「すみません、大変な時に」
デモテープと改良された楽譜を渡された手に、少しの後ろめたさが食い込んだ。
冬休みが終わって早々に、春歌から曲の構想が固まったので確認してほしいと連絡が入り、トキヤは仮に打ち込まれたデータを受け取るべくAクラスの教室を訪れた。そこに、音也の姿はない。
「いえ、約束ですから。あまり時間は取れませんが、リテイクにはお応えしますので」
「ありがとうございます。できるだけ取りこぼさないように要点を纏めて、こちらからの要望を提出させていただきます」
彼女の真摯な対応には、頭が下がる思いだ。彼女もクリスマスの一件以来、学園長に無理難題な課題を押し付けられていたというのに。
それでも根性で課題を達成し、学園長の地獄の強化実習と戦う音也と、数少ない空いた時間を埋めるように練習に励んでは、音也がいない間も必死に曲と向き合っている。さらには合間を縫って、こちらの楽曲も磨き上げようとしてくれているのだ。
彼女の作曲家としての手腕と音楽に対する姿勢は、やはり高く評価せざるをえない。
「……何故、音也の手を取ったのですか?」
「えっ?」
だからこそ理解ができなかった。我が身が可愛くないのかと苛立ちすら覚えるほどに、その選択肢が腑に落ちない。
「あの男の行動によって、君の将来も危ぶまれているのですよ。せめてあの時、音也の手を取らなければこんな事態にはならなかったはずです」
「それは……音也くんを信じているから。音也くんがやると決めたから、私はパートナーとして全力で付いて行くだけです」
それでも彼女の瞳は真剣で、決して潰えることのない強い輝きを秘めている。普段の控えめな自己主張とは比べ物にならない、熱い意志がそこにある。
それを見てはもう、愚問だったと笑うしかない。
「やはり君は、音也の作曲家にしておくにはもったいない逸材ですね」
「そ、そう……でしょうか」
「ですが、君のような変わり者でなければ、あの音也には付いて行くこともできなかったでしょう。お似合いだと思いますよ」
「あ……ありがとうございます!」
「いえ、別に褒めているわけでは……」
皮肉を差し向けたつもりが背中を押したと勘違いされたらしく、「お似合い」という言葉には恥じらいながらも、どこか嬉しそうに頬を染められてしまった。
妙なところで肝が据わっているらしい。すっかり調子を狂わされたトキヤは、決まりが悪く顔を歪めた。
*
ラッピングされたハートや星型の生チョコを満足げに眺め、冷蔵庫の扉をそっと閉める。明日のことを考えただけで胸が躍り、頬の緩みが止まらなくなってしまう。
クラスのみんなや担任の先生、そして父に所謂義理チョコという名分で今日はたくさん味見をしてもらったが、軒並み好評だったおかげで自信がついた。
『トキヤさんって、甘いもの苦手でしたっけ? たとえばチョコレートとか』
『あまり甘すぎるものや量の多いものは食べられませんが、少し嗜む程度なら問題ないですよ』
『本当ですか!? ありがとうございます!』
先日の直々の電話で既に下調べは済んでいる。この冷蔵庫に眠るチョコは、トキヤのためだけに他よりも甘みを抑えて作ったものだ。他とは違う、初めての特別。
元々会う約束を交わした時はバレンタインのことなどすっかり忘れていて、明日も偶然互いの予定が空いていたからでしかないのだが、教室で繰り広げられる友人たちとの他愛ない会話に触発され、今に至る。
バレンタイン当日に渡せないのは残念だが、渡す機会があるだけでも幸せだ。どうか喜んでもらえますように。冷蔵庫に向かって小さく祈ると、浮かれた気持ちをそのままにリビングに戻った。
今日は生放送の人気歌番組――ソングステーションでHAYATOが新曲を披露するのだから、絶対に見逃してはいけない。父がソファーで寛ぐ横を陣取り、傍にあった丸くてふかふかのクッションを抱きしめて興奮を押さえつける。
HAYATOがテレビに映ると、ますますクッションを抱く力が強まる。
「あれかあ、優衣が最近ハマってるアイドル」
「え……う、うん」
興味深そうに父が食いついてくるのに対して、優衣は唐突に恥ずかしくなって素っ気なく頷いた。今の姿勢を改めてハマっていると表現されると、なんだか擽ったい。
あれは偽りのアイドルであって、一ノ瀬トキヤではない。そう言われても、テレビの中で煌めく笑顔を見せる彼を偽りだなんて思えないし、トキヤと完全に区別することもできなかった。
彼のアイドルにかける情熱は、彼本人であろうとHAYATOであろうときっと変わらない。たとえ偽りの姿でも、そこに秘められた彼の想いは変わらないからこそ現状に満足できず、葛藤が生まれるのだろう。HAYATOが歌う姿を真剣に見つめ、洗練された歌声を聴きながらも、そう感じられる。
所詮は素人の所感でしかない。快く受け入れてもらえないかもしれない。だけど少しでも糧になるのなら、きちんと伝えたい。
もどかしい思いを抱えて半ば上の空になっていたところ、唐突に桜色の髪が映って我に返った。
「えっ……!?」
「ど、どうした? 優衣の知り合い?」
「知り合いというか、一方的に知ってるというか……」
思わず身を乗り出して画面を凝視し、父の驚く視線を寄せてしまった。
他人の空似ではない。HAYATOは早乙女学園からの見学者として彼女を紹介し、今歌ったのは彼女の曲だと言った。緊張してぎこちなく固まる姿は、ごく普通の女の子だ。
まだ学生で優衣と同い年ぐらいだろうに、プロにまで歌われて評価されるだなんて、率直に凄い人なのだと感心した。
『そういえば、君はどうして作曲家になろうと思ったの?』
『あ、あのわたし、HAYATO様の大ファンで、いつか、わたしの曲をHAYATO様に歌ってもらえたらと……』
『そうなのっ!? わぁ、ボクのファンなんだぁ、嬉しいにゃあ。ふふっ。君さえよかったらボクの専属の作曲家になって欲しいにゃ』
リップサービスか、或いは本心か。HAYATOは好意的に握手を求め、女の子は固まっている。
別にそれに対して嫉妬しているわけではない。だけど、何故だかその光景を見ていると胸が熱く滲みて、見ていられなくなって視線を逸らしてしまった。が、すぐに再びテレビの方へ引きつけられることになる。
『やめろ! さわるな! HAYATOには譲らない!』
二人に割って入ったのは、赤髪の青年。これも見覚えのある姿だった。
「えっ、あれって……」
「あの子も、優衣の知ってる人なのか?」
「え〜っと……まあ……」
父の問いには苦笑いを浮かべ、曖昧に返すしかなかった。あれが養成所の役割を担う学園でアイドルを目指している青年だと知ったら、どんな顔をされるかわからない。
かつてはステージで明るく弾けるような笑顔で煌めいていた彼は今、女の子の肩に手を回してHAYATOに敵意を剥き出している。
すぐに画面が切り替わり、ステージの外で待機するゲストたちが映しだされた。
騒然とするスタジオ内。どう見ても台本通りではない、アクシデントだと素人目に見てもわかる。
『この子は俺の……。俺だけのパートナーなんだからっ! 渡さない!!』
画角から外れても音声はしっかりと拾われ、一十木音也の堂々たる主張は生放送で全国に響き渡ったことになる。
トキヤが今まで絶対的に避けてきたことを、彼は臆することなくやってみせたのだ。きっと学園の関係者だって見ているだろうに。後のことを想像しただけでぞっとする。
でも、怖いもの知らずな彼らが少しだけ羨ましかった。何も恐れず自分の想いを貫ける強さ、そしてパートナーとして求められるだけの能力を持てることが。
『ボクの専属の作曲家になってほしい』
HAYATOの言葉がリフレインすると同時に、胸の痛みを思い出す。
自分も彼女みたいに人の心を惹きつける音楽を生みだす力があれば、ずっとトキヤと一緒にいられただろうか。もっともっと役に立てただろうか。
必要だと言ってもらえるだけで幸せだったはずなのに、何も持てない平凡な手が急激に憎くなって、悔しくて、目元が熱く滲みだす。本当に彼を救えるのは、彼女のような存在ではないのか。
父の前で惨めにも泣いてしまうわけにもいかず、番組を最後まで見ることなく、ふらりと力なく自室に籠もった。
明日、どんな顔をして会えばいいのだろう。こんなどうにもならないことに対し、嫉妬にも近い醜い情を抱いているだなんて、みっともなくて知られたくない。彼に負担をかけたくもない。
頬を軽く叩き、悲しみに綻ぶ心を引き締める。明日は絶対に気取られないようにしよう。どうせあと二ヶ月もしないうちにお別れになってしまうのだから、せめて一緒に過ごす間は綺麗な姿だけを見せられるように。
星型のピックに刺さった小さな一切りの生チョコが彼の口元に運ばれる様を、固唾を呑んで隣で見守る。彼の柔らかな唇がチョコに触れると、その隙間にころりと落ちていった。
「ん、控えめな甘さがちょうどいいですね。口溶けもなめらかで、美味しいです」
「ほんとですかっ? よかった〜!」
彼の素直な反応は、優衣を緊張から解放させるには十分だった。すっかり力が抜けて表情を緩ませると、トキヤはふっと穏やかに微笑みかけてくれる。
「ええ、君の愛情もたっぷり感じられます」
「あ、愛情って、そんな……」
確かに作っている間は終始トキヤのことを考え、喜んでもらえるようにと念じていたが、改めてそれを愛情と称されると気恥ずかしくて、目を見ていられなくなった。
しかし、彼が顔を間近に近づけて容赦なく逃げ場を奪おうとしてくるので、びっくりして再び目を合わせてしまった。今にも触れてしまいそうな距離に、心臓の音が強くなる。
「まさかとは思いますが、これが義理チョコなどとは言いませんよね?」
彼の悪戯に細められる眼差しに追い詰められ、思わず腰が逃げる。
義理だなんて銘打たれてしまえば、否定せざるをえない。否定は一転して肯定にもなると理解していながら、決して誤解されたくはなかったから。
「そんなんじゃないです。これは、その……特別です」
「それは嬉しいです。君の気持ち、ありがたく戴きますよ」
本命と直接謳うには勇気がなくて、違う言葉で曖昧になぞると、こちらの意図を汲み取ってくれた彼は満足げに頷き、二人の距離は元通りになった。甘やかな緊張から無事に解放されてほっと息を吐くと、隣でくすくすと笑われた。
あからさまに揶揄われていることには不満だが、彼の気楽に綻ぶ様々な表情を見るのはとても嬉しい。
近頃はこうして自室で逢瀬を重ねることが増えた。互いの立場を慮って、何よりトキヤには人目を気にせずのびのびと振る舞ってもらいたい。親には彼氏だの何だのと好き勝手に騒がれてしまったが、彼も困惑はすれど嫌な顔はしなかったので安心している。
「こうしてバレンタインで本命を貰うのは初めてですね」
「ええっ、ほんとですかっ? トキヤさんなら余裕でたくさん貰ってそうなイメージですけど」
「HAYATOならまだしも、私としてはそうでもありませんよ。まあ、今までは同世代の人間との交流があまりなかったというのもありますが」
「そう、なんですか?」
あまりにも意外な事実に、首を傾げた。こんなにも綺麗な顔をしていて、優しくて素敵な人が、バレンタインでまともにプレゼントを貰ったことがないだなんて。
確かに初めて会った頃は、物静かで少し近寄りがたさを感じたけれど。それでも、それこそアイドルに向けられるそれと同じように、誰かの憧れの的になることならいくらでもあっただろうに。
それだけ今まで彼が置かれてきた環境というのは、その年代の青年にしては孤高で、厳しく寂しいものだったのかもしれない。そんな中を彼は渡り歩いてきたのかと思うと、なんだか改めて遠い存在に感じた。すぐ隣にいるのに、平坦な大地から夜空で煌めく星に伸ばす手の虚しさが茫然と蝕んでいく。
「そもそも、私にとっての本命は君が初めてですから」
だけど、慈愛の海に満ちた眼差しが、いとも容易く引きずり出してくれる。
濁すことなく純粋に吐き出された言葉は真っ直ぐに、優衣の胸をときめかせる。焦りにも似たむず痒い感覚に顔がだんだん熱くなってきて、一瞬返す言葉を掴み損ねてしまった。
「えっ……と、ここでいう本命って、そういう意味じゃないと思うんですけど!?」
「どのみち同じことでしょう」
「それはっ……そうかもしれないです、けど……」
気づけばまた追い詰められ、口ごもる。意外と彼には意地悪で強引な一面がある。ここ最近、何食わぬ顔で純情を手のひらで転がされる度に感じていたことだ。
でも、少し安心してしまう自分もいる。翻弄されている間は彼のことで頭がいっぱいになって、他に何も考えられなくなるから。それに、くだらない嘘なんて吐かない人だと知っているから、たとえ揶揄であってもその言葉は本心だと信用できる。
おかげで昨日思い悩んだこともちっぽけな問題に思えた。たとえ短くとも、今まで積み重ねてきた時間と彼の紡ぐ想いを信じて尊ぶべきだと。
「……ちなみに、あたしも本命は初めてですよ」
だから、ざわりと漂う不安をなけなしの勇気で振り切って、自分も言葉にした。受け取ってばかりは嫌だから。
僅かに見開かれた瞳から穏やかな情が消え、真剣な光が射した。怯みそうになる臆病な心を奮い立たせて、同じ光を宿してその目をじっと見つめた。
まるで時が止まったように。だけど時計の針の音は確かに時を刻んでいて、静けさだけがこの時空を支配していた。
やがて、彼の滑らかな指先がそっと頬に触れる。ぴくりと肩を微かに揺らしたものの、それを振り払うことはない。
言葉を発することなく、ただ視線だけはこの瞳に熱を訴えて、ゆっくり、ゆっくりとチョコレートの甘い香りをほのかに漂わせて近づいてくる。二人の距離を零へと埋めようと――その美しさに奪われていた意識が、急に我を取り戻した。
「ト、トキヤさんっ!? だめです! やめてください!」
さすがにこれはまずいと危機感を抱き、とっさに肩を押し戻した。すると彼も我に返ったようで元の距離を取り戻し、顔を厳しく歪ませて頭を抱えた。
「すみません……私としたことが、君の意思も確かめずに」
「いや、そういう問題じゃなくて!」
反省する点はそこではない。優衣は大きく首を振った。
「あたしの気持ちなんかどうでもいいです! そんなことより、トキヤさんの方が……校則違反、ですし……」
彼に罪を背負わせることへの畏怖に怯え、膝の上でぎゅっと力を込めて拳を握りしめる。どれだけ固く将来を誓い合っても、証を贈り合っても、今はまだ交わる時ではない。
なのに彼は納得していない顔で、拳に手のひらを重ねる。
「どうでもいいわけがないでしょう」
静かなる叱責に、口を噤んだ。どうして。という言葉を声に出すことができず、ただ見つめるしか術がない。
一方で、彼の指は至極優しく手の甲を愛撫する。手のひらに爪が食い込むくらいに込めた力が、解けて柔らかく抜けていく。
「君を傷付けたくないんです。ただでさえ君は、私のために自分を蔑ろにしがちなのですから」
「そんなことはっ」
今度は緩やかに首を振る。自分を蔑ろにしたことなんて一度もない。トキヤの幸せが自分の幸せなのだから、これは望みどおりと言っていい。
しかし、彼は最後まで言わせてくれなかった。言葉を象ろうとする唇の動きが、彼の人差し指に封じ込められてしまったのだ。
「優衣。私は、君ともっと触れ合いたいと思っています。恋人として、君の温もりを直に感じて、約束の言葉や証だけでなくもっと深く繋がっていたい」
初めて発露される大胆な欲望に動揺する一方、胸を柔く締めつけられ、急激に高まる熱が体の芯から爪先まで巡っていく。指先が甘く痺れるくらいに。
そんなこと、言ってはいけなかったのでは。焦りに駆られて唇を動かそうと思っても、今も触れ続ける人差し指が許してくれない。
「君は、どうですか?」
向けられた問いに、一途に求めて見つめる瞳に、一瞬だけ頭が眩んだ。
指先がようやく唇を解放し、答えを促される。
どう、と問われても、優衣にはわからなかった。ただただ一緒にいられるだけで幸せだから。初めての恋心にすら戸惑っているのに、その先なんて考えたこともない。
何より彼の求める答えは罪だったはず。今日の彼はどこか違う。まるで共犯を持ちかけてくるような危うさ。彼が最も避けたかったもののはずだ。
本当ならそれを拒むべきなのに、彼の懇願に絆されて。自分には彼の夢を叶える術はないけれど、せめて彼の望みを叶えられるのなら。そして彼のものになれるのなら、たとえどうしようもなく恥ずかしくて顔から火が出そうになっても、心臓が遂に壊れそうになっても、共に罪を背負うことも厭わない。
「……トキヤさんの、好きにされたいです」
赦しを得たトキヤは、なし崩しに優衣の唇に惹き寄せられた。指先が繊細に頬を撫でながら、柔らかな温もりが優しく唇に触れて、恍惚に蕩ける瞳に囚われた。
畏れも罪の意識も全て甘い熱に溶けて思考がふわふわと浮かされ、もう何を考える余地も残されず、ただ二人の願いが一つに重なった。
やがて離れるも、互いの視線はまだ名残惜しさを残して繋がっている。先に折れたのは、二人だけの世界から覚めて恥じらいと罪悪感を取り戻した優衣の方だった。
「い……今しちゃいます……!?」
今さら慌てたところで遅いというのに、手のひらでまだキスの感触が残る唇を押さえて、非難の眼差しを送る。
「はあ、好きにしろと言ったのはそちらでしょう?」
「それはそうなんですけど! 迎えにきてくれた後の話じゃなかったんですか!?」
「今の流れで、そこまで先のことに思いを馳せる余裕があったとでも?」
「で、でもぉ……」
いつの間にか、こちらが不服を訴えられる側になっていた。
訳がわからない。彼にとってデメリットの方が大きいはずなのに、どうしてそうも平然とした態度でいられるのか。今まであれほど神経質になって、一線を越えないように気を張っていたのに。
混乱している傍ら、彼はふっと表情を少しだけ和らげた。
「見つからなければ、誰からも咎められることはありませんよ」
「えっ」
思わぬ言葉に耳を疑い、唖然とした。
「私には、音也のような馬鹿な真似をする気はありません」
「……もしかしてそれ、昨日のソングステーションのこと言ってます?」
「ああ、君も見てくれていたのですね。実のところ、奴の失態はあれだけではないのですが、さすがに乱入騒ぎだけでなく、よりにもよって全国生放送で恋人宣言までしてしまうほど馬鹿だとは思いませんでした」
「はは……確かに命知らずといいますか、なんといいますか」
容赦ない批判には苦笑うしかなかったが、彼も場を滅茶苦茶にされた憤りよりは、もはや呆れに近い様子だった。
だが、以前のような敵意や劣等感にも似た棘は感じられない。意外にも、かの青年の信念に一定の理解を示しているらしい。
「しかし、悔しながら音也の主張にも一理あります。このまま君への愛を封印したとして、本当に自分らしくありのままに愛の歌が歌えるのか。結局、HAYATOと何も変わらないのではないかと」
「トキヤさん……」
「私は君への想いを高らかに主張するつもりはありません。誰からの理解も祝福も赦しも受けなくていい。たとえ茨の道でも、私が私らしくいられるために、これからの道を君と共に歩みたいのです」
それはつまり、リスクを負ってでも周囲を欺き続けるということだ。微々たるミスすら許されない、綱渡り。
それでも彼は迷いなく告げた。今まで縛りつけていたものを振り解いて、この手を取ったのだ。繋いだ手は絶対に離さない――二人の約束をより強固に守り続けるために。
しかし、優衣には嬉しさよりも恐ろしさの方が上回ってしまい、頷くことを躊躇ってしまう。
「でも、バレたら大変なことになるんじゃ……」
「まあ、それなりに長く業界に身を置いている分、正体を隠すことには慣れていますし、私は音也と違って公私混同はしません。私なら上手くやってみせる自信があります」
「ええっと……さすが、ですね……?」
人間、吹っ切れるとこうも度胸が据わるものなのだろうか。何食わぬ顔で断言してみせるものだから、いっそ清々しく感心さえしてしまう。
「しかし、君にも多くの苦労をかけることになるでしょう。もちろん無理強いをするつもりはありません。もし、それでも私の手を取っていただけるのなら、私は……何があっても君を守り抜くと誓います」
たった二人だけの宣誓でも、優衣には何よりも価値のあるものだった。
共に歩くことを許されるのなら、どんな苦労も苦労にはならないだろう。彼の並々ならぬ覚悟を無下にはできない。こちらも、罪を背負う覚悟を決めなければ。
これからの不安も緊張も決意も全て抱きしめ、彼の肩を支えにして触れるだけの口づけを捧げた。彼は驚きに目を見開くも、されるがままに受け入れてくれた。
「優衣……」
ちっぽけな勇気はそう長く保たず、すぐに唇を離すと、呆然とするトキヤと目が合った。
ああ、恥ずかしい。やっぱり普通に頷けばよかった。我ながら突飛な行動を後悔しつつ、ばつが悪くなって目を逸らしてしまう。
「……えと、これが答え、なんですけど」
妙な沈黙が幾秒か流れた後、ぼそりと震える声で付け加えると、腕を引かれて彼の胸元に誘われた。そのまま短い悲鳴ごと腕の中に閉じ込められ、頭から背に流れる髪までをじっくりと何度も撫でると共に唇を額に埋められる。
「ありがとうございます。優衣。好き……などという言葉では到底足りません。一人の女性として、君を愛しています」
耳に吹き込まれる甘やかな言葉は擽ったくて、ぎゅっと耐えるあまり目を瞑る。清潔感のある彼の匂いと温もりに包み込まれ、安心に緩んだ理性から熱い感情が溢れだしていく。
「トキヤさん……あたしも、トキヤさんが大好きです。ひ、一人の、男の人として……いちばん、だいすきです……!」
恥ずかしさに舌が縺れそうになりながら、今まで秘めてきた想いを精いっぱい伝えた。
ずっと言葉にすることはないと思っていた。なんだか幸せな夢を見ているみたいで、だけど彼の細くも逞しい体を抱きしめ返して確かめてもこれは紛れもない現実だと思い知り、気づけば熱い涙が頬を濡らしていた。
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