噂というものは、瞬く間に広がるものだ。
「なんか番組の企画で、ウチのダンス部とHAYATO様がコラボするんだってさー!」
「あー、ウチのダンス部有名だもんね。去年も全国大会で優勝したんだっけ」
「アイドルとコラボだなんて本格的だよね。あたしたちも見に行けたりしないかな〜」
「せっかくだもん、ちょっとくらい見せてくれてもいいよね!」
校内はすっかりHAYATOの話題で持ちきりになっていた。
教室にいる間も、廊下を移動する間も、HAYATOの名を聞かなかったことはない。テレビでも引っ張りだこの人気アイドルが来訪するというのだから、盛り上がってしまうのも無理はないだろう。間近で共演する機会を与えられたダンス部員たちも、積極的に言い触らしているらしい。
そんな空気に触発されるかのように、優衣の胸も落ち着かずにそわそわしていた。HAYATOによく似た青年に助けられたあの日から、HAYATOのことを意識するようになったのだ。ミーハーだと言われても、否定はしない。
あの時の青年の言葉を素直に信じるのなら、あれはHAYATO本人ではないというのに。それでも彼の言葉を信じきれずにいるのは、礼を伝えられなかったことへの未練から生まれる我侭なのかもしれない。もしくは一瞬見えたかもしれない隙に縋りつく、諦めの悪さか。
一目でいい、HAYATOの顔を間近に見たらわかるかもしれない。ただ助けてくれた青年に礼を伝えて、あの時借りたハンカチを返したいだけだから。本当に彼がHAYATOでなかったのなら、もう諦めよう。
「ま、そんな少女漫画みたいな展開、あるわけないか」
出来すぎた夢のような空想を自嘲しながら、優衣は何事もなく流れる日常の喧騒の中、いずれ来る運命の日に向かって歩き続けた。
土曜日の学校とは、こんなにも賑やかなものなのか。休日でありながら、下手をすれば全校生徒が集まっているのではないだろうか。それほどに校内は期待に満ちた熱気に包まれている。
もちろん、普段通り真面目に部活動に励む者たちもいるし、優衣のようにテストの点数が悪かったために億劫ながら補習を受ける者たちもいる。
今か今かとアイドルを迎える野次馬たちから隔離された、人が疎らに席に着く静かな教室。お経のように流れる教師の解説を背景にして、黒板に羅列された数式をぼんやりと眺める。あれを理解できるようにならなければいけないのに、優衣の意識はどうしても外へと向く。
今頃は自分だって、彼女たちに混ざってHAYATOの到着を待ち望んでいるはずだった。この間の数学のテストの出来が悪かったばかりに、叶わぬ夢となってしまったけれど。こんなことならば、もっと勉強しておくべきだった。なんて遅すぎる後悔を抱いていると、外から黄色い歓声が一際強く響いてきた。
「そういや、今日は有名人がウチに来るんだったか?」
おじいちゃん先生と生徒たちから呼ばれる数学教師も、さすがに解説を止めて外に関心を向けた。睡魔と数式と戦っていた同士たちも、緊張の糸が解れたのか軽口を叩き始める。
「あーあ、わたしもHAYATO見たかったなー」
「あたし結構ファンなのにぃ〜」
「HAYATO自体はどうでもいいけど、せっかくだし俺も有名人見たって自慢したかったなー!」
「そもそもお前さんたちがきちんと勉強していれば済んでいた話だろう」
「ちえーっ」
それはごもっともです。同級生たちが唇を尖らせる傍ら、優衣は心の中で嘆くしかなかった。
一時間の補習を終えた頃には、校内は静けさを取り戻していた。ダンス部との本格的な撮影が始まったのだろう。部外者たちは散り、人気はもうすっかり減っていた。
「ねー、この後どうする?」
「おなかすいたし、食堂で食べてかない?」
「あたしお弁当持ってきてるし、賛成!」
「優衣は?」
「じゃあ、あたしも食べて帰ろっかな」
「オッケー! 行こ行こ!」
同じく補習を受けていた友人たちと共に、閑散とした廊下を並んで歩く。
補習で気疲れしてしまったのか、体がほんのり怠い。友人たちも気怠そうに背筋を伸ばしている。それでも心地良い解放感に浸って、補習を受けている間に比べれば随分と気分は晴れ晴れとしている。
「HAYATO、今日体調悪いってさ」
階段を下りていると、不意に聞こえてきた男の声にどきりと心臓が反応した。
機材を抱えた数人の男たちが踊り場を通り過ぎる。テレビ局のスタッフだろうか、不服そうに顔を歪めている。
「マジかよ。今さら収録先延ばしとか無理だぞ」
「まあ、本人は大丈夫だっつってるし、倒れなきゃセーフだろ。どうせHAYATOなんてキャラで罷り通ってるような奴だし、世間はクオリティーなんかさほど求めてねーよ」
「それもそうだな。今回の主役はここのダンス部の連中だし、向こうさえしっかりやってくれりゃいくらでも誤魔化せんだろ」
気がつくと、足が竦んでいた。彼らはこちらの存在に気づきもせず、汚い本音をぼやきながら去っていく。テレビの裏側を垣間見た気がして、すこぶる気分が悪くなってしまった。
不穏な空気が漂う中、友人たちも隣で顔を顰めて不満を吐き出す。
「何、今の。カンジ悪ー」
「あたしのHAYATO様のこと、あんな風に言うなんてサイテー!」
「でもさ、所詮はアイドルって絵面さえよければみたいなところあるよね。歌も口パクとかよくあるんでしょ」
「HAYATO様はそんなんじゃないですー!」
「はいはい。にしても、テレビ局の人間ってあんな感じなんだねー。ダンス部の人たち、めちゃくちゃ気合い入れてたのに、失礼じゃない?」
「ほんとそれ。完全にナメてるよね」
踊り場に出て、スタッフが通り過ぎていった方角を見やる。すっかり姿も見えなくなってしまったが、友人たちは彼らへの悪態をやめない。
確かにダンス部への侮辱的発言も不快ではあるが、それ以上に優衣にとってはHAYATOの体調が気がかりでならなかった。テレビ局の人間たちはスケジュールの心配ばかりで、HAYATOの体のことなど気にも留めていない。まるで視聴率のための道具として扱われているみたいで、彼らへの憤りが悶々と胸中に渦巻く。
「大丈夫なのかな。HAYATO、さん……」
「確かに。芸能人って大変よねえ、体調悪くてもスケジュールこなさなくちゃいけないなんて」
「それがプロってヤツなんでしょ。ほら、体調管理も仕事のうちって言うじゃん」
「そうだけど……」
友人の厳しい言葉が、小さく良心に刺さる。
芸能人だって同じ人間なのに。理不尽を感じながらも、それ以上の反論の言葉を見つけることはできず、ただ懐に蟠りが残るだけだった。
食堂で昼食を済ませた優衣はそこで友人たちと別れ、HAYATOへの未練を抱きながらも大人しく家に帰ろうと決断したのだが。忘れ物に気づき、補習が行われていた教室へと戻る羽目になってしまった。
その道中。あれは恐らく保健室の前だろうか、見慣れない大人たちが数人集まっていた。
「それでは、また再開する頃に迎えに来ますんで。それまでゆっくり休んでてください」
「すみません。ありがとうございます」
室内へ声をかけるテレビ局の関係であろう男性に、どこか弱々しく返す声は聞き覚えのあるものだった。静かに扉を閉めて立ち去る彼らの背中を眺めながら、そわりとまた胸がささやかに騒いだ。
HAYATOが体調不良だという話はどうやら本当だったらしい。撮影がどのように進んでいたのかはわからないが、先ほど聞こえた声は日頃テレビで見るような明るさを失いつつあった。そして不謹慎ながら、その中にかつて自分を助けてくれた青年の片鱗を見たような気がしてしまった。
諦めかけていた希望が、すぐそこにある。さすがにHAYATOを一人残して行くことはないと考えはすれど、僅かに残された可能性を見過ごすことはできずに、恐る恐る保健室に近づく。
扉に嵌め込まれた小さな窓ガラスには、『立入禁止』と即席で書かれたであろう紙が貼られていた。間違いない、ここにHAYATOがいるのだと確信した。
「す、すみませ〜ん。……あれ、誰もいない?」
覚悟を決めて扉を軽くノックして、返事を待たずにそろりと中へ侵入すると、保健医の姿さえ見当たらずに拍子抜けしてしまった。しんと静まり返った無人の部屋で、ただひとつのベッドだけがカーテンでしっかりと遮断されていた。
きっとあそこにHAYATOが眠っているのだろう。今ならカーテンを捲って確かめることができるのに、さすがに病人を前にそのような不躾な行為は憚られた。あと一歩、どうしても踏み込めない。強いもどかしさが胸元を這い上がっていくのを、深い溜息で無理矢理に懐へと押し込める。
……もうやめよう。舞い上がっていた心がようやく冷静さを取り戻し、押しつけがましく抱いていた彼への恩を大切に仕舞おうとした。
「うっ……んん………………」
閉じられたカーテンの向こうから、苦しげな呻き声が聞こえた。
せっかく諦めようとしていたのに、彼に対して別に抱いていた情が体を突き動かす。物音を立てないように慎重な動きでカーテンを潜り抜け、ベッドに近づいて。すると、くしゃりと皺のついた白いシーツに包まり、無防備に眠るHAYATOの姿があった。
眉間に厳しく皺を寄せながら眠りに就くその様は、テレビでよく見る表情からはとても想像できない。よほど辛いのだろうか。静かに響く寝息は、どこか荒立っていた。
もしかして、と思い立ち、起こさないように細心の注意を払って指先を少し汗ばんだ彼の額に触れさせる。
「熱っ」
びっくりするあまり、思わず口を突いて声が出てしまった。咄嗟に手を引っ込めて、口元を押さえる。聞こえるのは己の心臓の暴れる音と、変わらず苦しげに繰り返される彼の寝息だけ。どうにか起こさずに済んだらしい。ほんの少しだけ、緊張から解放される。
それにしても、これほどまでに高熱を出しながら、何でもないように装って撮影に臨んでいたのか。そのプロ意識の高さには感服してしまうが、いずれ体を壊してしまわないだろうかという心配が影となって落ちる。
しかし、赤の他人であるただの一般人には彼を看病する権利などなく、ただ身を案ずることしかできない。せめて何かできないか。思いついたのは、ひとつだけ。
「いつも元気をくれてありがとう。早くあなたも元気になれますように」
*
少しだけ、夢を見ていた気がする。
まだぼんやりと不明瞭な意識の中で、額に冷たさを感じた。気怠く重い腕を持ち上げて、額に乗る布らしきものを掴み取る。包まれていたのか、重みのある塊がそこから顔に抜け落ち、衝撃に目を瞑る。額に感じていたものよりも直に伝わる冷たさ。これが氷枕であると認識するのに、そう時間はかからなかった。
そして、手に掴んでいるのは見覚えのある黒いハンカチ。
「これは……」
やがてはっきりと覚醒した意識は時を遡り、振り返る。
このハンカチは、少し前にとある少女の手に渡ったものだった。もう二度と会うこともなければ、このハンカチが返ってくることもないだろうと思っていた。何故なら、彼女はどこの誰ともわからない赤の他人なのだから。
『いつも元気をくれてありがとう。早くあなたも元気になれますように』
夢の中で聞いた優しく抱擁するような声は、彼女の声に似ていた気がする。しかし、そんなわけがない。今、この保健室は関係者以外は立入禁止になっているはず。それに、自分がここにいることは収録スタッフと事務所のマネージャーしか知らない。そもそも彼女が出会ったのはHAYATOではない。あの時、疑いは晴れたはず。
これは同じ色の、違うハンカチなのかもしれない。あの声は、追い詰められた心身が生み出した幻聴だったに違いない。
それでも、この学校には彼女がいる気がした。彼女自身に特別な思い入れはない、所詮は赤の他人だ。 それでも、夢の中に降ってきた声はあまりにも耳に馴染み、殺伐とした日々を必死に生きるこの心を包み込んだ。
存在するかもわからないものを追い求めるなど、馬鹿馬鹿しい。しかし、トキヤの心は既にその声に囚われていたのだった。
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