐさま目眩がするほどの不安が過ぎった。自分は今、言ってはいけないことを言ってしまったのではないか。また無邪気に彼を傷つけてしまったのではないかと、怖くなった。
「あの……大丈夫、ですか?」
やんわりと顔色を窺うも、こちらが踏み込もうとするのを拒むかのように目を逸らされてしまった。
「いえ……すみません、今日は少し疲れてしまったようです」
「そう、ですか。今日はもう、休んだ方がいいと思います。あたしも時間的にそろそろ帰らなきゃなって思ってたので」
「……すみません。せっかく来ていただいたのに、何もできず」
「いえ、全然! 神宮寺さんのおかげで結構楽しめたので、大丈夫ですよ」
本当は一緒に回りたかったけれど。なんて我儘は言えるはずもなく、咄嗟に取り繕う。彼に気を遣わせたくはない。
だが、彼の表情はますます複雑な情に歪む。こんな時、自分は何もできやしない。悔しくて、やるせなくて、ぎゅっと拳を握りしめた。
*
「……そんなに気分が悪くなるなら、呼ばなけりゃよかったのに」
「何の話ですか」
遠退いていく彼女の背中を見送りながら、レンは隣に立つトキヤに皮肉を込めて一瞥する。
ただでさえ太陽を嫌う白い肌は血色悪く、疲弊と不快と悲しみが色濃く混ざった険しさを滲ませている。冷たい眼差しが敵意を持ってぎろりとこちらを睨む。彼女には見せられない顔だ。
それでもレンは怯むことなく受け流すだけ。
「今のお前は醜い顔をしているよ。とてもアイドルなんて名乗れないね」
「少し体調が優れないだけです。休めば元通りに」
「はいはい。オレにはお前がヤキモチ妬いてるようにしか見えないけど? オレにも、イッキにもね」
「なっ……!」
強がりの下にどろりと見え隠れする哀れな情を指摘してやると、自覚がなかったのかやけに驚いていた。或いは認めたくなかったのか。特に、音也に対するそれは。
「どうせ、子猫ちゃんを一番喜ばせることができるのは自分だと思ってたんだろ? そこまで入れ込んでるなら、さっさとモノにしちまえよ」
「そんなこと、できるわけがないでしょう」
否定すら忘れて、苛立ちがあからさまに向けられる。
無論、この男にそんな度胸がないことは知っている。規則に縛られることを良しとするような男だ。少し揶揄ってやっただけに過ぎない。
まったく、面倒くさい男だ。わざとらしく肩を竦める。彼女はこれのどこが優しいだの可愛いだのと言うのだろうか。
「やれやれ、やっぱり堅物だねぇ。子猫ちゃんが言ってたイッチー像なんて想像できやしない」
「なっ、何を言っていたんですか」
「教えてやるもんか。子猫ちゃんに聞いてみたらいいんじゃないか?」
「待ちなさい、レン!」
彼女のことになると焦りを隠せないところは、確かに可愛げがあるかもしれない。あれだけ色恋沙汰を蔑視していた男の末路が、あまりにも滑稽に見えた。
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