いつかの未来を約束する薬指の証が、永遠の愛を約束する証に塗り替えられた。無垢だった唇に、トキヤの存在が刻み込まれた。二人が胸の奥底に秘めてきた想いが結ばれたというだけで、もうこれ以上の幸せはないというのに。
膝の上で、細い線の中にも鍛えられた逞しさを持つ男らしい腕に抱かれ、逆上せそうになるくらい全身に熱が巡る。思考が溶かされて夢見心地でありながら、激しく早鐘を打つ心臓が現実であると体感させる。
「……正直、意外です。トキヤさん、あまりべたべたするの好きじゃないイメージだったので」
絶対に離さんとする確固たる力を持った腕の中で小さくこぼすと、トキヤはきょとんと目を丸くした。自分でも、自らの意外な一面に気づいたようだ。
普段は落ち着いた物腰の彼だが、その内には人知れず燃え上がるほどの情熱を秘めていることは、これまでの言動から感じ取ってきた。にしても、親しさに関わらず、他人との触れ合いはそれほど好まない印象があったのだが。
「そう、ですね。元々過度なスキンシップは得意ではなかったのですが……君を前にすると、どうも触れたい衝動が抑えられなくなってしまうのです。これも、今まで押し殺してきた自分の中に眠っていた一面、なのかもしれませんね」
「な、なるほど……?」
こちらの頬を指先でゆるゆると愛でながら語られる想いに、理解したような受け入れきれないような複雑な心境で相槌を打った。いかんせん、彼をそこまで虜にできるものを持つ自覚がない。
「こう見えて、私は欲深いんですよ。君の視線も、温もりも、声も、吐息さえも、全て独占したくて堪らない。君が学校で人気者になったと聞いた時も、実は君に告白したという方々に嫉妬していましたからね」
「えっ、そうだったんですかっ?」
「ええ。直接想いを伝えられる同じ学校の方々が羨ましくて、いっそ私のものだという印でも付けてしまおうかと思ったくらいです」
「印……ですか……」
だから、彼の底知れぬ嫉妬深さへの驚きよりも、それだけの執心を抱かれることへの恐れ多さに慄えてしまう。
怖気づく様を察した彼はどう捉えたのか、安堵を与える慈悲深い笑みを向けると、頬から指先を離すと今度は手のひらで頭を撫でてくれた。じわじわと痺れにも似た感覚が脳髄を浸して、力が抜けていく。
「ですが、君の意思に反して一方的な想いを押し付けるようなことはしたくありません。今後も、嫌だと思った時は遠慮なく拒んでいただいて構いませんよ」
「そっ、それは……」
こちらの心を散々に翻弄しながらも、きちんと限度を見越して弁えてくれる辺り、彼の真面目さが窺える。
好きにされたいと勢いで言ってしまった手前、拒むことなどできるはずもなく。そもそも彼にされて嫌なことなど何一つない。でも、強いて挙げるなら。
「その、トキヤさんに触れてもらえるのは嫌じゃなくて、むしろそうしたいって思ってもらえるのはすごく嬉しいんですけど……あまり激しくされると心臓がもたないので、お手柔らかにお願いしたいです」
拒絶だと誤解されないよう丁寧に言葉を選んでいったつもりだが、我ながら恥ずかしいことを言っている自覚はある。拍子抜けして固まる彼の視線が痛くて、いっそ逸らしてしまいたくなった。
次第に柔らかく緩んでいく表情は、きっと願いを受け入れてくれたのだと希望を抱かせてくれたのだが。
「努力は尽くしますが……それは難しい相談かもしれませんね」
「ええっ、そんなあ〜!」
あっさり手のひらを返され、裏切りに嘆く羽目になった。それでもなお、頭を撫でられる不思議な心地良さに抗えないのが悔しい。
「少なくとも、卒業オーディションが終わるまではしばらく会えそうにありませんから、今日はたっぷり補給させていただきますよ」
「卒業……そっか、もう来月ですよね」
一般的な学校とは違い、彼に与えられた学びの期間は一年だけ。あと一ヶ月もすれば卒業オーディションというトキヤにとっても重大な局面がやってくる。
「この一年、特に君と出会ってからはあっという間でした。まさか自分がこんなふうになるとは、入学当時の私には考えられなかったと思います」
過去の自分への皮肉をこぼしながらも、その表情は柔らかく穏やかだった。まるでHAYATOに縛られ足掻いていた頃の自分を許し、慈しんでいるようにも見えた。
「君と一緒に取り戻したもの、初めて知ったもの……その全てを卒業オーディションで歌い、優勝してみせます。君には、その目で実際に見届けていただきたい」
「え……いい、んですか……?」
頭を撫でていた手が下りて、優しく手を握る。こちらを見下ろす眼差しは真剣な光を携えて、目の奥まで射抜く。
トキヤが夢を掴みとる歴史的瞬間に立ち会えるだなんて、願ってもないことだ。何より、トキヤの本気のパフォーマンスをこの目と耳、そして肌で体感してみたいとずっと願っていたから。
ほのめかされる期待に慄いて背筋を正していると、彼は不敵な眼差しを流して微笑む。
「君への愛を歌うのに、客席に君がいなくてどうします?」
「えっ……!?」
とんでもなく大胆な予告に、肝が冷えた。
*
三月に入り、卒業オーディションはもう目前に迫る。教室にもどこか今までにない緊張感が張り詰めている。
これまで学園で積み重ねてきた経験と実力を最大限に発揮するべく、皆、神経を敏感に張り巡らせて最終調整に取り掛かっている頃だ。作曲家はパートナーの魅力を余すことなく生かせるように、アイドルはこの一年の集大成ともいえるパフォーマンスをステージで披露するために。
そして、今日は早乙女学園での最後のレッスンが行われた。
「歌詞を大幅に書き直すって聞いた時はどうなるかと思ったが……短期間でよくここまで仕上げてきたな」
担任としてずっと成長を見守り続けてくれた日向龍也は、指導の後に深い感心を口にした。彼は厳しいところもあるが、高く評価すべきところはストレートに褒めてくれる。
「どうしても、この歌詞でなければならないと思ったので。音也のこともあるというのに、私の我儘に付き合って細かい修正を施してくれた七海君のおかげでもありますが」
当初に思い浮かべていた歌は、たとえ離れ離れでいても想いは通じ合っているというメッセージを込めたものだった。しかし、秘めたる想いを通じ合わせ、共に歩む道を選んだ今のトキヤが歌うべきはそんなものではない。
春歌には迷惑をかけてしまった自覚はあれど、彼女は嫌な顔一つせず応えてくれた。音也だって、自らが窮地に立たされているにも関わらず、こちらの意図を汲み取ると意外にも快く我儘を許してくれた。
「そうだな。まさか、あの一十木がそれを許すとは思わなかったが」
「音也とは、ある約束を交わしたので」
「そうか」
特に詮索はせずとも、概ねの予想は付いているのだろう。目の届く範囲でなければ深く踏み込まず、黙して見守ってくれる懐の深さが、彼には感じられる。
「しっかし、あれだけ大人の言いなりになってたお前が、随分と思い切った歌詞を書くようになったな」
「え……」
「いや……何でもねぇよ。お前の魂、卒業オーディションで思う存分ぶつけてこい。今のお前なら、アイツとも十分張り合えるだろうよ」
今もそうだ。一瞬、触れられてはいけない領域の際にまで言及されたかと思えば、心強く背中を押してくれる。それだけ、今の歌を評価してくれているということだろう。
彼の計らいと期待も糧にして、本番への士気はますます高まった。
「はい!」
――卒業オーディション、前夜。
外はすっかり宵闇が満ちているが、校内はまだところどころに深夜遅くまで足掻こうとする明かりが灯っている。
一方、頃合いを見て最後の練習を切り上げたトキヤは、体力を温存するべく夜が深まる前に校舎を後にした。どんなにがむしゃらに時間と体力を費やしたところで、本番で息切れしてしまっては意味がない。
校庭には人気がなく、ただ静寂が横たわる。ふと夜空を見上げると、小さな光が点々と佇んでいる。星を眺めていると、優衣と共に見上げた空を思い出して、彼女のことが恋しくなる。
平静を保っているようでどこか浮足立つ心は、彼女の声を欲している。今ならまだ起きている時間帯だろうか。辺りに誰もいないことを再確認してから、鞄の中から携帯を手繰り寄せて電話をかけてみることにした。
数回のコール音の後、音声が切り替わる。
『もしもし、トキヤさん?』
求めていた声が機械越しに吹き込まれ、緊張した空気に引き締められていた神経がいとも容易く緩和された。
「突然の電話、すみません。どうしても声が聞きたくなったものですから」
『えっ……も、もしかして何かありました? 明日、大丈夫ですかっ?』
やはり、別の意味で驚かせてしまったようだ。おろおろする彼女の顔が鮮やかに目に浮かび、思わず小さく吹き出す。
「そんなに心配されるようなことではありませんよ。ただ、明日に向けて英気を養いたかっただけです」
『英気って、電話で養えるものなんです……?』
「ええ、君の声は私に力を与えてくれますから。本音を言えば、実際に会って養いたかったものですが」
『……えっと〜、それはまた後日にですね、慰労という名目でお願いしたいところです』
甘やかな意図を悪戯に含ませてやると、先月の逢瀬の一時を思い出したのか、あからさまにぎこちなく恥ずかしげな返答が弱々しく絞りだされた。
「そうですか。では、その時はたっぷり甘えるとしましょう」
『へっ……!?』
さらに容赦なく重ねて追い込むと、とうとうキャパオーバーしたらしく固まってしまった。少し苛めすぎたかもしれない。さすがに可哀想に思えてきたので、軽く宥めてやることにする。
「安心しなさい、冗談です」
『トキヤさんが言うと冗談に聞こえません……』
「おや、よくわかりましたね」
『ぐうぅ、やっぱり……もういいです、覚悟しておきます』
「それは楽しみですね」
結局、宥めるどころか追い打ちをかけてしまったが。それでも本気で拒まないのであれば、恥じらいの奥に秘めたる期待を見つけだしてつけ込むだけだ。
彼女とこうして他愛ない言葉を交わしているだけで、すっかり肩の力が抜けていった。代わりに得たのは、愛おしさと前だけを見据える勇気。
「優衣」
『何ですか?』
「明日、私はステージの上から君に伝えたい想いを歌にして届けます」
『……はい。客席で、一音も逃さず受けとめてみせますよ』
先程まであれだけ萎んでいたくせに、いざという時には揺らぐことなく真摯に応えてくれる。かつて、繋いだ手は絶対に離さないと約束してくれたあの日のように。
独りではないと教えてくれるから、安心して背中を押されるがままに歩きだせる。
「ありがとう。君は一ノ瀬トキヤのファン第一号ですから、胸を張って聴いていてくださいね」
『第一号かあ……えへへ、それはとっても光栄です』
ほのかな優越感を帯びてはにかむ笑い声は愛らしく、心地良く耳に馴染んだ。
一夜明けると清々しく目覚め、日課のジョギングをいつもどおりに熟して身支度を済ませた。優衣の声を聴いて安らぎを得たおかげでよく眠れたらしく、体の調子がすこぶる良い。
音也も本番を前にして奮い立っているのか、彼にしては珍しく早い時間から起きていた。無理もない、この男はこれまでの数々の失態によって己の首を絞め、卒業オーディションで優勝する以外のアイドルになる術を断たれてしまっている。だからといって、勝ちを譲ってやる気は毛頭ない。
こうして同じ部屋で過ごすのも、これで最後だ。ようやく生活スタイルも好みも何もかも違うこの男から解放されるのだと思うと、清々する。
本番前のウォーミングアップのために、朝からレコーディングルームを予約している。そろそろ向かわなければならないのだが、煩わしくも今から制服に袖を通そうとしている音也に呼び止められる。
「あ。ねえ、トキヤ」
「何です? 私はそろそろ出なければならないのですが。話があるのなら、できるだけ簡潔に願います」
最後まで人の行動を妨害してくるつもりか。あからさまに迷惑であると顔に出して厳しく訴えるも、音也は悪びれる様子もなく頷いた。
「うん。あのさ、約束、ちゃんと覚えてる?」
「……言っておきますが、あなたがどんな窮地に立たされていようとも、手加減する気はさらさらありませんので」
「もちろん。俺、トキヤの本気の『愛』の歌、楽しみにしてるから」
てっきり情に訴えて絆そうとしてきたのかと思って冷淡にあしらってやったのだが、それすらもあっけらかんと躱されてしまう。
「今日、俺は『恋』を貫くことは間違いなんかじゃないって、俺たちの音楽でみんなに証明してみせる。絶対に優勝して、『恋愛禁止令』なんてくだらない校則はなくしてやるんだ」
「はあ。その話はもう散々聞き飽きましたよ」
「そしたらさ、トキヤも好きな子のこと諦めずに済むだろ? 春歌が言ってた。トキヤの歌は、大切な人への『永遠の愛』を約束する歌だって。『恋愛禁止令』さえなくなれば、歌の中だけじゃなくて、本当の永遠を誓えるんだ」
いよいよ聞く価値のない話だと判断し、遠慮なく部屋を出ようとドアノブにかけた手が、背後から投げかけられる言葉に掴み取られ、思わず振り返った。
この期に及んでこの男は、他人の心配までしていたのか。あまりにも愚かで馬鹿馬鹿しくて、それでも周囲を照らす太陽さながらの眩しさに、まともに反論する気力すら奪われてしまった。
「何を言いだすかと思えば……余計なお世話です。そんなことより、あなたは自分のことを第一に考えておいた方がいいのでは? 生半可な覚悟では、私には勝てませんよ」
「望むところだ。絶対に、トキヤにも認めさせてやるから」
恐れなど一切見せず、音也は自信に満ち溢れた笑顔で宣戦布告を掲げた。
そうでなければ面白くない。正々堂々と実力をぶつけ合い、勝たなければ。それが過去の自分への弔いになるだろう。トキヤはほんの少しだけ口元を緩ませ、今度こそ前だけを見据えて部屋を出た。
*
早乙女学園を訪れるのは、これで二度目だ。以前の学園祭の時は秋だったけれど、あれから冬を越えて季節はもう春へと移り変わろうとしている。
相変わらず、外部の学校の敷地に足を踏み入れるのは緊張する。今、優衣が抱えている緊張の原因は、それだけではないのだが。
「あたし、お客さんなはずなのに、なんでこんなに緊張してるんだろ……」
ざわざわと落ち着かない胸の辺りでぎゅっと手を握りしめ、深呼吸を何度か繰り返す。
きっと他の誰よりも場数は踏んでいるだろうし、完璧を徹底して求めるトキヤのことだから、心配するまでもないのだろうが。どこか張り詰めた場の空気に触発されて、素人の感覚ではどうしても気にかけてしまう。彼がHAYATOではなく一ノ瀬トキヤとしてステージに立ちたいと願い、努力してきたことを知っているからこそ、夢を手にしてほしくて。
講堂は既に多くの関係者と観客でいっぱいだ。満場にひしめく話し声が、よく響いている。
以前はこの場所で、トキヤのライバルである音也のライブを目の当たりにした。彼もまた同じ場所で輝かしく歌うのかと思うと楽しみだし、かつて親切にもこの学園を案内してくれたレンの歌も気になる。艷やかな色気と赤い薔薇のような華やかさを持つ彼は、その胸にどんな魂を秘めて歌うのだろう。
『明日、私はステージの上から君に伝えたい想いを歌にして届けます』
だけど、何よりも期待してしまうのは、他でもない一ノ瀬トキヤとしてのありのままの歌で。彼自身が紡ぐ言葉を、彼が生み出したという旋律に乗せて、その魂の奏でる歌声で届けてくれると約束してくれたから。
緊張感のあるざわめきに包まれる客席で、ただ静かに祈りを組んだ手の中に込めながらオーディションが始まるのを待ち続けた。
*
目を閉じ、深呼吸を一つ。呼吸を整え、様々な想いを一つの意識に束ね、ただ独り舞台袖に立つ。
何もこういった場面を迎えるのは初めてではないが、今までとは違った感覚だ。一ノ瀬トキヤとしての、初めての大舞台だからなのかもしれない。
体に余分な力が入りそうになると、ステージ衣装の袖の下にひっそりと提げたお守りに触れ、ふっと気を和らげて微笑む。独りだが、孤独ではない。たとえ傍にはいなくとも、優衣の願いは共に在るのだから。
『客席で、一音も逃さず受けとめてみせますよ』
昨夜の優しくも楽しい言葉を思い出す。思えば、彼女はずっと夢を叶える瞬間を見届けたいと言ってくれていた。そして、一ノ瀬トキヤとしての本気のステージを観てみたいとも。今日という日に、ようやくそれが実現する。
この胸に彼女への深い愛を滾らせ、熱く巡る激情を全身に行き渡らせて――本物の『愛』を証明するべく、スポットライトに照らされるステージへ向かった。
*
『オーディションが終わったら、屋上に来ていただけますか?』
メールが届いていたことに気がついたのは、講堂を出てすぐのことだった。オーディションが始まる前に送られていたらしい。
優衣は頬を伝う熱い雫を拭うことも忘れ、張り裂けそうなほどに主張する衝動に突き動かされて、早乙女学園の校舎を駆け抜けた。伝えたいことがありすぎて、早く会いたくて。
学園祭の時にレンが案内してくれたから、朧げに廊下の景色は記憶に残っている。屋上へ続く階段を探して駆け上がり、ようやく見えた非常用扉を力のままに開けた。
薄い水色の空の下、爽やかな風が濡れた頬を冷たく撫でた。
そよぐ風を受けながら空を眺めていたトキヤは、扉の開く音を聞きつけ、穏やかな微笑を湛えて振り返る。
「どうしたんですか、その顔」
至極優しい声色で指摘されて初めて、自分の有様をようやく自覚した。
『本年度卒業オーディションの優勝者は、一十木音也っ!!』
結末に不満があったわけではない。彼だって、優しくも眩しいひたむきな『愛』を堂々と歌い、人々の心を明るく照らしつけた。会場全体が、彼の輝ける魂に共鳴したのだ。
結果、彼の貫いた『愛』は皆に認められた。それを眺めるトキヤの表情は悔しがるどころかとても清々しく見えたから、きっと気に病むのは失礼なのだと感じた。
それに、トキヤの歌だって何一つ劣っていなかった。何せ、優勝者に僅か一点の差を残して迫るほどの成績を叩き出したというのだから。それだけ、彼の歌が評価されたということだ。
絶対的な存在感を放つ歌唱力と、壮麗な歌声は彼の降り立つ世界にぐっと強く惹き込み、切なさと深い優しさと、溢れんばかりの熱情の海が観客を呑み込んだ。偽りなどない、本能のままに『愛』を叫ぶ魂は、固く結ばれた未来への展望と永遠の誓いを真摯に捧げてくれた。
強烈に揺さぶられる心臓はずっと苦しくて、熱くて、だけど嬉しくて感極まって、その歌に触れた瞬間から、ずっと涙が溢れて止まらなかった。
様々な感情がぐちゃぐちゃに入り交じり、あれだけ言いたいことがあったのに何から伝えたらいいのかもわからず、言葉に詰まってしまう。何も言えないのがもどかしくて、だけどせめて何かを伝えたくて、勢いに任せて彼の胸に飛び込んだ。
「優衣……?」
戸惑いながらも、彼は厭わずに受け入れてくれた。心地好い匂いと温もりに包まれて、安堵すればまた涙がこぼれる。ぎゅっと細くて逞しい体に腕を回してしがみつくと、手のひらが優しく包み込むように頭を撫でてくれる。
ふっ、と微かな風が柔らかく頭上を掠めた。
「やれやれ、君には笑っていてほしかったのですが。まさか、泣かれてしまうとは思いませんでしたね」
「だって、あんな……あんなの、ずるいですっ……!」
「私の渾身の愛、余すことなく感じていただけたようで何よりです。なら、返事を聞かせていただきましょうか」
「へ、返事……ですかっ?」
びくりと肩を震わせ、彼の胸に埋めていた顔を上げる。彼の真っ直ぐに求める視線に射抜かれ、息を呑む。
「ええ。私の想いに対する返事です」
深められる笑みには、有無を言わさんとする自信が満ち溢れていた。そして彼の言葉の意図に気づく。
今さら拒むはずがない。たとえ何があろうと、繋いだ手は絶対に離さないと約束したのだから。
「あたしは……一生、トキヤさんについていきます!」
これは彼だけに向ける宣誓だ。確固たる決意をその瞳に注ぐと、トキヤは満足げに目を細め、優衣の肩に顔を埋めた。
「不思議ですね。入学した当初は、優勝しか見えていなかったというのに。君がいるなら、たとえ少しくらい遠回りになろうと必ず夢を叶えられる気がしているんです。私はもう、自分の歌を見つけられましたから」
「そう、ですね。トキヤさんなら絶対大丈夫です」
無責任な気休めなどではない。今日の歌をこの耳で聴いたからこそ、彼の強さを知っているからこそ、胸を張って言えた。だからこそ、信じてついていこうと思った。
「はっはっハ〜、素晴らしい愛ですネー」
晴れやかな空気に突如割って入ると手を叩く音と男の声に、心臓がぐっと縮み上がった。慌てて二人は距離を取るも、白縁のサングラスは確実にこちらを捉えている。
ちら、と隣を盗み見ると、トキヤの横顔は深刻な焦りに顰められていた。
「早乙女さん……」
「Mr.イチノセ。今日のYOUの歌はあのMr.イットキの歌にも負けず劣らず、モーレツに痺れる『愛』の歌デーシタ〜」
「あ……ありがとう、ございます」
咎める様子もなければむしろ上機嫌に称賛を贈られ、意表を突かれたトキヤは取り繕うことも忘れて呆然と立ち尽くした。
あれがこの学園の長、シャイニング早乙女。小さい頃にテレビで見た記憶がある。どこか風変わりで、その体格の大きさ以上に感じさせる貫禄は、さすがこの業界の重鎮というだけある。口元は愉快に笑っている風ではあるが、サングラスの奥に潜む真の表情は読み取れない。
優衣はすっかり畏縮してしまい、トキヤの袖を控えめに掴んでいた。このまま、トキヤが退学に追い込まれてしまうのではないか。底知れぬ不安に駆られ、何か上手い言い訳を考えなければと必死に停止した思考を働かせる。
しかしそうしている間に、気ままな陽気さを持つ空気は不意に一変して、厳格な一面が窺えるようになった。それでも彼の口元はまだ微笑を浮かべている。
「入学当初のお前は『愛』の欠片もないつまらん男だったが、まさかここまでの成長を遂げるとはな」
感慨深く語るその姿には、どこか父なる優しさにも似た温かさが垣間見えた気がした。校則を破った者には容赦なく厳しい処分を下すというを聞いてきたから、もっと慈悲など持たない人物なのかと思っていたのだが、どうやら思い違いだったらしい。
トキヤもそれを感じ取ったのか、それまで抱いていた警戒心を解いた様子で、堂々と大きく一歩前へ踏み出す。
「私だけの力では、決してこうはなりませんでした。彼女がいたから、私の中に眠る様々な感情を見つけることができたのです」
こちらを一瞥する眼差しは柔く細められ、再び前へ向けられた。
「彼女を失えば耐え難い喪失感に見舞われ、二度と今日のようには歌えなくなるかもしれません」
「それは脅し文句か?」
「とんでもありません。事実を言ったまでです。一ノ瀬トキヤというアイドルが煌めき続けるには、彼女が必要なのだと」
決然とした態度で、トキヤは言ってのけた。
あれほど自分には学園長に楯突く度胸はないと言っていたのに、二人の関係を誤魔化すことも一切せず、彼の背中は怯むことなく真っ直ぐに正されていた。
しばし重々しい沈黙が流れた後、やがてシャイニング早乙女は機嫌良く喉を鳴らす。
「いいだろう。今日のお前の歌がそれを証明した。まあ、奴と違って、私の目を見事に掻い潜って付き合っていたくらいだ。お前たちなら、己の立場を弁えた節度のある交際ができるだろうな」
「えっ……?」
優衣は耳を疑った。絶対に叶うことのない、茨の道を自分たちは突き進むのだと思っていたのに、まさかこの学園ないし事務所のトップに交際を認めてもらえるだなんて。
「当然です。今回はどうにか乗り切れたかもしれませんが、音也のやり方は無謀にも程があります」
「そうだな。その無謀な男のおかげで、『恋愛禁止令』は本当に撤廃されることになるかもしれんが」
トキヤの口から吐き捨てられる厳しい批判に対し、シャイニング早乙女はその『無謀な男』の可能性に期待を寄せ、おおらかに笑い飛ばした。
トキヤも、音也も、そしてあの作曲家の女の子も、こんな大御所を認めさせるだけの力を発揮したのかと思うと、とても偉大なる出来事に思えて、心から尊敬の念を抱く。だからこそ何もしていない自分がその恩恵を授かるのはおこがましく感じて、堪らずにおずおずと声をあげた。
「あ、あの……」
「んん〜? 何デスカー?」
気まぐれを装うサングラス越しの視線がこちらを捉え、どきりとした。さすがに素人相手とあってか、元の陽気な口調を取り戻したようだ。
「私は、あの作曲家の子のように音楽なんて作れないし、専門的なことなんて何もわからないド素人です。事務所には、何も貢献できないと思います。それでもあたし、トキヤさんの傍にいることを許されていいんでしょうか」
「優衣……」
せっかく許しを得たところで、これは愚問だったのかもしれない。トキヤの勇気を無駄にする行為なのかもしれない。だけど、このまま有耶無耶に流され、与えられる環境に甘んじてはいけない気がして、改めて問うたのだった。
しかし、そんなものは杞憂だと言わんばかりに、シャイニング早乙女は実にあっさりと優衣の心配を切り捨ててくれた。
「ノープロブレーム。貢献なら、とっくにしてくれちゃってマスヨー」
「えっ?」
「YOUは、Mr.イチノセを使い物になるアイドルに成長させてくれましたカラネ〜。これからもYOUの愛の力で、どんどんMr.イチノセを魅力溢れるアイドルにしてあげてチョーダーイ」
力強い激励の言葉に、もう何も後ろめたいことはないのだと安堵して、怯んでいた身も心も柔らかく解き放たれる。こちらを振り返るトキヤも、優しく頷いて後押ししてくれて。
「は……はい……!」
緩みきった表情はそのままに、心置きなく返事をした。
迷いはもうない。これからはずっと、何があっても繋いだ手の温もりを信じて共に歩き続けられるのだから。
*
その日の夜、特別に遅くまでの外出許可を得て、二人はかつて共に流星群を見上げたあの場所へ向かった。あの時のように鮮やかで自然が描く芸術のような景色はないが、夜空に浮かぶ小さな灯たちは静かに地上を見守ってくれている。
草むらの上に腰を下ろし、二人で肩を並べる。春が訪つつあるとはいえ、時折木々を揺らめかせる風はまだ冷たく、肌寒さを感じさせる。しかし、二人が寄り添い合い、互いの温もりを分け合ってしまえば平気だ。
「あれからもう半年ほどですか。あっという間でしたね」
「ほんとですね。なんだか色々ありすぎたような気がします」
「ええ。私たちの関係も、あれから随分と変わってしまいましたからね」
「あたしたちの、関係かあ……」
星空の下、ぽつり、ぽつりとこぼされる穏やかな会話は、二人が出逢ってから今まで積み重ねてきた僅かな時間をしみじみと振り返る。
あの頃は、芽生えて間もない初めての恋に戸惑いを覚えていた。決して叶うことのない想いを胸に秘め、それでも純粋に信頼の置ける友として隣にいた。
しかし、今は違う。肩を寄せ合い、愛情を込めて手を重ね合って、それぞれの想いを一つに結び付けて共にいる。
「あの時は、ただトキヤさんの夢が叶えばいいやって願ってたんですけど……ひょっとしたら、バレてたのかも。トキヤさんと少しでも長く一緒にいたいって、こっそり願っちゃったの」
あはは、と明るく笑う声に視線を向ける。健気に浮かべられる笑顔には、ほのかな切なさが滲んでいる気がした。当時は少しもそんなことを口に出さなかったが、知らないところで彼女も葛藤していたのかもしれない。好きになるなという忠告と、生まれてしまった恋の狭間で。
HAYATOから脱することに囚われ、孤独の中を足掻くのに必死で見えていなかったものが、今になって鮮明に輪郭を現した。もっと早くに気づいていれば、彼女を傷つけずに済んだのかもしれない。もどかしくももう戻れない後悔に、胸が締めつけられる。
だから、今こそは彼女の心を隙間なく満たしたいと願う。
「……私の願いも、無事に叶いそうです」
「トキヤさんの願い、ですか? 確か、そういうのは信じてないんじゃなかったですっけ?」
「もちろん、自分の夢は自分の手で叶えるつもりです。でも、君のことに関しては、自分の力だけでは叶えられないと思っていましたから」
「え、あたし……?」
「ええ。君には私の傍で、夢を叶える瞬間を見守っていてほしい。そして、君にとっての一番星でありたい、とね」
見開かれる黒の瞳は、煌めく星空のように美しく惹きつける。
慈愛に満たされるがままに緩む微笑を向けると、彼女の表情も次第に幸せに溶けていった。
「それだって、トキヤさん自身が叶えてくれたんじゃないですか」
「いいえ。そもそも君が私についてきてくれなければ、叶えられない願いでしたから。君が叶えたも同然です」
「ええっ? うーん……じゃあ、二人で一緒に叶えたってことにしておきましょうか」
「そうですね」
ふふふ、と二人の笑い声が綺麗に重なり合う。その瞬間が何よりも心地良くて、自分の心を素直に曝け出してしまえる。
「それじゃあ、次の願い事でも決めましょうか」
「次、ですか?」
「はい。あたしは、トキヤさんとこれからもいろんな思い出を作っていけますように、かなあ」
無垢な願いが夜空に向けて紡がれる。
流れ星になど願わなくとも、二人でなら叶えていけると信じているから。その無邪気な輝きを、この瞳に向けてほしいと願ってしまった。
「それはいいですね。では、私は」
途切れた声に、彼女が振り向く、その瞬間――唇を優しく触れ合わせた。
驚きに染まる瞳に熱情を注ぎ込んで、自らの存在を彼女に刻み込む。同時に、ふわふわと微睡むように蕩けていく思考は、彼女への魅惑的な欲望に浸されて。戻れなくなると感じた瞬間に、唇を離した。
呆けた彼女の顔が、みるみるうちに瑞々しく熟れていく。嗚呼、美味しそうだとそそられながら、慄き固まる彼女の艷やかに流れる黒髪の隙間から、真っ赤な耳に甘やかな囁きを吹き込む。
「君の視線も、愛らしい声も、柔らかな温もりも……君の輝ける将来すらも、全て私だけのものにしたいですね」
恥じらいが極地に達したのか、或いは感動が極限にまで高ぶったが故なのか、次第に夜色の瞳が潤んでいく。
「そ、そんなの、プロポーズと一緒じゃないですか!!」
情けなくも盛大にひっくり返る声はあまりにも滑稽で、トキヤは年相応の青年らしく、声を響かせて笑った。重ねた指先はなお、小さな薬指に嵌められた愛の証を愛おしく撫で続けていた。
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