学園祭という学生にとっては一大イベントを終え、浮かれて緩みがちだった空気が引き締まり始めた頃。Sクラスの教室には、他のクラスよりも一際張り詰めた空気が不穏なまでに流れていた。
その異常さが居心地悪くて、翔は声を潜めて耳打ちする。
「なあ、トキヤの奴どうしたんだ? すっげーピリピリしてねーか?」
少し離れた先に座る、トキヤの後ろ姿を見やる。
今日の彼は不機嫌を露骨に表し、眉間には険しく皺が刻まれていた。朝の挨拶もいつもより素っ気なかったし、元より感じていた他人への棘が、いっそう鋭く研ぎ澄まされているように感じられる。
同じクラスの人間は彼の放つ空気に気圧され、誰一人話しかけようともしない。……否、相変わらず飄々と振る舞うレンを除いては。
「イッチーがピリピリしてるのはいつものことだろ?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。別に、何もありませんよ。普通です」
わざとらしくその耳に届くように揶揄うレンに、トキヤは振り返ると冷ややかにこちらを睨みつけた。思わずこちらが怯んでしまうほどに。
「そ、そうか? ついこの間までは機嫌良さそうだったから、なんか良いことあったのかなって思ってたんだけど」
「確かに。イッチーにしては丸くなったというか、少しだけ空気が柔らかくなってたかな」
「それは……気のせいかと」
鋭い視線が弱まり、何か複雑な情を泳がせて目を逸らされる。いつものように断固として否定しない辺り、図星なのだろう。
この学園に通う者全てをライバルだと認識し、安易に寄せ付けない冷たさを持っていた彼の様子が変わり始めたのは、数ヶ月前の話。同じ教室で共に過ごすうちに、彼のストイックさや拘りの強さを知り、ただ冷たい人間というだけではないのだと知った矢先だった。
決して目に見えて親しみやすくなったとか、そういう大きなレベルではないのだが、それでも人付き合いは以前に比べて良くなった。彼の許容が、少しずつ広がっていったというべきか。レンの言う通り、空気が柔らかくなっていった気がしたのだ。
それが一変して、この有り様だ。何故かレンは動じていないどころか、何か知っているような素振りを見せる。
「そうか、あれも子猫ちゃんのおかげだったってことか」
「なっ」
そして珍しく、トキヤもわかりやすく動揺を見せている。彼らの言わんとしていることに見当も付かず、翔はただ首を傾げる。
「子猫ちゃん? トキヤ、猫飼ってたのか? あ、でも寮はペット禁止だよな」
「違いますよ。それに、私はどちらかと言えば犬派です」
「じゃあ何だよ」
「オチビちゃんはそういうところが可愛いねぇ」
「なっ、なんでだよ! つか、可愛いって言うな!」
にやにやと揶揄われ、今度はこちらが翻弄される番になってしまった。こちらは男らしく力強い王子様を目指しているというのに、とんだマイナス表現だ。
むっと目で不服を訴え続けるのをレンは華麗に受け流し、あからさまな皮肉の視線をトキヤに向ける。
「ま、お前がどうなろうと知ったことじゃないけど、周りに八つ当たりするのだけはやめろよ」
「煩いですね。あなたに言われなくても、そのような子どもじみた真似はしませんよ」
トキヤは再び強くレンを睨むと席を立ち、荷物を纏めて教室を後にしてしまった。
しん、と辺りが気まずく静まったが、緊張した空気は元凶を失ったことで和らいでいく。その中で、レンは呆れを浮かべてやんわりと首を振る。
「やれやれ」
「なあ、結局何があったんだ?」
「そうだな……オチビちゃんに、イイコト教えてやるよ」
少し思案した後、話を持ちかける彼の目は好奇に満ちていた。そしてすぐに、翔は彼の言う子猫の正体を知ることになる。
*
あの学園祭の後から、優衣との連絡は途絶えてしまった。恐らく向こうは気を悪くしたとこちらを気遣い、出方を窺っている頃だろう。
別に彼女の言葉が不服だったわけではない。あれは聴き手が抱いた純粋な感想なのだから。きっと同じ歌が世に出たとして、幅広く受け入れられるのは音也の歌なのだろう。
理解しているからこそ、悔しさと嫉妬に胸を抉られたのだ。あれは最も見たかった彼女の表情だった。自分の歌で、あんな風に彼女の心を動かしたかった。
カラオケであっても自分の歌で喜んでくれた事実は、決して偽りではない。しかし、彼女が心から興奮し感動したのは、間違いなく音也――HAYATOの空気感によく似た、あの男の歌なのだ。
苛立ちが胸を焦がす。これまで音也に対し、その天性の才能に嫉妬することはあった。羨ましくて、疎ましくて。
しかし、こんなにも苛烈な感情は知らなかった。苦しくて、胸を掻き出したくなるような、泣き出したくなるような衝動に襲われる。これも彼女に植えつけられたものなのだろうか。
コントロールできない己の感情に戸惑い、彼女ともどう向き合えばいいのかわからなくなってしまった。このまま会えば、傷つけてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
それでも日常生活は何も変わらないし、HAYATOとしての活動にも支障はない。否、出さないようにしている。癖みたいなものだ。自分自身を抑え込むのは、慣れているから。
その分、解放された後の疲労感はいつにも増して身体に食い込む。こんな時は、優衣の声が聴きたくなる。優しい声に安堵して、また明日も頑張ろうと思える力を貰えるのだ。
それも叶わぬ今、トキヤのストレスは重くなるばかり。ましてや寮に帰れば、もう夜も遅いというのに騒がしい男がいる。
「俺、恋愛禁止令をなくしてやりたいと思ってるんだ」
「何を馬鹿なことを……」
帰ってくるなり妄言を聞かされ、頭を抱えた。相手は至って真剣に語っているが、内容はあまりにも無謀で所詮は絵空事でしかない。
真面目に聞くだけ無駄だ。あしらうように聞き流し、疲弊した身体を重々しくベッドに下ろすも、音也は執拗に目の前に立ちはだかり、不平不満を訴える。
「だって、おかしいだろ。『愛』や『恋』を歌うアイドルが、恋愛禁止なんて」
「そんなもの、当然でしょう。アイドルに恋愛など御法度。多くの人々に夢を売るのが仕事だというのに、自分の恋愛に現を抜かすようなアイドルなど、誰が応援するというのですか」
「でもさ。歌はハートで歌え、魂を込めろ、なんて言うくせに、恋のひとつも知らないままプロになれって言うんだぜ。そんなの矛盾してる」
「片想いまでは許されていたはずでは? そんなに恋がしたいと言うのであれば、想いを告げずに胸に秘めておけばいい」
「そんなの、できるわけないだろ。好きだから伝えたいし、相手にも俺のことを好きになってもらいたい」
この男の主張は愚直で子どもじみている。そのような我儘はこの業界では通用しないというのに。
規則すらまともに守れないようでは、生き残ることは到底できない。どれだけ歌で人の心を動かせたとて、世間や上の人間を敵に回した瞬間、あっという間に見放されて命は潰えてしまうのだから。
それを痛いほどに理解しているからこそ、トキヤは優衣に想いを告げられずにいるというのに。
「トキヤだって、誰かを好きになればわかるよ。俺は春歌がいるからキラキラ輝ける。春歌が好きっていう気持ちがなかったら、こんなに幸せで充実した毎日はなかった。これからも、ずっと一緒にいたいと思う。だから」
この男は、どれだけ人の神経を逆撫ですれば気が済むのか。
眩しすぎるくらいに真っ直ぐな太陽の光は、望んでもいないのにこの胸に抱える闇を容赦なく照らそうとする。折れることを知らない眼差しに射抜かれ、呑み込まれるのを拒絶して心が熱くざわめいた。
「お前に……何がわかる……」
「トキヤ……?」
絞り出した声の、返す視線の鋭さに、音也は慄いて目を見開いた。
身体の奥底から湧き上がる熱に突き動かされ、疲れなど忘れて立ち上がり、愚かしくも甘い思想を持つ男に詰め寄る。
「現実はそんなに甘くはない。好きという気持ちがあれば、何をしても許されるとでも? あの人に逆らえば、どんな厳罰が下されることか。退学を余儀なくされるだけならまだ幸い、ありとあらゆる根回しをされ、デビューへの道を全て握り潰されてしまうのですよ」
「そんなの、認めさせてしまえばいいだろ」
「そんなことができると、本気で思っているのですか? 違反者に対する処遇に、今まで一度も例外はなかったと言われていますが」
「それでも俺は絶対に諦めない」
「あなたはいいとしましょう。それに付き合わされる七海君だって、あなたの身勝手な行いのせいで将来を潰されてしまうのですよ」
「そんなのわかってる。でも、春歌はどんなことがあっても俺を信じるって言ってくれた。だから、俺も春歌を信じる。俺の夢も春歌の夢も全部背負って、俺は園長先生を説得してみせる。そして、俺は本物の『愛』を歌うんだ」
負けじとこちらを睨む音也の眼差しは力強く、希望に満ち溢れていた。口にするだけなら容易いその夢物語を、叶えられると本気で思っているのだ。愛するパートナーの未来すら背負うなど、その重みを理解しているのか。
トキヤにはこの男の思考がまるで理解できない。何が彼をそこまで駆り立てるのか。
「何故……そこまで……」
「これが、好きっていう気持ちだから。恋を否定するトキヤには、一生わからないだろうな」
「人の気も知らずに、勝手なことを語るな」
「お前が伝えようとしてないんだ、知るわけないだろ。伝える努力すらしないようじゃ、伝わるものも伝わらない」
「っ……!」
悪意のない純粋な信念のような言葉が深く突き刺さり、息を呑んだ。返す言葉も見つからず、力なく再びベッドに座り込む。
「もう結構です。好きになさい。あなたがどうなろうと、私には関係のない話なのですから」
「ああ。言われなくてもそうするさ」
これ以上の問答は虚しいだけだ。これ以上この男の言い分に付き合っていては、こちらの気が狂ってしまう。自棄になって突き放すと、音也は頑なに揺らぐことのない表情を更に引き締め、反発するように背を向けた。
悔しくも、音也の言い分は正論であると認めざるを得ない。
優衣ならいつだって、皆まで言わずともこちらの心を繊細に察して、最も欲しい言葉をくれるから。
いつからかそんな彼女の優しさに甘えて慢心し、今回も当然のように期待していたのかもしれない。彼女のおかげで心の内に育まれた感情を、歌の中から見つけ出してくれると。
それは慢心に過ぎなかった。なのに、彼女にとっての一番星を奪われてしまったと、音也に独りよがりに嫉妬を向けてしまったのだ。
優衣はきっと、自分に好意を寄せてくれている。それでもこちらが応えられないとわかっているから、決して口にはしない。共に夢を叶えようとしてくれているからこそ。だから、こちらも深く追及することなく黙認できる。そうして互いに言葉にせずとも察し合い、隣にいられるのが二人にとっての信頼の証だと思っていた。
強大なリスクを冒してまでこの恋を叶えようとは思えない。何よりも手にすべきは、他でもない一ノ瀬トキヤとしてアイドルデビューするという夢だ。自分が、自分で在るために。
だからといって、彼女と歩む道は捨てられない。彼女がいるからこそ、自分は自分で在れるのだから。そのためにも、恋は封印すべきなのだ。
なのに、音也は真っ直ぐな目で、それは間違いだと言う。たとえ危険な橋を渡ってでも、貫き通すのが本物の愛だと。何があろうと折れずに立ち向かい、恋も夢も掴み取るべきだと。
誰もがそんな風に強く在れるわけではない。賢く立ち回る方がずっと有意義な選択だと断言できるのに、冷めた心が心地悪く揺らいでいる。
トキヤは迷う心に惑わされ、手元に無造作に置いていた携帯を力強く掴んだ。
*
「……どうしよう。本格的に嫌われちゃったかな」
ベッドの上で屍のように這いつくばり、目線の先に置いている静かな携帯を嘆かわしく見つめる。
学園祭の後、トキヤとのメールが途絶えてもう三日以上も経つ。恐らく……否、確実に、失言によって彼の心を踏み躙ってしまったせいだ。
彼のあんなにも崩折れそうな表情は初めて見た。絶対にさせてはいけない表情だ。見た瞬間、強い後悔が胸に焼けつく痛みを刻んで、泣きだしたくなった。本当に泣きたかったのは彼であるはずなのに。
いつもそうだ。思ったことをそのまま素直に口にして、相手に与える影響を後に知って後悔する。過去に、もう間違えないと誓ったのに。
今度こそもう終わりなのだろうか。そもそも住む世界が違う彼と、ここまで関係を築けたのは奇跡だ。彼がデビューするまでは、彼が許してくれる限り傍にいたいと思っていた。けれど、それを自らの過ちで壊してしまうなんて、なんて愚かだろうか。
もう諦めよう。小さく溜息を吐いて踏ん切りを付けると、携帯の目覚ましアラームを設定するべく画面を開いた。
その瞬間、着信音が賑やかに鳴り響く。
「わあっ!?」
不意を突かれてびっくりした優衣は、手から携帯が滑り落ちそうになるのを慌てて掴み直し、その拍子にボタンを押さえてメールを開いてしまった。
「えっ」
差出人を見て、どきりと緊張に体が強張った。
まさに今、待ち望んでいた人だった。すぐさま視線を少しだけ下げると、至極端的な文面を黙読する。
『近々、会えませんか。できれば人目に触れない場所で』
前置きもなく唐突な誘いは、彼らしからぬものだった。
やはり失望されたのだ。きっとこれは、別れを切り出されるに違いない。ネガティブな思考は止まることを知らず、どんどん悪い方向へと妄想が膨らんでいく。
いよいよ、終わりを覚悟しなくては。自業自得であるというのに心は受け入れることを拒絶して、文を打つ指が進まない。それでも、彼に迷惑をかけてしまうことは許せなくて、ゆっくり、ゆっくりと文字を並べていった。
*
「コーヒー、そのままで大丈夫でした?」
「ええ。ありがとうございます」
ぎこちなく緊張した面持ちを、じっと見上げて頷く。
笑顔を貼り付けながらも逃げるように目を逸らす彼女は、隣に膝を着かせ、深く黒黒とした水面を揺らしながら目の前のテーブルにカップを置いてくれた。香ばしい匂いが立ち込めて、気を引き締める。
結局、二人の予定を合わせるのに二週間ほど要してしまったが、どうにか約束を取り付けることはできた。
人の目を気にせず、気兼ねなく込み入った話ができる絶対的に安全な場所。思慮を重ねた結果、こうして約二ヶ月ぶりに彼女の家を訪れることになったのである。
淡泊なメールのやり取りでは、言葉の意味以上の心理を通わせることはできない。心優しい彼女のことだろうから、それなりに気に病んでいるだろうとは予測していたが、それにしてもだ。
優衣はもう一つ、紅茶の入ったカップとトレーをテーブルに置くと、おもむろにこちらを見つめ、そのまま絨毯の上に正座して頭を下げだした。深く、力を込めて。
「……本当に、ごめんなさい!」
「春日さん……?」
思わず唖然としてしまった。白い絨毯に垂れる艶のある黒い髪に、隠れた顔を窺うことはできない。ただ、そこに着いた手は強く握り締められ、小さく震えていた。
「あたし、一ノ瀬さんの気持ちも考えずに無神経なことばっかり言ってしまって……一十木音也さんのこと、宿敵だって言ってたのに……」
「それがあなたの純粋な評価だったのでしょう。変に気を遣われて忖度されても、こちらは全く嬉しくありません」
それは本心だった。素直に感じたことを口にしてくれるからこそ、トキヤにとっては意義がある。顔色を窺って取り繕われるようでは、その評価は意味を成さないのだから。
それでも彼女は納得できないらしい。恐る恐る顔を上げても、視線は後悔の念に沈んだままだ。
「それは……でも、一ノ瀬さん、気分を悪くして……」
「別に、あなたの発言が気に入らなかったわけではありません。私はあなたの一番でいたかった。それを、音也に奪われた気がして……悔しかっただけですから」
「そんな。あたしが一番に応援してるのは一ノ瀬さんで」
「そうではありません」
「え……?」
ゆるりと首を横に振る。
確かに彼女と同じ方向を向いて、共に歩めたらそれでいいと思っていた。けれど、それは今の自分が本当に望んでいるものではない。
戸惑いに揺れる瞳が、ようやくこちらを見てくれた。それだけで、この心は満たされていく。
「以前、私はあなたの一番星でありたいと話したのを覚えていますか?」
「あ……はい、もちろんです」
彼女は懸命に頷く。
この心に刻まれた思い出が、彼女にも同じように刻まれていることが嬉しい。しかし、それだけでは足りない。
「私の歌で、あなたの心を一番に照らしたい……そう願っていたのに、音也の歌を聴いたあなたは今まで見た中で最も輝いていました。許せなかったのです。何よりも、そうなれなかった私自身が」
「一ノ瀬さん……」
「私には一体、何が足りないというのですか。あなたに出逢い、私の世界はこんなにも色づいたというのに。それを表現するための努力だって、惜しまず尽しているというのに……何故……このままでは、私は、音也にも、HAYATOにも勝てない」
あの笑顔を思い出す度に、胸が引き裂かれそうになる。あれは紛れもなく、最も見たかった輝きだ。
何故それを、自らの歌でもたらせない。彼女への恋を認め、ようやく大切なものを掴めた気がしたのに、それでも欲しかった輝きに手が届かない。努力と実績で積み上げたプライドが、なし崩しにされていく。
彼女に問うても答えなど出るはずもない。自分自身で見つけるべき答えだと理解しているのに、求めずにはいられない。
「あの時と同じです」
「え?」
「一ノ瀬さん、泣きそうな顔してる」
至極落ち着いた声が、逸らさずにいてくれる瞳が、諭すように。鏡のように、彼女はそれを言葉にして映し出す。
「一ノ瀬さん。ここ、苦しいですか?」
「なっ」
そっと胸に添えられる手に、びくりとたじろいだ。
普段の彼女であれば、そのような行為は恥じらってできないだろうに。優しく、見えない傷を愛撫される。
「痛くて、悲しいですか?」
「私は……」
曖昧に感じていた苦痛を語源化され、明確になった感覚が滲みて熱を帯びていく。ずっと抑え込んでいたものが、体中に巡って、そして。
「そういう時は、我慢しないで吐き出した方がいいです。そうじゃなきゃ、他の感情も外に出せなくなっちゃいますよ。もし顔を見られたくないなら、後ろ向いて」
衝動的にその肩を抱き寄せ、傷だらけの心を抱擁してくれる温もりに強く縋った。
彼女の体は驚いて強張り、呑んだ息の音が喉元を掠めた。怖がらせてしまったかもしれない。それでも、どうかこの痛みを受け留めてほしくて。
「すみません。このままで、いさせてください」
懇願するように強く抱きしめると、腕の中に収まる小さな体は次第に柔らかく力を抜いて、背に腕を回してくれた。とん、とん、と緩やかに赤子をあやすように、指先が背を叩く。
嗚呼、優しい匂いがする。
「ごめんなさい。こんなことしか、できなくて」
弱々しく吐露される懺悔が、とても慈悲深くて、哀しくて。既に滲みかけていた視界は、やがて熱い雫に濡れていった。
「……このまま、聞いていただけますか」
熱く膿んだ痛みを涙にして吐き出し、あれほど荒れ狂っていた心がようやく平穏を取り戻した頃。たとえそれが罪だとわかっていても、トキヤは全てを語る覚悟を決めた。
優衣は何も言わずに頷いてくれる。
これから吐露することは、彼女が見ていただろう一つの夢を壊してしまうことに繋がる。躊躇いがないわけではない。それでも彼女に自分を深く知ってもらうために、もう黙ってはおくことはできなかった。
「私はHAYATOとして、アイドル活動をしています」
「え……」
静かなる動揺が、腕の中で微かに慄える。それは真実を知ってしまったことへのものか、或いは共有する秘密の重みに対してのものか。
どうか逃げないで。切なる願いを込めて、抱きしめる力が強まる。
「実体を持つ仮想アイドル……とでも言えばいいでしょうか。国民的アイドルになるに相応しく創り上げられたキャラクターを、私が演じているのです」
「じゃあ、双子の兄っていうのは」
「正体がバレないための偽装です。私自身がアイドルデビューした際、世間を混乱させてはいけませんから」
「……ということは、あの、保健室で寝ていたのも?」
背に回されていた腕が解かれ、小さな手が遠慮がちに、胸元に置かれる。
全ての始まりに秘められた真実を求めてこちらを覗き上げる瞳は、やはり戸惑いの色を見せている。かといって、さほど驚愕している様子でもなく。
恐らく、どこかで予感していたのだろう。
「ええ、私です。体調管理も仕事の内ですので、言い訳にはなりませんが……あの日、疲れが溜まっていたのか、体調が優れませんでした」
「やっぱり……HAYATOさん、毎日のようにテレビで見るから、きっと忙しくて大変なんだろうなとは思ってたんですけど」
「そう、ですね。HAYATOでいる間は、仕事の合間の休憩時間や移動時間ですらHAYATOを演じていなければなりません。初めはまだそれほど苦ではなかったのですが、HAYATOが売れていくにつれて次々と仕事が舞い込み、酷い時には丸一日をHAYATOとして過ごすこともありました。そうして自分自身を抑圧する日々に、身も心も疲弊していったのです」
「そんな……」
悲しげに細められる視線が落ちていく。
メディアでの露出が増えれば増えるほどファンは喜び、知名度が上がることによって新たなるファンも生まれる。
大半はその裏で消費されるものを深刻に捉える間もなく、更なる供給を求めるのだろう。だからこそ、制作側にも必要とされる。そうしてアイドルは生かされている。
彼女の繊細な優しさは、決してこの業界では何も生まない。トキヤにとっても必要のないものであるはずだったのに、何故か見過ごせなかった。
「それでも仕事に支障をきたすわけにはいきません。あの日はせめて休憩時間を休養に充てるため、保健室をお借りしていたのですが。まさか、あなたに見つけられてしまうとは」
「そんなに忙しいのに、どうしてまた会いに来てくれたんですか?」
「それは……眠っている時に降ってきた、あなたの言葉に救われたからですよ。たとえ偽りの存在でも、誰かに元気を与え、感謝されているのだと……孤独の中で闘ってきたこれまでの時間が報われた気がして、嬉しかったのです」
目を閉じれば鮮明に思い出せる、祈りを捧げるような慈悲深い声。闇の中で喘いでいた苦しみを掬い出し、癒やしてくれたあの声に、自然と体が導かれた。
そこに何か答えがあるような気がして、得体の知れない胸の疼きを抑えられず、手探りに求めてしまったのだ。
「同時に、あなたが理解ができなかった。赤の他人のために心から悲しみ、怒り、喜び、願う、その心理が。自分を見失い、歌に感情がこもっていないと言われ続けた私でも、あなたを理解すれば何か進展できるかもしれない。そう思い、私はあなたを利用していました」
「だから……一緒にいることを、許してくれたんですね」
優衣は腑に落ちたような声色で、緩やかに頷いた。俯いて表情は窺えないが、そこに彼女の抱いていたであろう一抹の不信を垣間見た気がした。
芸能界とも音楽とも縁もなく生きてきた彼女はきっと、何故自分がと疑問を抱いていたのだろう。それでも求めれば、その豊かな感受性と良心で願いを叶えてくれた。他では得られない魔法のように。
「でも、今は違います。あなたがいる限り、私は私でいられる。一ノ瀬トキヤがここに存在するためには、あなたが必要なんです。……しかし、それはあなたの自由を束縛するものでしかない」
「え……?」
不安げに顔を上げる優衣の目を、相反する本望と理性に揺らぎながらも真っ直ぐに見つめる。
「私は音也のように、夢と恋、どちらも手に入れるために戦う勇気はありません。他の全てを犠牲にしてでも、夢を選びます。私ではきっと、あなたの望みを叶えることも、本当の意味であなたを幸せにすることもできないでしょう。なのに、それでもあなたには傍にいてほしいと願ってしまう」
以前の自分なら、このような葛藤すら生むこともなく、容易く切り捨てていただろう。
欲張りを覚えてしまったのは、彼女に植え付けられたからなのか。それとも、音也に感化されてしまったか。
今だって、彼女を自由に解き放つべきだと思うのに、肩に回した両腕を解くことができない。なのに、彼女はふっと至極柔和な微笑を浮かべて見つめてくれる。
「一ノ瀬さんは、やっぱり優しいですね」
「優しい? この、私が……?」
彼女の言葉は純粋な響きを持っているのに、信じることができない。こんなに身勝手な我儘で、この腕に閉じ込めようとしているというのに。
「一ノ瀬さんはきっと、勘違いをしています」
「勘違い?」
「あたしの望みは、一ノ瀬さんが夢を叶えるのをこの目で見届けることです。他になんて何も要らない。それがあたしの一番の幸せなんです。だから、そんなことで悩む必要なんてないですよ」
優衣はとうに覚悟を決めていたというのか。あっけらかんと笑い飛ばしてしまうその様に、拍子抜けしてしまった。
ここ最近で見え隠れするようになった、恋心に戸惑う彼女を前に焦っていたのかもしれない。彼女の想いを犠牲にしておきながら、音也のような煌めきに届かないかもしれないと思い込んで。
力が抜けて、ぐったりと彼女の肩に傾れ込む。
「まったく、あなたという人は……」
「わっ、ちょっ、一ノ瀬さん?」
「そこまできっぱり言われると、逆に傷付きますね」
「な、なんでっ」
先程まではあんなに毅然としていたのに、集中が切れたのか、いつものごとくすっかり狼狽えている。
優しくて甘い温もりが心にまで沁み込んで、もっと欲しくなる。柔く艷やかな髪の感触も、その隙間に見え隠れする瑞々しく熟れた頬も。
幸い、今いるのは学園長の目も届かない、二人だけの狭い世界だ。
「もう少しだけ、このままでいてもいいですか? せめて誰も知らないこの一時だけは、あなたに触れることを許してください」
「えっ……でも、一ノ瀬さん、そ、そういうのはっ」
「これはけじめです」
「けじめ……?」
「私たちは恋愛を禁止されていますが、これから愛を歌っていく以上、誰かを想う気持ちそのものは尊重されているのです。つまり、想いを告げずに片想いを貫けば、たとえ互いに想い合っていてもその恋は許される。その先は……言わずともわかりますね?」
真面目に拒もうとする彼女だったが、遠回しに逃げ道をほのめかせば大人しく身を竦めてしまう。
悪戯に顔を覗き込むと、きょとんと丸まった目が大きく見開かれていて。頬を色づかせていた熱は、遂に耳にまで広がっていた。
「……たぶん、わかっちゃまずいやつですよね、それ」
やがてその真意に気付き、苦々しくもはにかむその姿に愛おしさが擽られ、竦められた肩に再び顔を埋めた。
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