人知れず内に溜め込んでいた毒々しい苦悩を全て吐露してから、あれだけ渇きに荒れていた心は不思議と静謐を保っていた。
気に入らなかった他人の些細な言動も、耳障りだった教室の喧騒も、レンを取り囲む女性たちの甲高い嬌声も、今なら許容できる。とはいえ、近頃はレンの素行も少しずつ落ち着いてきてはいるようだが。
不意に、ふわりと香水の匂いがしたかと思うと、何やら肩に重みが加わった。
「やあ、イッチー。今日は随分とスッキリしているね」
「何です、藪から棒に」
軽快に揶揄う声の降るすぐ頭上を軽く睨んで迷惑を訴えると、図々しく肩に腕を回すレンが顔を近づけ、探るように目を細めて笑う。
「ついこの間までピリピリしてただろ。何か心境の変化でもあったのかと思ってね」
不粋な詮索は的確に図星を突いた。否定しようにも、ぐっと言葉に詰まってしまう。
この男には既に知られてしまっているのだ。優衣の存在も、不穏に歪む心の正体も。どうせとうに結びつけているに違いなく、結果、逃げるように顔を背けることしかできない。
「別に、あなたには関係のないことで」
「お、トキヤ。例の子猫ちゃんとやらと仲直りしたのか?」
「なっ……!」
傍らから追い打ちをかけられ、焦燥に駆られて振り向く。
翔は純粋に気にかけてくれているようで、特に邪推も感じられない。が、そもそも彼が知っているということ自体が問題だ。
情報の出処はすぐに察しがつき、隣で素知らぬ体を装う男を抗議の眼差しで再び睨む。
「レン……! 何を勝手に人のプライベートを他言して」
「そう固いこと言うなよ。オチビちゃんもイッチーのことを心配してたんだからさ。それに、別にそんな疚しい関係じゃないんだろ?」
「当然です」
余計な含みを持たせて突く視線に、固く表情を引き締め、きっぱりと返した。これ以上、勘の良いこの男に綻びを見せてはいけない。
そんな意志とは裏腹に、翔の好奇に笑う視線が意表を突く。
「しかし、トキヤがそんな風になっちまうとはなー」
「待ちなさい。何を喋ったんですか」
「子猫ちゃんが喋ってくれたことを、そのまま……ね」
レンを追及しても、軽やかにはぐらかされてしまう。
そういえばあの時はそんな余裕もなく、結局優衣がレンに何を吹き込んだのか、聞かずじまいになっていたことを今になって思い出した。
追及の目を翔に移したとて、彼もまた。
「まあ、なんつーか……トキヤも案外可愛いとこあるんだな」
にやにやと緩める口を隠そうともせず、絶望的な答えしか返ってこない。
肺いっぱいに深く溜め込んだ鬱憤を大きく吐き出し、くらりと眩む頭を悩ましく抱える。
「……とてつもなく嫌な予感がします」
この件に関しては後日、張本人を確実に問い詰めなければならない。
嗚呼、涙目で許しを乞う姿が容易く浮かぶ。掻き立てられる少しの加虐心に胸が疼き、気を緩めてしまいそうになるが、今は堪えなければ。
レンは一頻りこちらを翻弄して満足したのか、肩に重くのしかかっていた腕をようやく解いてくれた。
「でも残念だったね。子猫ちゃんがウチの生徒だったら、ダンスパーティーで一緒に踊れたのに」
「ああ……そんなものもありましたね。興味がないのですっかり忘れていましたが」
早乙女学園ではクリスマス恒例行事となっている、ダンスパーティー。学校行事にしては本格的で、アイドルも作曲家も正装に身を包み、管弦楽団の生演奏に合わせてワルツを踊る。
ダンスのパートナーは各々で見つけなければならないのだが、特に関心もなく作曲家としてのパートナーもいなくなったトキヤは、適当にやり過ごそうと思っていた。
確かに優衣がこの場にいれば少しは参加への意欲も高まっただろうが、夢想したところで何も生まれない。一瞬でも思い浮かべてしまった光景をすぐさま振り払ったが、それすらも見透かしたかのようにレンは小突くのをやめない。
「ふーん? 美しいドレスで着飾った子猫ちゃん、見てみたいと思わない?」
「くだらないことを言わないでください。彼女は無関係なんですから、そんな理想を並べたところで」
「理想ってことは、見たいってことだよな」
「翔!」
レンはともかく、翔までくだらない冷やかしに乗ってくるとは。これだから周知されたくなかったのだ。
「まったく、素直じゃないな。そうだ、ドレスの色は何色がいいと思う? 子猫ちゃんのイメージなら、どちらかというと淡い色の方が似合いそうかな」
顎に手をやりながらイメージされる可憐な映像は、悔しながら確かに様になる。さすがはレン、そのセンスは認めざるをえないのだが、素直に口にする気は毛頭ない。
しかし、優衣の本質を知っている自分だからこそ、より相応しい色を描くことができる。
「それなら、純白の方が……」
完全に、無意識だった。ミスに気づいたのは、拍子抜けした顔でこちらを見入る二人の沈黙の中。時既に遅しだ。
「純白かあ。純白のドレスって聞くと、なんとなくウエディングドレスを思い浮かべちまうよな」
「へー。ちゃっかり、そういうことも考えてるわけだ」
格好の餌食に食いついた二人はにやにやと表情を弛ませる。
特に意図はしていなかった。が、全く考えなかったわけでもなかった。花嫁を連想させる、神聖な色であると。
まさか表情に出てしまっていたのか。腹の底が浮くような焦りが込み上げる。
「は、話を飛躍させないでください! 決してそういう意味ではありません。ただ……」
「ただ?」
「彼女には……穢れを知らない純粋な白が似合うと思っただけです……」
「なるほどね、イッチーは子猫ちゃんのそういうところに惚れたわけだ」
不思議と彼女のことになると強く否定できず、歯噛みする。
微笑ましげに見守る二人の顔が何とも憎らしいが、この二人であるだけまだ許せてしまうのは、彼らのことを認められるだけの余裕を僅かでも得たからなのかもしれない。
「で? クリスマスは残念ながら一緒にはいられないけど、プレゼントぐらいは用意するんだろ?」
「そ、それは……」
クリスマス。それこそ自分には関係のないイベントだと思っていた。
HAYATOとして、季節の話題の一つと捉えて意識することはあれど、一ノ瀬トキヤ個人には特別な思い入れもない。信仰深いキリスト教徒でもなければ、サンタクロースが欲しい物を届けてくれるわけでもなく、街を彩る人工的な光や作り物のツリーを眺めて心が満たされるわけでもない。
でも、今年は違う。特別な想い出を作るための鍵を手にしているのだから。
「ま、お前にレディへの気の利いたプレゼントが選べるのかどうかは疑問だけど。選ぶの手伝ってやろうか?」
「結構です。……と、言いたいところですが。確かに、女性に物を贈るのは初めてで、勝手がわからないのも事実です」
「お、思ったより素直に認めたね」
「彼女には確実に喜んでいただきたいので」
レンの冷やかしを真に受けてやる気はなかったのだが、俗世に勝手に根付いている浮ついた風習に乗るのはどちらかといえば不得手であるし、そもそも経験がない。
女性を喜ばせることに長けている彼なら、有益な助言をくれるのではないか。利用できるものはしておくべきだと割り切って、今回ばかりは頼りにしてしまった。
「んー、そうだなあ。ちょっとした小物とか。せっかくのクリスマスだし、やっぱいつもより洒落たものがいいよな。可愛いものが好きな子なんだったらぬいぐるみなんかもアリだと思うぜ」
「そうだね。あとは子猫ちゃんに似合いそうなアクセサリーや服とか、好みは分かれるけどアロマやバスソルトみたいな香りの良いものなんかもいいんじゃないかな」
「なるほど」
お洒落に拘る翔と、女性との付き合いが豊富なレン。二人の口からは流れるように、実に参考になる案が次々と出されていく。
一人で悩んでいては、きっとこんなにも浮かばなかっただろう。素直に感心してしまう。
せめて優衣の好みや欲しいものを完璧に把握していれば、こうも悩むこともなかったのだろうが、遠慮深い彼女は決して目の前で何かを欲しがったりしない。
少しの金額を奢ろうとしただけでもあの焦り様なのだから、プレゼントとなればそれはもうパニックだろう。
「結局は気持ちが一番なんだろうけどな。その子のことはよく知らねーけど、レンから聞いた感じだと、トキヤのプレゼントなら何でも喜んでくれるんじゃねーか?」
「そう、ですね。じっくり考えてみるとします」
翔の助言は尤もだ。優衣はこちらが笑うだけで心から喜んでくれる。たとえ物などなくとも、同じ時を共に過ごすだけで満足だと笑うのだろう。
しかし、だからこそ形に残しておきたい。それを目に映すことで自分を思い出して、満たされてほしい。離れていてもその記憶を、心を、独占してしまえるように。
いつからか欲張りになってしまった想いは、日に日に留まることなく膨らむばかりだ。
「一ノ瀬。お前、最近変わったな」
レッスンが終わり、譜面台に広げていた楽譜を整えていると、傍らでこちらを眺めていた龍也がふと言った。
「え……」
「今のお前の歌には、優しい想いが感じられる。それだけじゃねぇ、普段の雰囲気も以前より少しは丸くなった。何か心境の変化でもあったか?」
さすがは指導する立場に身を置くだけあり、自分では無意識だった変化にも的確に気づいていた。或いは、レンたちに指摘されたように、目に見えてわかるような変化だったか。
本来なら必死になってその存在を隠すべきなのだろうが、彼の指摘した要素には絶対的に欠かせないものであり、誇らしく胸を張って肯定すべきだと思った。
担任であり、こちらの事情を知る数少ない存在である彼になら。
「好きな人が、できました」
臆面もなく素直に告白すると、龍也の表情は案の定驚きに染まったが、それでも教師という立場上落ち着きを払っていた。
「お前、いつの間に……学園の人間か?」
「いえ。外部の高校に通う、一般の方です。月に一度か二度程度、会っています」
「まさかとは思うが、付き合ってはいないだろうな?」
「はい。互いに良き理解者として、認識しています」
決して嘘ではないと、真っ直ぐに視線で訴える。
互いの恋を封印してでも繋ぎ留めたい絆がある。それが二人の真実だ。
「ならいい。……しかし、そうか。お前も恋を認めるようになったか」
違反ではないと認めてくれた彼は、ふっと力を抜いて感慨深く笑う。
「ええ。これはそこらの安っぽい恋ではありません。色褪せていた私の世界を、色鮮やかに塗り変えてくれました。彼女のおかげで、私は私らしさを見つけだせそうなのです」
「よっぽど信頼してんだな、その子のこと。ま、くれぐれも大事にしてやれよ。社長に逆らった時点で、その子もどうなるかわからねぇからな」
「はい」
彼の言う『大事にする』という言葉の意図は、すぐに察することができた。危険に身を晒してまで恋を高らかに謳い貫くのではなく、秘めやかに恋を育み続けるトキヤの選択を後押しするものだ。
意外と、彼自身は学園長に絶対的に従順しているわけではないらしい。優衣のことにも気にかけてくれる寛大な優しさをありがたく噛み締め、裏切らぬよう決意して力強く頷いた。
*
「はあ〜。もうすぐクリスマスだよ、クリスマス!」
先頭からしみじみとした大げさな溜息が、辺りの浮かれた雑踏に紛れる。聖なる日を彷彿とさせるきらびやかな装飾や色とりどりの電飾、様々な大きさのツリー、この時期の期待感を高めるBGMに彩られた街の様子に、どこか気持ちが急かされてしまう。
いつもつるむメンバーと四人で寄り道をしようと放課後の通学路を外れ、電車に乗って繁華街まで出向いたのだが、思えばこうして友人たちと街へ繰り出すのは久々だったかもしれない。
日が暮れるにはまだ少し早いこの時間帯は、自分たちと同じように寄り道をする制服姿の学生グループや、若いカップルが多い。寒空の下でも、屋内の暖房や人々の熱気のおかげでそれほど凍えることもない。
「早いよねえ。十二月になった途端にどこもかしこもクリスマスムード……いいな〜、わたしも彼氏とイルミネーション見に行きたーい!」
「彼氏ねえ〜」
一つ前を歩く恋に夢見がちな友人は、理想の風景を恍惚と思い浮かべてはひとりでにはしゃぎだす。
相変わらずだなあ。などと暢気に笑っていると、隣を歩いていた別の友人が思い出したようにこちらを向き、ぐいっと迫ってくる。
「そういえば優衣は? 例の彼とそういう約束してないの?」
「えっ。別に……特に何も……」
「えー! なんで!?」
「なんでって言われても……向こうは忙しいの。そんなので浮かれてる場合じゃないんだから」
すっかり他人事のように聞いていたが、そういえば彼女たちの中では自分がそういう立場にあるのだということを失念していた。
ただでさえHAYATOとしての活動と、一ノ瀬トキヤとしての生活を両立しなければならない彼も、この時期はきっと忙しくなるのだろうと想像する。
双子の兄弟が実は同一人物だったと知ってしまってから、どうにもこれまで以上に気を遣ってしまう。几帳面な彼のことだから、スケジュール管理は徹底した上で色々と誘ってくれているのだろうが、それでも貴重な時間を自分のために使わせてしまうのは申し訳ない。
彼が望む以上はできる限り傍にいたいし、力になりたい。でも、自分が彼の負担になってしまっては本末転倒だ。だから自分から誘うことはほとんどない。
尤もらしいことを言い張ったつもりなのだが、何故か彼女たちは疑り深いを向けてくる。
「んー……結局さ、彼って何者なわけ?」
「はいっ?」
どきりとして、思わず声がひっくり返ってしまった。
「イマイチこう、彼についての情報が入ってこないっていうか、イメージがふわっとしてるっていうか」
「そうそう。何してる人とか、全然名前すら話さないじゃん」
どこまでが許されるのかもわからず、迂闊なことを言って取り返しのつかない失態を犯すのが恐ろしくて、トキヤに関する情報は一切漏らさぬよう徹底してきたのだが、いつの間にやらそのような不信感を募らせていたとは。
どうにかしてはぐらかさねばと、ひやひやしながら必死に言い訳を考える。
「それは……あまり人のプライベートを勝手に話すのもよくないと思うし」
「正論っちゃ正論なんだけどぉ〜」
しかし、苦し紛れの言い分に彼女たちが納得する様子もなく、内一人は不満げに口を尖らせている。
「優衣って純粋だからさ、なんか騙されてないか心配なんだよねえ」
「し、失礼なっ。そんな人じゃないから!」
「うーん、騙される側ってみんなそう言うのよねー」
「も〜、ほんとに大丈夫だってば!」
半ば馬鹿にされているような気もしたが、心配してくれているのは真のようだ。その優しさはありがたい。
だからといって安易に言い触らすわけにもいかない。彼と過ごす時間と彼自身を守るためにも、秘密事を胸にしまい続ける。
お節介な友人たちの視線から逃れるように目を逸らした先に、大人の女性向けらしきアクセサリー店を見た。気品溢れる美しい女優の胸元で純然と輝くネックレスの写真が看板の下に大きく張り出され、落ち着いた照明と内装に加えて高級感を演出している。
平凡で庶民派な女子高生である自分には縁のない世界だ。
ガラスの向こうでは、ショーケースの中に並ぶアクセサリーを眺めるカップルの姿が多く見られるのだが。
「……ん?」
その中に紛れる見覚えのある後ろ姿を見つけて、思わず立ち止まった。そこに存在するだけで華のある色男と、よく見慣れた冷たい美しさを放つHAYATOと瓜二つの姿――
「優衣? どしたの?」
「ちょ、ちょっとごめん、先行ってて!」
「えっ!?」
「あとで連絡するから!」
「あ、ちょっと!」
考えるよりも先に、体が動いた。困惑する友人たちの背を一方的に押して、普段なら決して入ることのないその店に駆け込んだ。
開く自動ドアを潜った瞬間に舞う暖かな風と品の良い空気に背筋を伸ばして、そっと二人の背後に近づく。特に姿を隠そうともせず見目麗しい二人の存在感は、女性たちの視線を遠巻きに集めている。
一瞬、声をかけるのを躊躇ったが、意を決して安心感のある背に触れた。
「あのー。一ノ瀬さんと、神宮寺さん……ですよね?」
ぎょっと驚いたように体を揺らし、振り返る姿はやはり見間違いではなかった。片や好奇心に瞳を色めかせ、片や焦りに舌が急かされる。
「子猫ちゃんじゃないか。こんなところで会うなんて奇遇だね」
「春日さん、何故ここにっ?」
「何故って言われると……学校帰りに友達と遊んでたからなんですけど。そういうお二人は?」
「そ、それは……」
「クリスマスも近いからね、初めてのプレゼント選びに付き合ってやってたのさ」
「へ?」
やけに言い淀むトキヤを差し置いて、レンはさらりと含みのある言葉を口にした。すぐに真意を掴めずにきょとんとして固まると、トキヤがすぐさまレンを睨む。
「レン、余計なことをっ……!」
「別に隠すようなことでもないだろ?」
「勝手に言い触らすようなことでもありませんが?」
「ええっと……」
気づけば二人の言い合いが始まり、こちらの思考はすっかり置き去りにされて困惑した。
レンが付き合っていたということは、トキヤが選ぶ側で、プレゼントということは、トキヤがこの店のアクセサリーを誰かに贈るということで。
今、自分が現れたことでこんなにも焦っているということは、その相手は……考えた瞬間に、心がざわめいた。
ちらりとすぐ傍にあるショーケースの中に視線を落とすと、綺麗な青の宝石を収めた指輪と、その隣に桁の多い値札が並んでいて、真冬だというのに冷や汗が噴き出しそうになった。
「あ、あのっ」
「せっかくまたこうして出逢えたんだ。二人の運命を祝して、少し外で語らおうじゃないか」
「ええっ、ちょ、ちょっと待って!」
真意を確かめようと口を開いた瞬間、レンの腕が力強く肩に回されて、今通ってきたばかりのガラス張りのドアを半ば強引に潜らされる。
再び曝される冷たい空気に身震いしている間に、彼は後ろを振り返った。顔はよく見えない。ただ、その視線を辿ろうとした瞬間、ぐいっと肩を押されて阻まれてしまった。
「びっくりしたな。まさか、このタイミングで子猫ちゃんが現れるなんて」
まるで内緒話をするように、背の高い彼は首を傾けて顔を近づける。
参ったと言わんばかりに眉を下げ、珍しくも困惑した表情をやんわり浮かべるその様は、優衣の予感を肯定するものだと確信させる。
「ってことは、やっぱり!」
「その先は言わない約束だよ。イッチーの尊厳のためにもね」
戦慄した瞬間、人差し指を唇に押し当てられ、口止めに勢いを奪われてしまう。
今すぐにでもトキヤを説得しに戻りたいのに、この男は学園祭の時のように固く離してくれようとしない。もどかしさに歯噛みしながら、じわじわと焦りに心臓が浸されていく。
「クリスマスなんて、約束してなかったのに……どうしよう、あたし、何も用意してない」
「約束してなかったのなら、別にいいんじゃない?」
「全然よくないです! あんな、高価なものを一方的にいただいてしまうなんて……せめて何かお返し……いやでもあんなのお別れまでに返しきれる気がしないし」
頭を抱えて必死に思考を巡らせている間に、レンの存在を意識の外に追いやってしまっていた。
「お別れ……?」
だから、彼の怪訝な反応を見るまで、己の失言に気づけなかった。
いずれ分かつ未来の話なんて、今はまだ早い。とっさにはぐらかそうと思ったが、相手がトキヤ本人でないのならと甘んじて、胸に秘めていた切ない決意をほんの少しだけ溢す。
「一ノ瀬さんがアイドルになった時、きっとあたしは邪魔になるはずですから。一ノ瀬さんが自分らしく輝けるようになって、もうあたしがいなくても大丈夫になったら、ちゃんとお別れしようと思ってるんです」
「それ、イッチーと話したの?」
「いえ……でも、一ノ瀬さんも同じことを思ってるはずです。今をときめくアイドルに女の影なんて、ない方がいいに決まってますし」
テレビで流れるワイドショーなどで芸能スキャンダルが取り上げられる度、他人事には思えず怖くなってしまう。
彼なら下手な振る舞いはしないだろうが、たとえ疚しい関係でなくとも、男女が仲良く並んで歩くだけで写真を撮られては事実無根の記事を書かれ、多くの人々に夢を売る彼のイメージに傷がついてしまう。そんなリスクは彼も望んでいないはずだ。
すぐ頭上を息の音が掠めた瞬間、聞こえてきたのは背後からの不機嫌極まりない声。
「いつまでそうしてべたべたと纏わりついているつもりですか」
恐る恐る振り返った優衣は、眉間に険しく刻まれた皺を目の当たりにして怯んでしまった。
「イッチー、もう買い物は済んだのかい?」
「ええ、おかげさまで無事に納得のいくものが買えました。今回ばかりは素直に感謝しますよ」
「へえ、珍しいこともあるもんだな。付き合った甲斐があったよ」
一方、さすがとも言うべきか、涼しい顔で優衣の傍を離れたレンは、そのままトキヤの顔を覗き込んで揶揄い始めた。
不満げに目を細めるトキヤだが、何も言い返せず悔しそうに唇を固く結ぶ。レンが相手だと見たことのない一面が見られて、新鮮で微笑ましく思う。が、今は暢気に和んでいる場合ではない。
彼の提げている小さく上質そうな紙袋を視界の端で捉え、罪悪感に胸を締めつけられて泣きたい気持ちに駆られる。
「ちょっと、優衣ー? いつまで待たせんのよー!」
「あれ? 一緒にいるの、もしかして」
それを見事に打ち壊したのは、待ちくたびれて戻ってきた友人たちだった。
人混みの中から大声で呼ぶのは、正直恥ずかしいのでやめてほしかったが、それよりも。傍にいるトキヤとレンの姿に気づいた彼女たちの目が、好奇に色めき立っている。
「げっ! 先に行っててって言ったのに〜。すみません、あたしはこれで失礼します!」
非常に嫌な予感がする。好き勝手に何を言いだされるかわからないこの状況に肝を冷やし、慌てて頭を下げて間髪入れずに友人たちの下へ駆け出した。
顔を上げた瞬間にトキヤの何か言いたげな顔を見たが、立ち止まる余裕はなかった。彼の前で彼女たちに詮索されてはいけない、その一心で。
「もう、後で連絡するって言ったのに、なんで戻ってくるわけ?」
「なんでって……あんた、今日携帯忘れたのにどうやって連絡する気?」
「うっ。そういえばそうだった……」
輪の中に戻るなり文句を言ってやったものの、すっかり失念していた状況を指摘されては、返す言葉もなく項垂れるしかない。
「そんなことより〜、さっきの、ひょっとして例の彼? めちゃくちゃカッコ良くない?」
そうしてる間に好奇心に光らせた目に捉えられ、ぎょっとした。
そして案の定、容赦ない質問攻めが始まる。
あまり深掘りされると厄介だ。何が何でもトキヤのことを知られたくない優衣は、苦し紛れに嘘の設定を固めて必死に弁解する羽目になったのだった。
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