「それじゃあ、優衣の初恋が実ったことを祝して、カンパーイ!」
「カンパーイ!」
大袈裟な音頭の後、共に狭いテーブルを囲む友人たちは意気揚々と、ファストフード店のロゴが入った白い紙コップを突きつけあった。中で大きく揺らいで流れる氷水が、くぐもった音を立てる。
「ちょっ、そんな大声で言わなくていいよ……」
自分たちの話に夢中になっている若い喧騒が周囲でかき消してくれているとはいえ、こうもプライベートを赤裸々に晒されるとさすがにいたたまれず、大はしゃぎする友人たちを制す声もついついか細くなる。そうでなくても、もはや彼女たちの勢いは止められたものではないけれど。
こうなることは元より予測できていたし、正直なところ周りに交際を報告するか悩みはしたのだが、どのみちいずれボロを出しかねないと踏んで、トキヤに承諾を得た上で「付き合うことになった」という事実だけをやんわり告げることにしたのだった。
「だって、あんなに望み薄いとか、一緒にいられるならもうずっと友達でいいとか言って諦めてたじゃん!」
「優衣から告るとは思えないし、やっぱ相手から告ってきたわけでしょっ?」
「それは……まあ……」
「はあぁ〜、いいなあ! 一途に想い続けた相手から告白されるなんて、憧れる〜! なんて言われたのっ? やっぱストレートに付き合ってほしいとか?」
「ねえねえ、初デートはっ? もう手とか繋いだりした?」
「ええっと……」
色めき立つ質問攻めは根掘り葉掘り、想像以上に圧倒する勢いで羞恥心をむず痒く突いてくる。心地の悪さに思わず顔が引き攣るくらい。
二人で過ごしてきた時間はまだ短いけれど、誰にも知られてはいけない禁断の世界で、二人だけが知る甘い安らぎを大切に育んできた。それを他言するのに単なる恥ずかしさもあるけれど、自分はともかくトキヤのプライベートを勝手に晒してしまうのはどうにも憚られた。二人で築き上げてきた関係を、世間一般的な物差しで測られるのを何となく恐れていたともいう。
「優衣のことだし、さすがにちゅーはまだ早すぎるよねえ」
「ちゅ、う……?」
だから、自分たちの関係の深まり方が彼女たちにどう映るのかも考えたことがなかったし、ファーストキスだなんていう人生でそれなりに重大なイベントが気がつけば済んでいたことに今さら気づく羽目になった。
思えばあの時はまだ付き合うだとかそんな話どころか、想いを明瞭な言葉に表すことすらできなくて。ただ曖昧に、手探りで、少しずつ心を触れ合わせることしかできなかったから。
トキヤのための最善を何よりも優先して、それでも交わることを許してくれた彼に応えるのに精いっぱいだったが、改めて冷静になって思い返すと、あれは初心な自分にはあまりにも大胆で激震が走るほどの出来事だったと思う。
鮮明に脳内に映し出される記憶が、唇に触れた温もりや柔らかさまで生々しく呼び起こす。しかも、自分からもしてしまったのだから、尚更。
「あ……あああっ……」
荒ぶる心臓の鼓動が、体全体に激しく響き渡る。急激に逆上せていく顔を隠すように両手で覆って、堪らずそのままテーブルに沈んだ。
皮肉にもあからさまな動揺はどう足掻いても肯定を示していて、友人たちが一際騒ぎ立てる。
「え、うそ、もう済んじゃった?」
「えええっ、いつの間に!? わたしだってまだなのに! 優衣に先越されたー!」
「てか、ちょっと待ってよ、むしろどこまで進んだの!? まさかいきなりその先までいったってことないよね!?」
「えっ……もう大人の階段のぼっちゃった!?」
「ち……違っ……」
あまりにも好き勝手言われてしまっているが、今は弱々しく首を横に振ることしかできない。そんなところにまで至っていたなら、今頃こんなふうに話すことだって適わなかっただろうに。
「まあでも、そうなるのも時間の問題かもよ〜?」
「なっ、なんてこと言うの……?」
「だって、相手は年上なんでしょ? 優衣って超お人好しだし、絶対相手のペースに流されちゃうじゃん」
「確かに! 話聞く限りは真面目そうな人だけど、意外とそういうの狙ってたりするかもしれないし、気をつけなよ?」
「そんな、こと……」
やたらと脅かしてくる彼女たちは、至って真剣だ。だからこそ、ない、と断言してやりたかったのに、突っ伏したまま絞り出した声は力なく途絶えてしまった。
トキヤがとても大切に想ってくれていることは、自惚れではなくその振る舞いからひしひしと伝わってくるし、彼のことは心から信頼している。ただ時に、彼の愛情表現が優衣の許容範囲を優に超えてしまうのも確かだった。
もうこの話題は限界だ。どうにか話を転換してしまわなければ。熱に浮かされて鈍った思考を巡らせていると、テーブルに放置していた携帯が震えた。
「んん……?」
そっと手を伸ばし、二つ折りのそれを控えめに開いて画面を覗き込むと、噂をすれば何とやら。トキヤからのメールに特別な意識を寄せ、心にささやかな明かりが灯った。
「あ、もしかして、彼から?」
「えっ。いや、その」
好奇心に満ちた目にしっかりと捉えられ、思わず狼狽えてしまった。
これ以上、詮索されてはいけない。とっさの判断で、慌てて携帯をぴしゃりと閉じた。
「た、ただのメルマガだった!」
声は情けなくひっくり返るし、顔の熱は全く引かないし、我ながら苦しいはぐらかし方だと反省する羽目になったけれど。
「あっはは! 優衣ってほんっと嘘吐くの下手くそすぎ! ウケる〜!」
「そういうとこ優衣らしいよねえ、ふふっ」
「う、うるさいな……」
「いやだって、この前隣のクラスの男子に告られてた時なんかさあ〜」
でも、友人たちはその滑稽さをひとしきり笑いはしても、それ以上聞いてくる様子はなかった。
詮索は少々激しいけれど、叶わないと信じていた恋が実ったと知れば自分のことのように喜んでくれるし、心から応援して心配してくれて、本当に踏み込んでほしくない一線はちゃんと見極めて引いてくれる。
良いに友達に巡り会えたなあと、しみじみ嬉しさを噛み締めた。
数日後。
「せっかく新しい部屋に移るわけですし、心機一転も兼ねて日用品等も一新してしまおうかと思いまして」
「なるほど」
「私用に付き合わせてしまうのは申し訳ないと思ったのですが、こうでもしなければなかなか纏まった時間が取れないと踏んだものですから……」
「全然! トキヤさんに会えるならなんだって嬉しいですし、良い気分転換にでもなれたらいいなあって」
「優衣……ありがとう」
ほっと安らぎに表情を緩めるトキヤを見上げ、隣を歩く優衣は上機嫌に笑った。こうして顔を合わせるのは約一週間ぶり、卒業オーディションの日以来。正式に交際することになったからといって、特に今までの関係に変化があるわけでもないのだと感じて少し安堵したのは内緒だ。
買い出しに付き合ってほしいと誘いを受けたのは、先日のメールでのことだった。
卒業に伴い早乙女学園の寮を出、事務所の寮として使われているアパートの一室に移り住むことになったという彼は、あれからまだ続くHAYATOとしての活動の合間に引っ越しの作業にも追われ、それは多忙な日々を過ごしていたらしい。
そんな中、貴重な休日を一緒に過ごそうと言ってもらえるのは至極幸せなことだ。だからこそ、少しでも彼の気分が楽になればと願っている。
平日とはいえ、世間は春休み真っ只中。ショッピングモールには老若男女問わず多くの人々で混み合っていて、少し騒がしいくらい。雑貨屋や服屋の前を通る度に色々と目移りしてしまいそうになるが、今日はトキヤの付き添いなのだからと背筋を正した。
そう、自分はあくまでも付き添いだったはずなのだけれど。
「この中なら、君はどれを選びますか?」
「んん? えっと、そうですね……この、猫ちゃんのやつが可愛いかな、と」
「ああ。そういえば、君は猫好きでしたね。では、これにしましょう」
「えっ」
数ある様々な形の小さな陶器が並ぶ中、優衣が指差す黒猫を模した箸置きが迷わず買い物かごに入れられ、思わずぎょっとした。
トキヤには可愛すぎるデザインのような気もするし、そもそも彼が使うものなのに自分の好みだけで選ばれてしまっていいのだろうかと後ろめたく感じてしまう。
実のところ、こういった光景は今のこの瞬間が初めてではなかった。たとえば、彼の買い物かごの中身が既にそれを物語っているのだが。
「あの、トキヤさん……?」
「何です?」
「今日のお買い物って、トキヤさんの、なんですよね?」
「ええ、そうですよ。それが何か……もしかして、やはり退屈でしたか?」
「いえっ、それだけは絶対にないです! ない、んですけど……」
危うく妙な誤解を生みそうだったので、それだけは即座にきっぱりと否定しておいたものの、怪訝な視線がやはり買い物かごに落ちてしまう。
今の箸置きも、箸そのものも、茶碗も、マグカップも、その他の食器も。それだけではない、既に彼の手に提げられている紙袋には女性用のサイズのバスタオルやバスローブなんかも入っていて──全部、優衣が自分の好みに則って選んだものなのだから。
心機一転だなんて、そんな言い訳はもはや通用しない。
「やれやれ、さすがに誤魔化し通すのは厳しいようですね」
ふっ、と観念したと言わんばかりに、眉を下げたトキヤは苦々しく笑う。
「ただもう少しだけ、何も言わずにこのまま付き合っていただけませんか? 悪いようにはしませんから」
「う……わ、わかりました」
さすがにこの場で問いつめるにも、周りの視線が気になる。
それに、首を少し傾けてこちらの目を覗き込む、切実な願いを乗せた視線にすっかり絆されてしまっては、もう大人しく頷くことしかできなかった。
「ありがとうございます。おかげで大方、必要なものは手に入ったかと」
「そ、それはよかった……ですけど……」
それから望まれる通りに買い物を済ませた二人の手は、すっかり荷物でいっぱいになっていた。全て彼の私物と見せかけて、優衣のために買ったようなものばかりだ。さすがにルームウェアまで選ばされた時は断ろうとしたものの、彼は断固として受け入れてくれなかった。
『優衣って超お人好しだし、絶対相手のペースに流されちゃうじゃん』
思わず友の言葉が過ぎったが、まさにその通りなのかもしれないと思い知った。彼女たちの懸念する状況とはまるで違うけれど。
ショッピングモールを後にした今、荷物を届けるべく彼の暮らすアパートに向かっている。
事務所の敷地も同然であるそんな場所に、無関係である自分が立ち入っていいものなのだろうかと躊躇いはしたものの、シャイニング早乙女から「節度さえ守れば自由に出入りしても良い」と許可は貰っていると聞いたので、その点では安心だ。
一方で未だある事への不信感を募らせつつ、電車に乗っている間は他愛ない会話を楽しみ、アパートの最寄りの駅からの帰路も何事もなかったかのように並んで歩いた。今日は彼の貴重な休日なのだから、無闇に空気を悪くしてはいけないと思って。
「お邪魔します……」
恐る恐る声を震わせて、中へと足を踏み入れる。アパートの一室に構えられた玄関は、まさに彼の性格さながら綺麗に整頓されていた。
その隅に、脱いだ靴を揃えて置く。隣に揃えられた彼の靴を目にして、自分のものと比べてはっきりとわかるサイズの違いに男女の差を感じる。
今になって、一人暮らしの男の家に上がり込んでいるのだという自覚が実感を持って生まれた。
「どうかしましたか?」
「い、いえっ、何でもないです!」
頭上に降る部屋の主の声にぎごちなく返すと、ふふっと傍で可笑しそうに笑う声が落ちた。度を越した緊張を露呈した恥ずかしさに、頬が少しだけ茹だったような気がした。
さらにリビングへ通され、身を竦めながら奥へ進む。一人暮らしをするには十分な部屋の広さと充実した家具は、さすがはあのシャイニング事務所が提供するだけある。何せ、早乙女学園の敷地の広大さにも驚かされたくらいだ。
そんな中でも私物があまり置かれていないこの部屋はやはりよく整頓されていて、彼の几帳面で無駄を好まない性格を表しているようだった。
ここで、トキヤは生活している。彼の最もプライベートな領域にこうして足を踏み入れていることが不思議で、なんだか特別な背徳じみたものを感じて、過剰に意識してしまう。
「手洗い場はこちらですよ」
「あっ、はい!」
ひとまず荷物を置いて茫然としていると、洗面所から顔を覗かせるトキヤに呼ばれて我に返った。優衣が立ち呆けている間に、先に手洗いうがいを済ませてしまったようだ。職業柄、普段から徹底して習慣付けているのだろう。確か、彼を自らの家に上げた時もまず手洗い場を貸した記憶がある。その意識の高さに感心しながら洗面所へ向かうと、彼は入れ替わるようにキッチンへと赴いた。
緊張によってほのかに手のひらをしっとり湿らせる汗を、外の雑菌と共に冷たい水と肌触りの良いハンドソープで洗い流す。
自分はさっき、何を考えただろうか。誰の目にも耳にも触れることのない本当の二人きりで、ましてやここでは彼に支配権のようなものがあって。トキヤのことは紳士として信用しているけれど、彼が注いでくれる愛の深さと熱量だって十分に思い知っている。絶対に何もないとも限らないわけで──
思考を巡り巡らせている間に我を忘れて手を擦り合わせていると、ふっと緩やかな吐息が耳を掠め、ぞわりと肌の下を走る感覚に肩が震えた。
「そんなに強く擦ると手が荒れてしまいますよ」
「ひっ! あ、あのっ──!?」
背後から伸びる手に優しく絡めとられ、冷水に流されることのない温もりが優衣の手を包んだ。戸惑いに顔を上げると、鏡に映る姿を見てぎょっとした。
背後から抱き込むような姿勢で手を絡めてくる彼は、愉しそうに笑っている。全て見越した上で、こうして優衣の純情を弄ぼうとしているのだ。
背中に彼の温もりが伝わり、ますます熱が上がっていく。
「さて、もう十分でしょう」
硬直している間に蛇口が固く締められ、最後に零れる一滴がぽとりと親指に落ちて間もなく、今度は柔らかいタオルに手を包まれる。優しく丁寧に拭われ、なんだか背筋までこそばゆくなって困惑気味に身を捩る。
「あのっ、じ、自分でやります」
「だめですよ。こういう時は彼氏に甘えなさい」
「彼氏っ!?」
耳に吹き込まれる囁きは想像以上に甘ったるく、羞恥も最高潮に達して声がひっくり返ってしまった。
一方、トキヤは至極当然と言わんばかりに首を傾ける。
「私たちは晴れて恋人同士になったのですから、そう呼んで当然でしょう?」
「恋人……同士……」
改めて彼の口から言葉にされて、まじまじと鏡に映る自分たちの姿を見つめて。確かに自分たちは紛れもなく恋人同士なのだと、改めて実感を持った。
途端に胸の鼓動が慄え、顔には熱い火が灯る。鏡には、もうすっかり真っ赤に茹で上がった様が映っていた。ああ、なんて情けない顔をしているのだろうか。
ふ、とまた彼の吐息が肌の上を躍り、きゅっと身に力が入る。
「本当に、君は可愛いですね」
恍惚とした甘さを孕んだ囁きが優衣の胸の奥をぎゅっと掴んだかと思えば、ほの温かい柔らかさが頬に吸いつくように、軽やかな音を立てて触れた。
「ひゃっ……!?」
思わず強く目を瞑り、肩を竦めたまま固まる。
ああ、もうだめかもしれない。このまま散々に弄ばれて、滅茶苦茶に心を乱されてしまうんだ。幸せどころか悲観すら覚えて震えていると、また笑われてしまった。
「まったく、まだ何もしていないというのに。これでは、先が思いやられますね」
「さっ……先って……!?」
「それは、その時までのお楽しみですよ」
ほのめかされる近い将来につられて目を開けると、至極愉悦に浸る彼の視線に鏡を通して絡められる。
もう逃げられる気がしない。別に彼から逃げたいわけではないけれど、与えてくれる愛があまりにも刺激が強すぎて、その全てを余すことなく受けとめた末に自分はおかしくなってしまうのではないかと思うと、少し怖くなってきた。
「さて、いつまでもこうして君を味わっていたいところですが、せっかく淹れた紅茶が冷めてしまいます」
手を柔らかく包み込んでいたタオルが取り上げられると同時に、背中に感じていた体温から解放された。ほっと息を吐きながらも、何故だかほんのり名残惜しさを感じてしまう。
心を掻き乱されるのが怖いと思っていたはずなのに、彼の温もりが離れるのが寂しいだなんて、矛盾している。今までに抱いたことのない感情に戸惑っていると、そっと肩に腕を回される。
「ほら。いつまでもそんなところで立っていないで、あちらでゆっくり過ごしましょう」
あれだけ純情を弄んでおきながら、こちらが惑えばきちんと優しく導いてくれる。彼の狡くて、大好きなところだ。
「……はい」
だから、つい身を委ねてしまう。これが世間の謂う、惚れた弱みというものなのかもしれない。
リビングにあるゆったりとした白いソファーに招かれると、その前のテーブルにトキヤが淹れてくれたらしい紅茶がティーカップ二つ分、置かれているのに気づいた。
「人から頂いたものなのですが、リラックス効果のあるフレーバーティーなので、今の君にちょうど良いかと思って淹れてみました」
「うう……ありがたくいただきます」
揶揄の意も込めた彼の厚意を否定することはできず、いたたまれなさに打ちひしがれながら、遠慮がちに浅くソファーの隅の方に腰かける。
カップを手に取って口元に近づけると、琥珀色の水面が揺らめき、上品な甘さを持つ花の香りが熱を帯びて舞った。これは、ラベンダーだろうか。あれだけ身に入っていた余分な力が自然と抜けていくのを感じる。それを唇から注ぎ込むと、ラベンダーの甘さとアールグレイの爽やかさが織り成す風味が心を穏やかにしてくれる。
「美味しい……」
率直な感想をこぼすと、トキヤはこのラベンダーのように安らぎを与えてくれる優しい微笑を向けて隣に座った。
「口に合ったようでよかったです」
「はい、すごく好きな味です。すっきりしてるようで甘くて、優しくて、なんだかトキヤさんみたいで安心します」
安堵からすっかり気が抜け、つい調子に乗って上機嫌に口走ってしまった。
同じく紅茶の華やぐ風味を愉しみながら静かに耳を傾けていたトキヤは、突如面食らった顔で固まった。
何か変なことを言っただろうか。首を傾けて只今の発言を辿っていくと、やがて己の失言を自覚し、恥から生まれる焦燥が懐から込み上げてくる。
「あ、いや、今のは違っ……わない、ですけど……」
カップを置いて慌てて弁解しようとするも、後が続かずに潰えていく。だって、今のは純粋な本心だったのだから。
今度こそ顔から火でも噴くのではないかというくらいに熱が高ぶるのを感じていると、トキヤの表情が困ったように綻んでいく。
「先程まであれほど追い込まれていたくせに、そういうところは相変わらずといいますか……」
「す、すみません。嘘はよくないかなって思って」
「何故そこで謝るんですか。むしろ、そこは君の長所だと思いますが」
「長所……?」
「ええ。素直に感じたことを言えるのは、君の長所です。そんな君だからこそ、私は救われたのですよ」
彼もまたカップを置き、弁解するのに宙を泳ぎさまよっていた手をそっと愛おしむように握って、穏やかで綺麗な微笑を向ける。手に伝わる温もりから、彼の優しい想いが伝わってくる。
よく馬鹿正直だとか純粋だとか言って周りに揶揄われたりするけれど、こんなふうに長所として認められると嬉しくなる。かつては大人で在らなければと厳しく己を律し、ありのままの自分を閉していた彼の言葉だからこそ。改めて彼を縛っていたものを解くことができたのだと自覚して、なんだかじんと目の辺りが熱くなっていくのを感じた。
トキヤの紡ぐ言葉はいつだって自信を与えてくれるから、お返しになんでもあげたくなってしまう。
「あの、トキヤさん。もうちょっとだけ、近づいてもいいですか?」
恥ずかしくないわけではないけれど、今なら触れ合うことに抵抗はない。求めてくれるのならそれに応えたい。ずっと、今までそう願って傍にいたのだから。
トキヤは一瞬だけ小さくたじろいだが、すぐに表情を和らげて頷いた。
「ええ、もちろんですよ」
優衣は安心してトキヤとの距離を埋めて座り直そうとする。と、急に手を引かれた勢いでトキヤの胸に傾れ込んでしまった。
「わっ」
そのまま男の腕に抱き込まれ、二人の距離は零になった。彼の匂いと温もりに包まれ、胸が高鳴る。
「私もずっと、君に触れたくて堪らなかったのですからね」
耳元で物欲しげに囁かれる言葉が、優衣の心を浮かせる。高ぶる熱が体中に巡り、また逃げだしたくなる衝動をぐっと堪えて固く目を瞑った。
すると広い手のひらに頭の後ろを撫でられ、甘く麻痺するような感覚にじわじわと満たされて力が解されていく。思考がふやけてされるがままに。頭に唇を埋められても、そこに伝わる温もりを意識しながら受け入れるしかない。
恥ずかしい。熱い。頭も心臓もおかしくなってしまいそう。でも求められるのが嬉しくて、包み込む温もりも匂いも心地良くて、もっと沈み込んでしまいたいとも願ってしまう。
やっぱり矛盾している。実はもう手遅れで、既におかしくなっているのかもしれない。
「優衣」
混乱する心を優しく撫ぜるような声に呼ばれ、顔を上げる。涼しげな目元に佇む熱情を秘めた瞳に、意識を惹きつけられる。このまま閉じ込められてしまいそうだなんてぼんやり思っていると、やがて唇に柔らかな温もりがそっと乗せられた。
どきりと心臓が一際跳ねて身じろぐも、頬に手を添えられて囚われる。伝わる熱と自らの熱が一つに融け合って、意識がとろんと微睡んでいく。自然と瞼が落ちて、ほのかに纏うラベンダーの甘やかさに満ちた恍惚の中を揺蕩う。
この感覚を幸せと呼ぶのか。相手がトキヤだからこそ、こんなふうに感じるのだろうか。初めてだからわからないけれど、きっとそうなのだろうと信じたかった。
どれだけこうしていたのか、少し息苦しさを感じ始めた頃に解放された。離れ際に彼の唇が名残惜しそうに軽く吸いついてきて、ちゅっ、と小さな音を立てた。
ゆっくり目を開けると、トキヤの多幸感に蕩ける顔が間近に映しだされる。とても綺麗に思えて、我を忘れて見惚れてしまう。
「どうしました? そんなに見つめて……さては、物足りませんでしたか」
悪戯に笑みを深める唇が、微かに動いて囁く。我に返った優衣は急激に恥じらいを取り戻し、慌てて首を横に振った。
「ちっ……違いますっ!」
「おや、それは残念です。私はまだまだ足りないくらいだったのですが」
「へっ……!?」
物欲しそうな光をほんのり揺らめかせる眼差しに射止められ、思わず腰が逃げる。こちらは今の一時で十分すぎる程に満たされたというのに、まだまだ求められるだなんて。
底が知れない愛情に戸惑う優衣を愉しそうに一笑いした後、トキヤは重く腰を上げた。
「さて。君を前にしていると、いつまでも構いたくなってしまいますが……そろそろ荷物を片付けなければ」
「はっ、そうです! 荷物!」
彼に翻弄されるあまり、すっかり失念していた。
部屋の片隅に纏められた荷物の中から食器の入ったレジ袋を持ち出し、キッチンへ運ぶトキヤを追って、優衣もとっさに腰を上げる。今こそ、彼の真意を確かめなければならないと意気込んで。
「トキヤさん。本当にそれ、使うんです……?」
新しく買い足した食器を次々と棚にしまっていく腕に、怪訝な視線を向けて問うた。既に並べられているものと比べても、やはり優衣が選んだそれは浮いている。
こちらに視線を向けることなく、彼は腕を動かしながら淡々と答える。
「ええ、もちろん。……と言っても、実際に使うのは君ですがね」
「えっ」
「ああ、このカップは洗面台に置いておかなくては。優衣、先程買った歯ブラシを取ってきていただけますか? ついでに、タオルも」
「は、はい……?」
パステルカラーの花が彩るプラスチック製の白いカップを手に、至極自然な流れで指示されて困惑に首を傾げる。まさかこれも、自分が使うのだろうか。
理解が追いつかずに呆然としていると、とうとう見かねた彼は意味深に艶めいた笑みを浮かべる。
「これで、いつでも泊まっていただけますね?」
さすがにその言葉に込められた意味を理解できないほど、無知でも子どもでもない。
『えっ……もう大人の階段のぼっちゃった!?』
『まあでも、そうなるのも時間の問題かもよ〜?』
『優衣って超お人好しだし、絶対相手のペースに流されちゃうじゃん』
『話聞く限りは真面目そうな人だけど、意外とそういうの狙ってたりするかもしれないし、気をつけなよ?』
先日の友人たちの言葉が脳裏に過ぎり、拍車をかける。
腹の底から沸き上がる畏怖めいた焦りと得体の知れない熱が、頭の先まで、爪先まで、巡り巡って。頭を眩ませるほどの衝撃に、腰を抜かしてしまいそうになった。
「そっ……それは、さすがにまだ早すぎます!!」
からからに渇いた喉が、情けない叫びを震わせた。
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