「しっかし、音也の奴にはビックリしたよなあ。ダンスパーティーであんなことしでかすなんて」
「そう、ですね」
クリスマスの翌日、教室ではやはり昨日に起きた事件の話題で持ち切りになっていた。
決して破ってはいけない校則を、正々堂々と宣戦布告までして破ってしまったのだ、あの馬鹿な男は。向こう見ずで命知らずな言動に、学園内は戦々恐々としている。
あの学園長の逆鱗に触れたのだ、直に処罰を下されるだろう。当然の結果だ。後はどこまで音也が食らいつくか、興味はある。
「さては、羨ましいんだろ?」
「な、何がです?」
「あんな大勢の目の前で、堂々とレディへの愛を宣誓できたことが、さ」
相変わらず余計な詮索で突いてくるのは、レンだ。にやりと揶揄うような笑みを浮かべ、目の前に空いた椅子に腰を落として顔を覗き込んでくる。
トキヤは固く表情を引き締め、断固として否定する。
「羨ましくなどありません。無謀にも程があります。あんな、早乙女さんに楯突いてまで……」
「オレは羨ましいけどね。一人のレディのために、あんなに一生懸命になれるのは。それだけ夢中になれる愛があるってことだろ?」
「だな。それに、好きな奴には好きだって素直に言えるのって、幸せなことだと思う。そりゃあ、アイドルだしファンの前では隠した方がいいんだろうけどさ。それでも、自分で自分の気持ちを真っ向から否定しちまうのって、やっぱ苦しいじゃん」
冷やかすでもなく、率直な意見を口にするレンと翔の顔つきは意外にも真剣だった。それだけ音也の直向きさが人の心を動かしているということなのか。
彼らの言葉一つ一つが、重く心に響いていく。これまで頑なに否定し続けてきたものが、今なら蟠りなく受け入れられる。
「隠す……ねえ」
「どうした? レン」
翔の言葉に反応したレンが、神妙に思案しだす。その横顔は何か閃きを抱えているような、ほのかな明るさを持っていた。
「幸いにも、子猫ちゃんは外部の人間だ。学園内じゃ監視の目も厳しいけど、さすがに外の一般人にまでボスの目が行き届くこともないだろう?」
「……何が言いたいんです?」
彼の言わんとしていることを読めなかったわけではない。ただ、その先にろくでもない提案が待ち受けている予感しかなく、警戒心に厳しく眉を寄せた。
「いや、知り合いにでも目撃されなければ、隠れて付き合うぐらいのことはできるんじゃないかと思ってね」
案の定、スリルすら愉悦に感じているかのような悪巧みを囁くその唇は、大胆不敵な笑みを浮かべている。
あまりにも不埒で衝撃が強く、トキヤも翔もすっかり腰が引けてしまった。
「さすがレン、とんでもねーこと思いつくな……」
「それは、音也と大してやっていることが変わらないような気もしますが」
「ボスに真っ向から楯突くよりは、ずっと賢い選択肢だと思うけど。それとも、今でさえアイドルらしくない辛気臭い面してるってのに、イッチーはこのまま子猫ちゃんへの想いを封印して、本気で歌えると思ってる?」
「そ、それは……」
ずいと顔を近づけ、弱点を見透かして的確に突いてくる眼差しに、返す言葉が見つからず視線を余所へ泳がせる。
今まで容赦なく無駄を切り捨ててきたこの理性ならば、きっと割り切れると自負してきたというのに。
『自分の気持ちに嘘をついたら、全部が嘘になる。それじゃあ、生きる意味なんてないと思うから!』
あの夜、音也の真っ直ぐに貫かれる信念を表す言葉が、胸に深く突き刺さった。
これまで溢れる優衣への愛欲に蓋をして、これ以上を望んではいけないと自戒してきた自分は、結局のところ、HAYATOとして歌っている時と同じく自分の心を抑えて偽っているだけなのだと、頭を打ちつけるように思い知らされた。
しかし、規則に縛られるが故に思いつきもしなかった選択肢も、音也の選ぶ茨の道よりも利口ではあるにせよ、どのみちリスクはかなり高い。
「ま、決めるのはイッチーだから、好きにしたらいいけど。ああでも、もし付き合うことになったら、恋愛初心者のイッチーには愛の伝道師がしっかりサポートしてやるから、正直にお兄さんに報告すること。いいね?」
「誰がお兄さんですか」
「俺ももちろん、できることなら協力するぜ。仲間だろ?」
「翔……」
同じ学園に通う人間は皆、夢を叶える上で蹴落とすべきライバルだと認識してきた。馴れ合う必要はない。全てを踏み台にしてのし上がるつもりでいた。
が、何ヶ月も同じ教室で共に学び、彼らの持つ魅力や姿勢に触発されるうちに、その実力も、こうしてお節介なくらいに親身になってくれる懐の深さも、認められるようになった。
まさかこの私が、仲間という言葉の響きに背中を押される日が来ようとは。ふっと自嘲の笑みが生まれる。それは絆されてしまった今の自分へのものか、或いは過去の視野の狭さへのものか。
「少し、考えてみます」
どちらにせよ、この目に映る世界を変えてくれた彼女のためにも、そして見守ってくれる友のためにも、熟考してみる価値はあると思った。
そして、その日の夜。音也の身にとんでもないことが起きていることを、トキヤは知ることになる。
「あけまして、おめでとうございます」
待ち合わせた駅の出口で顔を合わせ、新年のどこか浮ついた空気と周りの喧騒に紛れて発した第一声は、改まった新年の挨拶だった。
優衣は畏まって姿勢を正し、深々とお辞儀をして返す。
「おめでとうございます。えと、昨年はそれはもうたくさんお世話になりまして……その、今年も……」
「ええ、今年もよろしくお願いしますね」
「はい!」
怯みがちに消えゆくその先をしっかりとなぞってやると、彼女は嬉しそうに笑って頷いた。その温かな笑顔を眺めているだけで、自然とつられて微笑んでしまう。
「今年も」などと言っても、二人に残された時間はごく僅かだ。他人として直に触れることも言葉を交わすこともなく、完全に分かたれる日常を過ごさなければならない。
だから彼女は、一年を約束する挨拶に後ろめたさを感じた。だからトキヤは残りの時間を尊み、あえて約束した。
そうして不安の取り除かれた二人は、出口を背に共に歩みだすのだった。
駅から神社までの道は軒並み屋台が並んでおり、祭りのように賑わっていた。同じ目的を持つ人々の雑踏に流され、ゆっくりと進む。
人混みは苦手だ。他人との距離が必要以上に詰められては不快を覚え、自分のペースで思うように進めないと煩わしく感じ、どこかで沸く品のない騒がしい声は耳が痛くなる。そこにいるだけで、神経を消耗して心身共に疲弊させられる。
そんな状況でも、不思議と優衣が傍にいるだけで苦ではなくなる。彼女を眺めているだけで張り詰めた神経が解れ、密になった距離に胸が高鳴り、他愛のない言葉を交わしていれば他のことなど何も気にならない。
「まさか新年早々に一ノ瀬さんに会えるなんて、今年も良い一年になりそうです」
「そうですね。私もそう思います」
「あ、そうだ。あの指輪、ちゃーんと嵌めてきましたよ。ほら!」
「ああ、ありがとうございます。私も、ほら」
「お守り、着けてくれてるんですね。嬉しいです!」
それぞれに与えられた証を見せあい、互いに繋がれているのだと実感できる。
名を呼ぶ声が、隣を歩きながらはしゃぐ笑顔が心を癒やしてくれる。身に食い込む程の寒さも溶けてしまうくらい、春のような暖かな感情に満たされていく。
『でもそれじゃあ、名前を呼んでもらうだけで嬉しくなる気持ちも、大好きな人を抱きしめた時の温かさも、キスした時の幸せな気持ちも、何もかも独り占めしたくなる気持ちだって、全部知らないままだ』
そう感じられるだけで十分幸せだと、慎ましく現実を受け入てきたはずなのに。物足りなさを感じるのは、あの男のせいだ。
直向きな言葉は時に呪いのように、脳裏にこびりついて離れない。必要ないと切り捨ててきたはずの欲望が再び芽生え、心を大きく揺らがせる。
「そういえば、一ノ瀬さんはおみくじとか引いちゃう派ですか?」
苦悩の渦に囚われていた思考が無邪気な声に引きずり出され、はっと微かな鋭さを持つ息が漏れた。
「おみくじ?」
「あー、でも一ノ瀬さんはそういうのに左右されなさそうですよね」
「春日さんは引くんですか?」
「うーん、どうしよっかなあって悩んでて。凶とか引いちゃったらショックだし」
悩ましげに唸る姿は実に真剣で、触発されてしまう。たかがおみくじにそこまで本気なるなど馬鹿らしいと、かつての自分なら軽んじていただろうに。
「せっかくですし、一緒に引いてみますか?」
「えっ?」
「あなたとなら、運試しも悪くないかもしれません」
きょとんとした顔が、次第に綻んでいく。
一枚の紙切れの結果に一喜一憂するのも、彼女とだから楽しい。結果そのものに興味はない。ただ、彼女の不安に怯える顔も、きらきら喜ぶ顔も、落ち込む顔も、この目に納めたくて、愛でたくて。
「大凶引いたら慰めてくれます……?」
「引く前から随分と弱気ですね。大丈夫ですよ、何があっても私がいますから。二人ならきっと、どんな困難も乗り越えられます」
たとえ離れていても、二人の想いは目に見えない強固な糸で繋がれているから。不安がって身を竦める彼女を解き放ちたくて、確信を語った。
「えへへ、それなら心強いかな」
蕩けるような笑顔に、こちらの心も甘く蕩かされる。
もっと、もっと深く満たされたい。どろりと流れる幸福に混じる欲望が、自制を越えて溢れていく。そうして心の奥が柔くなって、我儘が口を突いて出てしまった。
「春日さん」
「はい?」
「……名前を、呼んでも構いませんか?」
「へっ……? えっ、な、名前ですかっ?」
「ええ。優衣、と」
唐突な願いに慌てふためいていた彼女は、その名を呼ぶと途端に面食らった顔を林檎のように赤く染めた。瑞々しく熟れた頬は、食べてしまいたくなるほどにそそられる。
たった名前を呼ぶだけで、こんなにも翻弄してしまうとは。それだけ自分が彼女の心を魅了しているのだと感じて、優越感に浸ってしまう。
「一ノ瀬さんがそう呼びたいのなら、あたしは……大丈夫、ですけど」
「それなら、お言葉に甘えて。ずっと呼んでみたかったんです、あなたによく似合った可愛らしい名前ですからね」
「そ、それは、お父さんとお母さんに感謝しないとですね!」
「ふふ、そうですね」
世辞と受け取ったのか、はたまたわかった上での照れ隠しか。絶妙にはぐらかす声はわかりやすく上擦っていて、また一つ、笑みがこぼれる。
「あ……じゃあ、あたしも、トキヤさんって呼んだ方が自然、ですかね?」
そうして気を緩めていると、不意を突いてきゅっと胸を甘く掴まれた。
不安げに下がる眉と、控えめに様子を窺う上目遣い。そしてほのかな期待を帯びた声で名を呼ばれては、もう絆されるしかなく。
「ええ、ぜひ」
今までずっと踏み越えられなかった一線を、とうとう越えてしまった。柔く嬉しそうにはにかむ彼女を目の当たりにすれば、罪の意識すら薄れてしまう。
「なんだか名前を呼び合うだけなのに、今までよりも距離が縮まった気がします」
「そう、ですね」
「本当に、夢みたいです」
浮かれた彼女の言葉に、重みが増した気がした。
名前を呼んだ瞬間に後戻りできなくなりそうで、ずっと躊躇っていた。いつか別れることになっても、浅い傷で済むように。すぐに出逢う前の自分に戻れるように。
きっと、彼女も同じだったのだろう。夢ではないと、手袋越しでも温もりで証明してやりたくて、そっと手を握った。顔は帽子やマスクでできる限り隠しているし、神社までの道を流れる人混みに紛れた今なら注目されることもないだろう。
驚きに強張った小さな手はやがて力を抜いて、委ねるように握り返してくれた。変わらず、至極幸せそうにはにかみながら。
「やったー! 中吉だ!」
参道はやはり混雑していたが無事に拝殿での参拝を終え、早速運試しに興じたわけだが。自分のおみくじを引いている傍ら、先に引いた優衣の無邪気に喜ぶ声が弾けた。
「ふふん。中身も結構いいこと書いてるし、これは良い一年になりそう」
「良かったですね。私は…………っ」
「トキヤさん?」
上機嫌に結果を眺める彼女に微笑ましさを感じながら、自分の結果に視線を落とした瞬間、不吉な文字が目に飛び込んで頬が引き攣った。
ぴたりと動かなくなったこちらの異変を察した優衣は、横からひょっこり頭を傾けて手元を覗き込む。遠慮を忘れた距離感と微かに香る甘い香りに、密かに心臓が鼓動を強く打った。
「うわあ、凶……」
いたたまれなさに、彼女の声が震えた。
彼女が中吉というそこそこに良い結果を出した手前、それとなく気まずい空気が流れた。お人好しな彼女のことだから、きっと妙に気を遣いだすに違いない。
凶という字のインパクトに思わず気圧されてしまったが、元よりこういった占いを手放しに信じているわけではない。あくまでも可能性の一つだ。だから狼狽える必要もないし、落ち着きを払うのも決して強がりではない。
「まあ、所詮は運試しですから。そこまで真に受ける必要もありません」
「そ、そうですよね! ちなみに、中身は……?」
熱心にも細やかな字を読み取るため、ますます寄りかかる重みは温かい。旋毛から流れる黒い髪は艷やかで、触れてみたくなってしまう。
「願事、試練を乗り越えた先に必ず叶う……待人……来ない。自ら会いに行け……」
「失物は……出にくい。根気よく探せ、ですか」
「あ、健康と旅行はかろうじて問題なさそうですよ」
「はあ……」
さすが凶というだけあって、厳しい言葉が並ぶ。いくら気にしていないとはいえ、こうも幸先が悪いと陰鬱な影に脅かされる。
「こ、これはしっかり結びつけておきましょう!」
そんな気配を頭上に察してか、優衣は慌てておみくじを奪い取ると、手を伸ばして目の前の結び場に固く結びつけた。絶対に凶運を持って帰るまいという強い気概を感じる。
別に、彼女が引いたわけでもないのに。ふっと気を緩めていると、満足げに頷いた彼女がこちらを振り返った。
「よし、これで大丈……夫……」
声が途切れ、こちらの息も詰まり、時が止まったかのように二人の動きが固まる。思いの外間近に迫った顔は驚きと焦りに目を見開き、次第に鮮やかに色づいた。
「す、すみません! あたし、やたらと近かったですね!? ――わっ!」
「危ない!」
離れようとしたところで不安定な砂利道に転がる大きめの石を踏み、バランスを崩してよろめいた彼女の腕をとっさに掴んで引き寄せ、腰に腕を回して体を支える。そうして腕の中に程よく収まった彼女は、畏縮したように小さく身を竦めた。
「足、挫いたりしていませんか?」
「は……はい……ありがとう、ございます」
しゅんと消沈していく声と、視線。冬の厳しい寒さに曝されながらも血色のよい頬は、こちらを自惚れさせるには十分だ。
このまま抱きしめてしまいたい衝動に駆られたが、なけなしの理性がぐっと堪えた。
その後、お揃いのお守りを買って満足した二人は、神社を後にして帰り道をゆっくりと歩く。行き着いてからそこそこに時間が経過したと思ったが、今もなお人混みは絶えない。
「この後はどうしますか?」
「うーん、どうしましょう。どこ行っても人いっぱいだし、お店もそんなに開いてないでしょうし……なかなか行く宛がありません」
悩ましげに傾く彼女の頭を眺めながら、トキヤも思案する。
特に行きたい場所もなく、むしろどこか静かな部屋に閉じこもってしまいたいくらいだ。しかし、いくら正月で人が出払っているとはいえ彼女を寮に連れ込むわけにもいかず、思い当たるのはやはり。
「……家、来ます?」
「えっ?」
「今日、お父さんとお母さんも初詣に行ってて、ちょうど家に誰もいないんですけど」
こちらから切り出すよりも早く、純粋な厚意からなる誘い文句が向けられた。それに対して少しでも疚しさを感じてしまった自身を厳しく律すると共に、危機感の欠片も感じさせない彼女にも同じく注意を促してしまう。
「以前から思っていたのですが」
「は、はいっ?」
「君は少々無防備が過ぎるのでは? ……その、ご家族が留守の時に、異性をそう易々と家にあげるなど……警戒心がなさすぎるかと」
「ええっ、でも、トキヤさんなら大丈夫かなーって思ってたんですけど……まずかった、ですかね?」
窘められて肩を怯ませる彼女が遠慮がちに吐露したのは、穢れを疑うことのない絶対の信頼だった。
ますます自身の邪な思考が浮き彫りになり、ばつが悪くなって返す言葉もない。確かに、彼女に思慕の念を抱く前の自分であれば、ここまで気にすることはなかったかもしれない。
「いえ。私を信用した上でのことなら、別に構わないのですが」
「じゃ、じゃあ……」
「ええ。お言葉に甘えて、お邪魔させていただきます」
かといって、このまま解散してしまうのはあまりにも名残惜しく。素直に頷くと、不安に怯えていた顔が晴れやかに笑った。
コトリ、と目の前のテーブルに湯気の立ちのぼる湯呑みが置かれた。
「はい、今日はほうじ茶です。外はかなり冷えましたから、ゆっくり温まっていってくださいね」
「ありがとうございます」
早速湯呑みに手を伸ばし、冷えた手の中にじわりと熱が広がっていくのを感じる。焙じ茶の優しい香りに心安らぎながら一口喉へ流し込むと、凍えた体を溶かすように沁み渡っていく。
ここへ来るのは三度目だ。彼女が隣に座り込み、猫舌らしく息を吹きかけて茶を冷ましている間、部屋をぼんやりと見渡す。壁に向かって二つ並んだ勉強机と、目の前のテーブルを挟んだ向こうに設置されている小さめのテレビ。ふかふかのクッションに座らされている背後には、二段ベッド。
彼女一人の部屋ではないことは確かだが、そんな話は今まで聞いたことがなかった。これまでは、互いにそこまで詮索する精神状態ではなかったというのもあるが。
「……一つ気になっていたのですが」
「ん、どうかしました?」
「君には、ご兄弟がいるのですか?」
ほんの一瞬だけ、彼女の横顔が揺らいで見えた気がした。
「はい、姉が一人。今は大学の寮で生活しているので、家には滅多にいないんですけど」
「年末年始でも、帰られないのですか?」
「バイト先がかき入れ時でボーナスアップしてもらえるからって、帰ってくる気ないみたいです」
いつもの調子を装っているようで、どこか声に歪な色を感じさせる。
彼女にしては意外だが、決して円満な仲というわけではなさそうだ。さすがにそこまで詮索するのは野暮だと思い、抱いた違和感をそのまま胸の内に留めておくことにした。
「そんなわけで、今じゃこの二段ベッドもあたし一人で占領しちゃってるんですけど、友達泊める時なんかは結構重宝してるんですよ。あ、よかったらトキヤさんもいつか泊まりにきてくださいね」
「……は?」
「え? ……あっ」
気軽に流れていく発言に、耳を疑った。信頼というには、さすがに買い被りすぎているような無防備さだ。
こちらが唖然として固まっていると、彼女は遅れて己の失言に気づいて慄いた。
「い、今のはその、深い意味は全然なくてですねっ。なんていうか、トキヤさんと過ごす時間っていつも全然足りなく感じちゃって、もっと……一緒にいたくて……」
懸命に弁解しようとするも、どんどん墓穴を掘っていくと共に弱々しく消えていく。彼女がこうして幼気な望みを口にするのは珍しい。
「どうしました? 今日の君はいつになく甘えたがりですね」
愛でる手つきで頭を撫でながら顔を覗き込むと、物欲しそうな瞳に抱き込まれそうになる。
無意識な距離の近さや、大胆な言動。普段はこちらの望みを優先して叶えてくれる彼女が、素直に甘えてくれるのは喜ばしいことだというのに。
「浮かれちゃってるのかも。トキヤさんの名前を呼べて、トキヤさんに名前を呼んでもらえて、それだけで嬉しくて、舞い上がっちゃって……こんなはずじゃなかったのに……」
次第に瞳は戸惑いに揺れ、戒めのごとく伏せられる。罪の意識を抱えて、苦しみを堪えて。
「優衣。名前を呼びあえて浮かれているのは、君だけではありませんよ」
「トキヤ、さん?」
「ほら、わかりますか? 私の胸の高鳴りが」
優しく言い聞かせるように語りかけ、小さな手を取って心臓に重ねる。鼓動を感じた優衣の手のひらはぴくりと身じろぎ、静かに息を呑んだ。
「す、すごく、どきどきしてる……」
「ええ。君と一緒にいる間中、ずっと鳴り止みません」
羽目を外しそうになっていたのは、君だけではないと。直に伝えて、安心させてあげたかった。
「だから、どうか自分を責めないで。君の望みは決して、君一人のものではありません」
今にも泣きだしそうな顔を見た瞬間、頭を胸に抱き寄せて、優しくあやすように何度も撫でた。
自分には、学園どころか業界で絶対に敵うことのない相手に、無謀な戦いを挑むほどの愚直な強さを持てない代わりに、せめて今は彼女の不安を取り除いて大事に守りたい。
名前を呼び合う喜びも、抱きしめる温もりも、何よりも大切に育める愛情も、しっかりとこの胸に刻んでいる。それでも、まだその先に進めるのなら――
目の前にある選択肢を掴み取る勇気は、まだトキヤにはなかった。
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