同じソファーに並んで座る二人の間には、あからさまに距離を隔てるクッションが一つ。
「いつまでそうしてむくれているつもりですか?」
困惑が半分、宥めが半分入り混じったため息の後。そこを隔てて投げかけられた言葉に、優衣は不満の纏わり付く視線で応える。こちらを窺う視線がほんのり寂しそうに気を引いてくるので、絆されまいと心を鬼にしてすぐに目を逸らした。
「トキヤさんのことなんて、もう何も信じられません」
「それは困りましたね。私は君に、全てを委ねていただきたいと願っているのですが」
「そう思うのなら、ちゃんと事前に言っておいてください!」
白々しい態度を看過できずに勢い良く身を乗り出して苦言を呈すと、ソファーが軽く弾んだ。ほらもう、口元が既に悠々と緩められているではないか。
「君のことです、言えば拒否されてしまうと思ったものですから」
「当たり前ですよそんなの!」
「何がそんなに気に入らないのです? 君だって、以前は共に過ごす時間が足りないからと言って、私に泊まりにくるよう誘ってきたではないですか」
「ぐうう。そ、その時は、今みたいな関係じゃなかったですし……って、あたしが一番怒ってるのはそこじゃないです!」
「はい?」
過去の軽率な発言を掘り返されて危うく気を逸らされそうになってしまったが、すぐに我に返って踏みとどまる。ふん、と憤りを露わにして睨み上げると、トキヤは覚束ないといった表情で首を傾げた。
暗にここで一夜を過ごす近い将来を示唆されたことにだって、もちろん純情な心を激しく翻弄されたものの、そこに向けるべきは憤りではなく羞恥心と少しの畏怖で。優衣が不満を抱いているのは、もっと別のところ。
「言ってくれたら、ちゃんとお泊まり用品ぐらい家から持ってきますし」
口を尖らせて、不貞腐れたように当てつける。同時にここに泊まる気があることを同時に肯定しているみたいで、つい語気は弱まってしまったけれど。
「……ああ、そんなことですか」
数拍の間の後。ようやく合点がいったらしく、トキヤは軽やかな笑みを浮かべて頷いた。優衣の深刻な悩みを、大した問題ではないと一蹴して。
「泊まりにくる度に荷物をわざわざ家から持ち出す手間を考えると、いっそ私の部屋に常備しておいた方が君の負担も減るのではと思ったので」
至極尤もらしく語られたところで、律儀な優衣が靡くことはない。彼の気遣いはあまりにも寛大だ。だからこそ、甘えるのが恐れ多くもある。
「それなら、ちゃんと自分で全部揃えますよ。全部あたしが使う物なのに、トキヤさんにお金出してもらうなんておかしいじゃないですか」
「来客に備えて、必要なものを揃えておいただけですよ」
「いやいや、来客のためにわざわざ着替えまで揃えます? しかも二着も! あたし、あんなの選んでませんよ!?」
これは先程、クローゼットにルームウェアが収納された時に発覚した。彼が会計を済ませる間、店舗の外で待っていたために目を離したのがいけなかった。
ショッピングバッグの中から出てきた、見覚えのないルームウェア。優衣が選んだのはもっとゆったりと上下を包んでくれる可愛らしい淡いピンクのニットで、あのようなランジェリーと見間違うくらい露出の高い、フリルたっぷりの真っ白なワンピースではなかった。
ワンピースといっても丈は膝上までしかない上に、襟ぐりは首元どころか胸元まで広く開いたキャミソールになっている。パーカーを羽織ればいいにしても、これを着てこの部屋で寛ぐには勇気が必要だと思った。
「君によく似合いそうだと思ったものですから、思わず手に取ってしまいました。何か不測の事態が起こることだってあるかもしれませんし、いくつか備えておくに越したことはないでしょう?」
「不測の事態って、例えば?」
「そうですね……突然予報になかった雷雨に遭い、外に出られなくなってしまった、とか」
「それは、まあ……ないとは言い切れませんけど……」
さすが、絶妙に有り得るシチュエーションを挙げられると、強く反発できない。尚も涼しい顔をしている彼が、ほんのり憎らしく見える。
「ああ、それから」
トキヤがふと笑みを深めた瞬間。身を乗り出して前に突かれた片手の重みを受けたソファーが大きく軋む音を立て、警戒心から間にクッションを置いてまで開けていた距離が一瞬にして埋められた。
もう片方の腕が頬に伸びてきて、じっと目を見つめる瞳が物欲しげに、熱を込めて真っ直ぐに訴える。
「君を帰したくないと望んでしまった、とか」
「……は、はい?」
呆気にとられている隙に頬を触れる指先が繊細に、じっくりと肌の柔らかさを味わいながら、名残惜しげに執拗な愛撫を繰り返す。ぞわぞわと熱を伴う擽ったさに肩を震わせるも、それを振り払うことはできなかった。
「共に過ごす時間が足りないと感じているのは、君だけではありません。私も誰にも邪魔されることなく、君ともっと濃密な時間を過ごしたいと願っているのです」
吐き出された願望は胸の中で甘く蕩けだして、この身体を奥底から炙りだして、全身を巡る熱の波で理性を溶かそうとする。
「せっかくです。今夜、泊まって──」
甘やかな誘惑を不躾に遮ったのは、無機質なインターホン。直後、静けさが痛々しく時を止める。
あれだけ熱く愛に浸っていたトキヤの顔も、今はもうすっかり険しく顰められている。そこから微動だにしないものだから、気まずくなってやんわりと顔色を窺う。
「……あの、出なくていいんですか?」
「居留守を使います」
「ええっ、何か緊急の用事だったらどうするんですっ?」
「緊急ならわざわざ部屋を訪ねなくとも、携帯で連絡を取ればいい話でしょう。というか、とてつもなく嫌な予感がするので」
「嫌な予感?」
おぞましさを露わにして頑なに出ようとしない、その理由に見当もつかず首を傾げる。
またインターホンが鳴り響いた。それも間隔もなく連続で数回、早く出ろと急かしてくる。それでも少し経てば諦めて去っていくだろうと思いきや、まるで居留守を知っているかの如くその後も数秒の間隔を保って何度か繰り返される。
「やっぱり、出た方がいいんじゃないかな」
ドアの外で待っているであろう相手の執念深さに気圧されて控えめに促すと、トキヤはいよいよ観念して深いため息を吐き出した後に重い腰を持ち上げた。苛立ちを隠すことなく、眉間にはいっそう深く皺が刻まれている。
「少し待っていてください。すぐに終わらせて戻ってきますから」
「全然、急がなくていいですよ」
「いいえ。君との貴重な時間を一秒たりとも邪魔されたくありませんから」
冷ややかな怒りを孕んで地の底を這う声は、きっぱりと来客を拒絶する。二人の時間を尊重してくれるのはとてもありがたいことではあるものの、そう相手を無下にしてしまっていいのだろうかと案じてしまう。彼には、その相手に見当が付いている様子だが。
未練がましくこちらに向けられていた視線がようやく玄関に向けられ、重々しい足取りを引きずっていった。よほど気が乗らないらしい。
やがて彼の背中が見えなくなり、ほっと一息吐いて目の前のティーカップに手を伸ばす。もうすっかり冷めてしまったが、カップを口元まで持ち上げれば心安らぐラベンダーはまだほのかに香る。
『今夜、泊まって──』
彼の意識はインターホンの音に逸れて、曖昧に潰えてしまったけれど確かに優衣の耳に届いていた。もしもあのまま最後まで紡がれ答えを求められていたら、自分はどう答えていただろうか。
想像して、また顔が熱くなって。冷めたアールグレイを全部喉に注いで、どうにか体に灯る火を冷まそうとした。
*
玄関のドアを開けてすぐ燃ゆる太陽を思わせる赤い髪が目に入り、思わず苦渋に顔を歪める。
「あ、やっと出てきた! なんだ、やっぱりいたんじゃん」
出て早々に口を尖らせて不満をぶつけてくる音也に、当然ながら悪気はない。無邪気といえば聞こえはいいが、トキヤにとっては無神経の類だ。
「何なんですか、いきなり押しかけてきて。やたら無闇にインターホンを鳴らさないでください、迷惑です」
「だって、トキヤがいつまで経っても出てこないから。聞こえてないのかなって思って」
「まったく……留守の可能性だってあるでしょう」
「もう少し粘って駄目だったら諦めようかなって思ったんだよ〜」
どうやら彼の無謀な賭けに根負けしまったらしい。もう少し堪えるべきだったと心底後悔して、己の行動を呪った。
「……で、何です? 引っ越しの後片付けなら、絶対に手伝いませんよ」
「ええっ、まだ何も言ってないんだけど!」
「あなたの魂胆ぐらいお見通しです。というか、本当にまだ片付いていなかったのですか」
「うーん、頑張って片付けようとはしてるんだけどさ。つい途中で漫画とか読んじゃったりして、なかなか進まないんだよね」
「あなたという人は……」
暢気に苦笑う姿に頭が痛くなるほど呆れ返り、皺を刻む眉間を指で押さえる。己の怠惰による自業自得だというのに、人の都合も考えずに巻き込もうとするなど、許しがたい愚行だ。
「こちらにも都合というものがありますので。あなたに付き合っている暇などありません」
「そこを何とか、お願い〜!」
「そんなに人手を借りたければ、翔や聖川さんに頼んでみては? 彼らの方が親身になってくれると思いますが」
「翔は那月の手伝いで手一杯みたいだし、マサは他に用事があるからって」
「はあ……」
途方に暮れて肩を落とす音也を前に、盛大なため息が生まれる。他に擦り付けられそうな人間がいないとなると、状況は絶望的だ。この男のことだ、こちらが頷くまで意地でもここから動こうとしないのだろう。
優衣と過ごす貴重な時間を譲る気はないとはいえ、どのみち彼女はもうじき帰らなければならない時間だ。欲を言えば帰さずに一夜を共にしたかったのだが、彼女ならきっとまだ早いと言って必死に首を横に振るだろう。決して彼女を傷つけたくはないし、無理強いをするつもりはない。
「わかりました。私用が終わったら後で行きますから、大人しく部屋で待っていなさい」
これはせめてもの譲歩だ、手伝ってやる代わりに今の時間を奪うなと。当然ながら真意を知らずに沈んでいた音也の顔が、輝かしい朝日のような光を放った。
「うん、ありがとう! トキヤなら手伝ってくれるって信じてた!」
「まったく、調子の良いことを……」
こちらの気も知らずに疑いもなく純粋な目を向けてくる音也に、なんともむず痒い気持ちになる。別に彼を助けるために引き受けたわけではない、あまりにも食い下がるものだから仕方なく。それを厚意と受け取って尊ぶだなんて、どれだけお人好しなのか。
思えば出逢って間もない頃の優衣に対しても、同じような気持ちを抱いた気がする。こちらの意思など関係ない、そのように行動したのだから優しいのだと、彼女は勝手に喜んでいた。
音也と優衣はやはり、どこか似ている部分があるのかもしれない。決定的に違うのは、騒々しさを与えるのか安らぎを与えてくれるのかといったところだが。
「あれ、イッキにイッチーじゃないか。こんなところで何を話し込んでいるのかな?」
聞き覚えのある声に嫌な予感がして振り返ると、ますます厄介な人物がひらひらと軽やかに手を振って現れた。
トキヤの顔はますます強張る。何せこの男には優衣の存在が既に知られている上、観察眼が鋭いが故に優衣がいることを目敏く察知されてしまう恐れがある。
「あ、レン! ちょうどよかった、レンも手伝ってよ〜!」
当然ながら事情など何も知らない音也は、事もあろうかレンにまで縋りだしたではないか。この男にこのまま長く滞在されては困るというのに。
内容が何もかも省かれた切実な訴えに首を傾げるレンは、トキヤに説明を求めようとする。
「手伝い?」
「引っ越しの後片付けがまだ終わらないそうです」
「ああ、なるほどね。この後は特に予定ないし、オレは構わないよ」
「ほんとっ? やったー! ありがとう、レン!」
レンが快く引き受けると、音也の顔から安堵と喜びが一緒になってこぼれ落ちた。それに対して疎むどころか微笑ましげな眼差しを向けている辺り、彼も何かと面倒見が良いのかもしれない。
「イッチーも手伝ってやるのかい?」
「ええ、まあ……今は外せない用事があるので、後程」
「へえ……」
何気なくこちらに配られた視線が、ふとある一点に留まった。
「……ひょっとして、子猫ちゃん来てる?」
「なっ、何を言ってるんですか、そんなわけ」
「だってそれ、レディの靴だろ?」
どきりと胸の辺りで跳ねる動揺を押し殺してやり過ごそうとしたが、後ろを指す人差し指に容易く崩されてしまう。振り返った先には、確かに優衣の靴があった。もはや、言い逃れは不可能。
「子猫ちゃん……?」
ある程度の事情を知っているレンだけならともかく、この場に音也もいることをこの一瞬だけ失念していた。レンの言葉の意味を飲み込めずにいる音也の声が、トキヤに焦りを与える。
視線を戻すと、きょとんと真ん丸に見開かれた赤目が瞬いている。隣へ移せば、憎らしくも意地の悪さを誇る笑み。状況は最悪だ。
「まさかあの優等生イッチーが、レディをこっそり部屋に連れ込むとはね。あれだけビビって慎重になってたくせに、意外とやることは大胆だな」
「人聞きの悪いことを言わないでください。きちんと早乙女さんから許可は得ています」
「それじゃあ、ボス公認の仲になったってこと? いつの間に」
「それはっ……私の歌を聴いて思うところがあったようで、卒業オーディションの後に」
堪らず口を滑らせてしまったことへの焦りに狼狽え、咄嗟に口ごもる。恋愛禁止令がまだ完全に撤廃されていない現状で、このことはあまり広めたくはなかった。
何よりここには音也がいる、最も知られたくなかった男が。
「それって、前に言ってたトキヤの好きな子のことだよね? 許してもらえたの?」
そら見たことか、どこかそわそわした様子で食いついてくる音也の目は好奇心を煌かせている。それも、周囲を気にすることなく声を大きく弾ませて。
背が凍りつくような感覚に襲われ、普段なら冷静に窘めているであろうトキヤも思わず少しばかり声を荒げてしまう。
「こんなところで大声を出さないでくださいっ。誰かに聞かれたらどうするんです?」
「ええっ、ちゃんと許してもらえたんだったら、別に隠す必要ないじゃん」
「大衆の面前で正々堂々と早乙女さんに歯向い、結果を出して認められたあなたたちとは事情が違います。まだ恋愛禁止令が完全に撤廃されたわけでもありませんし……」
「でも、トキヤだって歌で園長先生に認めさせたんだろ? 別にズルしたわけじゃないんだし、堂々としてていいんじゃない?」
「いえ、しかし……」
音也は軽々と正当性を主張するが、それは音也とそのパートナーである七海春歌だからこそ許されている権利だ。彼らの無謀ともいえる努力と音楽が、反感を売っていた人間たちの心をも動かして希望をもたらしたのだから。
優勝にこそ届きはしなかったが、実力を示して許しを得たのはトキヤも同じ。しかし、あんなふうに正面から立ち向かったわけでもなければ、過酷な試練を与えられたわけでもない。あれが正解だとは思えないが、それでも少しの後ろめたさは確かに感じていた。
だからこそ音也には知られたくなかったのだが、当の本人は全く気にしていないらしい。それどころか、嬉々として今も瞳を煌めかせている。
「俺もあの日、トキヤの歌を聴いてすっごく胸が熱くなった。これがトキヤの本気の『愛』の歌なんだって、ちゃんと伝わったよ」
「音也……」
「そうだね。あの時のイッチーには、今までにない決意と情熱を感じたよ。あれが子猫ちゃんへの愛そのものだったってワケだ」
「……それは、否定しませんが」
自身の恋愛事を他人に触れられるのはどうも気恥ずかしく、愉しそうに細められるレンの眼差しから逃れ、目を泳がせてしまう。
それでも歌に込めた彼女への想いを誤魔化すことはできない。自分を偽るのはもうやめた。一ノ瀬トキヤとしてありのままに注いだ想いこそが、あの歌の真実なのだから。
「トキヤが好きになった子かー、会ってみたいなあ」
期待を疼かせた声が、トキヤの顔色を窺う。言葉は遠回しであっても、明るい視線は図々しくも真っ直ぐに強請っている。
トキヤは少し綻んでいた口角を固く引き締めて一蹴する。
「駄目に決まっているでしょう」
「ええっ、なんで? いいじゃんちょっとぐらい〜」
「そんな暇があるなら、少しでも片付けを進めてはどうです? これ以上私の大切な時間を奪おうとするのなら、もう一切手伝いませんよ」
「そんな〜!」
音也のことだ、素直に会わせればきっと会話を弾ませて、無意識に二人の時間を束縛してしまうに違いない。ただでさえ既に二人きりの時間を消費してしまっているのだから、もうこれ以上は譲れない。
断固として拒否してやると、わかりやすく眉を下げて嘆き喚きだした。まるで言うことを聞かない子どものようだ。
「まあまあ、イッキ。今日はこのくらいにしておこうじゃないか、機会ならいくらでもあるようだし」
しゅんと落ちる音也の肩に手を置いて宥めるレンは、言葉に含みを持たせて密かに矛先をトキヤに向けた。優衣の存在を嗅ぎつけた時には、また割り込んでくる気なのだろう。警戒の意を込めて睨むと、彼はまた軽やかに笑って躱してみせた。
「ううん、わかったよ。また今度紹介してもらうからな」
「それはその時次第です。さあ、さっさと帰りなさい」
「はぁーい。じゃあ、また後でね」
渋々ながら素直に頷いた音也だったが、視線はまだ未練を残してこちらに向いている。
約束など絶対にしてやるものか。有耶無耶に受け流して今度こそ追い返すと、ようやく二人は大人しく立ち去ってくれた。解放された途端、どっと疲れが体に重みを与える。
「はあ……って、もうこんな時間ですか」
腕時計を見やると、かれこれ十分以上は経っていた。大幅なタイムロスに苛立ちを覚えながら、足早にリビングに戻った。
「すみません、随分待たせてしまいました」
「あ、トキヤさん。おかえりなさい」
ソファーにゆったり座って携帯を弄っていた優衣が、顔を上げて迎えてくれた。せっかく部屋に招いたのに放置してしまったことへの罪悪感に襲われ、胸が痛くなる。
「一人で退屈させてしまいましたね」
「いえ、それは大丈夫ですけど……なんかさっきより疲れてません?」
「少し、厄介事に巻き込まれまして。この後の時間を拘束される羽目になってしまいました」
「トキヤさん……大丈夫、ですか……?」
怒るでも寂しがるでもなく純粋に案じて下から覗き込む真っ直ぐな視線が、妙に心を擽る。本当に疲れているのかもしれない。重くなった体を力なく下ろすと、ソファーが鈍い音を立てた。
すぐ隣にいる彼女はきょとんと目を大きく開き、トキヤの様子をじっと窺っている。それがなんだか愛おしくて、そのまま身を委ねて傾れ込むように抱きついた。
戸惑いの色の混じった小さな悲鳴が耳元であがる。驚いて強張る体に腕を強く巻きつけ、華奢な肩に顔を埋めて彼女の優しい匂いと柔らかい温もりに深く沈み込む。それだけで安らぎに疲弊した精神が溶けてしまうのだから不思議だ。
「トキヤさん……?」
困惑というよりは、心配そうな声で。名を呼ばれて、また心に幸せが注がれていく。
しかし、それでもまだ足りない、もっと欲しいと胸の奥が疼く。目の前で艷やかに流れる黒髪の隙間から覗く耳にそっと唇で触れて、ぴくんと小さく跳ねる背筋をじっくりと撫で上げながら、甘えた声でおねだりを吹き込む。
「大丈夫ではないと言えば、慰めてくれますか?」
「ひゃっ!」
優衣は直に響く刺激に耐えきれずに可愛らしく鳴いて、腕の中で小さく身を捩りだした。それでも腕の中に閉じ込められた彼女の腕は抵抗することなく、むしろぎゅっと背に回されてしがみついてくる。
より密着し合う体は、互いの体温を心地好く沁み渡らせる。
「えと、これで少しは元気になれたり……しない、ですかね……?」
浮足立つ声が耳元で恥ずかしげに揺らいだ。顔は見えないが、固く力の入った体は緊張を表している。
健気に応えようとする姿が愛らしくて、嬉しくて、心が浄化されて穏やかさを取り戻していく。とっておきの時間を奪われた苛立ちすら、些細なことであったかのように。
「ありがとう。私にはよく効きましたよ」
手のひらで柔く頭を撫でると、彼女の体は静かに緊張から解き放たれていった。
「えへへ、よかったあ」
安堵と細やかな喜びに蕩ける声に鼓膜を擽られ、きゅっと胸が甘く締め付けられる。そして生まれる衝動に突き動かされて、ブラウスの襟から覗く柔肌に恋しさを刻み込んだ。
「ひっ……!?」
艶を閉じ込めた黒髪をさらりと退けて、たじろぐ首筋に何度も吸いついて。どのみちもうじき彼女を解放しなければならないのだからと残り少ない時間を名残惜しんで、その瑞々しさと滑らかさを味わった。
「んんっ、あ、あのっ、擽ったいんですけど、何をっ」
「何って、決まっているでしょう。君を愛でているのですよ」
「愛でっ……!?」
「今日は大人しく君を帰さなければなりませんからね。今のうちに、できるだけ堪能しておかなくては」
「そんなっ……んっ……!」
唇を這わせる度にびくびくと震える体は、やはり敏感なのかもしれない。恥じらいに漏れる声は次第に熱い吐息を纏うようになっていく。
ふと見上げると、赤らむ頬に伝う温かい雫がぽとりと降ってきた。潤んだ瞳で見下ろす姿はどこか怯えているようにも見えて、どきりと不安が胸を突いた。慌てて涙を指で拭い取り、頬に優しいキスを落とす。
「すみません、少し理性を失っていたようです。怖がらせてしまいましたか?」
「だ、大丈夫、びっくりしただけで……ドキドキしすぎてしんじゃいそうでちょっとだけ怖かったですけど、でも、トキヤさんが怖かったわけじゃないですよ」
真っ赤にふやけた顔を精いっぱい横に振って平気だと主張する彼女だが、体はまだ少し震えている。無理をさせているのではないかと心配で、その言葉を鵜呑みにすることはできなかった。
大切に労る手つきで頭を撫でて、まだ赤みを帯びる耳に優しく言い聞かせる。
「嫌だと思った時はきちんと拒んでくださいね。私は決して、君を傷つけてまで自分の欲を満たしたいわけではありませんので」
「ううん、トキヤさんに触れられて嫌だなんて思ったことなんてないです。慣れてなくてすぐキャパオーバーしちゃうってだけで、前にトキヤさんの好きにされたいって言ったのは、その……本心、なので」
「優衣……」
恥じらいながらも真っ直ぐに好意を捧ぐ瞳は、こちらの熱を誘う。初めて唇を触れ合わせたあの時もそうだった。覚悟を据えた彼女の瞳に惹き込まれて、理性も何もかもなし崩しにしてしまうほどの激しい衝動が、ぞくりと背筋を走った。
彼女は決してこちらの愛情を拒否することはない。この体から溢れる熱情を真っ向から受け入れてくれるから、懐の深さに甘えて夢中になって尽き果てるまで注いでしまいたくなる。
しかし、まだその時ではない。言葉に込められた想いや覚悟に嘘はなくとも、彼女が虚勢を張っているのは見てわかる。恐らくは彼女自身の許容が追いついていないのだろう。だから、今はまだ。
「いけませんよ、軽率にそのようなことを言っては」
「え……?」
「本当に、帰したくなくなってしまいます」
それは、焦りに染まる表情が物語っている。誘惑じみた囁きを与えれば、あっという間になけなしの覚悟は崩れてしまうのだから。
懐に彼女の頭が萎れたように倒れ込んだ。さらりと前に垂れた黒髪が顔を覆い隠す。いよいよ限界かと、密かに微笑ましく見届けていたのだが。
「……次にお邪魔する時は、ちゃんとそういう覚悟して来ますから」
か細く搾り出された声は、最後に残された勇気だったのかもしれない。それでもトキヤの意表を突くには十分だった。きゅうっと不意に掴まれた心は完全に絆されて、期待の熱に浮かされる。
「次はもう、待ったはなしですよ?」
「がっ、ガンバリマス……!」
滑稽なまでにひっくり返った声に彼女の必死さを感じて、トキヤはくすくすと声を鳴らして笑った。
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