ポップな曲調でありながらも激しいダンスミュージックに乗せて、体育館や校庭などを背景にして、ダンス部員たちと共にキレのある動きを見せるHAYATO。体調の悪さなど欠片も表に出さず、楽しそうに笑顔すら見せている。
「へえ。すごいわね、あんたのとこの学校のダンス部」
「ん〜」
リビングで共にテレビを見ていた母が称賛したのは、同じ学校のダンス部員たちの方だった。確かにプロのアイドルと並んで劣らない見応えで、さすがは全国制覇を目指すグループだとは思う。
それでも、優衣の目はHAYATOに釘付けだった。
あれから無事に体調は回復したのだろうか。無理をしていないだろうか。どれだけ気にしたところで、彼は住む世界さえ違う赤の他人だ。彼がこうして公の場で笑っているのなら、その笑顔を信じて元気を貰うしかない。
あのハンカチはどうなっただろう。彼のものではなかったのなら、捨ててくれているだろう。そうなると、本当の持ち主であるあの青年には大変申し訳ないのだけれど。
考えるのはもうやめよう。あのハンカチを手離した瞬間に、もう終わったのだから。また何でもなかったように、少しだけ特別だった日々から元の日常に戻るだけ。
元の日常……こんなに味気ないものだったっけ。見えない大きな穴が空いたように、何かが欠けている。いつものように学校に行って、他愛のない雑談を友人たちと楽しんで、眠くなる授業をどうにか耐えて、そうして気づけば放課後になっていた。
委員会や部活のために居残る友人たちと教室で別れて、ほんの少し紫がかった空の下をひとりで歩く。今日は面白いテレビ、何かあったかなあ。なんてぼんやりと思い巡らせながら、部活の練習であがる声や下校する生徒たちの雑談などで、まだ活気づいている校舎を背に門を潜る。
――突然、軽い衝撃が優衣の体を襲う。
「わっ!?」
思わず短い悲鳴をあげると共に、衝撃に耐えきれず体が後ろに弾かれた。咄嗟に踏ん張ろうとするも、勢いに負けてよろめく。倒れてしまう、と恐怖に心臓が縮みあがった瞬間、伸びてきた腕に体が支えられた。
「大丈夫ですか?」
「えっ、あっ……!?」
降ってきた涼やかに響く低い声に、聞き覚えがあった。反射的に顔を上げると、そこにはやはり見覚えのある顔。
「あなたは……!」
胸いっぱいに、息を呑んだ。
帽子を目深に被る青年の冷たさを孕む美しさを持つ顔立ちは、HAYATOと同じ……否、HAYATOによく似た恩人そのものだった。
もう二度と会えないと思っていた。夢のような現実を前に唖然として固まっていると、青年は小さく溜息を溢す。
「とりあえず、自分の足で立っていただけますか?」
「あっ、す、すみません!」
青年の冷ややかな指摘をくらって我に返り、慌てて態勢を整える。また迷惑をかけてしまった。小さな罪悪感が、かつて抱いていた罪悪感を呼び起こす。
「そうだった……以前は助けていただいてありがとうございました! あの時、お礼言えてなくてずっと後悔してたんですけど、また会えると思ってなくて、そのっ」
「お、落ち着いてください。何故、そこで泣くんです?」
「ごめんなさい、安心したらついっ……おかしいな、泣くつもりなんてなかったんですけど……ちょ、ちょっと待ってください!」
ああ、また繰り返してしまった。恩人である彼は、目の前でいきなり泣きだした女を前に狼狽えている。また困らせてしまった。
助けてもらったお礼を伝えて囚われていた罪悪感から解放されたいという、自己満足だった。HAYATOにそれを押しつけ、勝手に満足しようとしていた自分を愚かだと反省する一方で、彼自身に出会えたのがとにかく嬉しくて、昂る感情はあっという間に溢れだしてしまった。
気がつけば、すっかり下校する他の生徒たちの視線を集めてしまっている。傍から見れば、部外者の男に泣かされているとも捉えられかねない。
「とりあえず、隅っこに……!」
通学路のど真ん中から、慌てて逃げるように脇道へと退く。青年は呆れた顔をしながらも泣き止むまで付き合ってくれるのか、何も言わずに付いてきてくれた。
そういえば、彼はどうしてここにいるのだろう。ようやく落ち着いてきた頭が、ふと思考する。偶然にしては、付き合いが良いような気もする。助けてくれたあの時は、急いでいるからと足早に去ってしまったというのに。
「何故、私がここにいるのか。そう言いたげですね」
「えっ!」
心の中をなぞるように読み上げられてしまい、どきりと心臓が跳ねる。実際、青年はこちらの目をじっと見つめて探っている。
「どうしてわかったんです……?」
「そう顔に書いてありますから。わかりやすいですね、あなたは」
「うっ」
鋭く淡々とした指摘が容赦なく突き刺さる。返す言葉もなく、やるせなさを呑み込む。
「兄から聞いたんですよ。あなたがこの学校にいると」
「えっ、お兄さん……? ええっと、あたし部活も入ってないし、先輩に知り合いとかいないんですけど」
「兄はこの学校には通っていません」
「うーん、じゃあ……実はご近所さんだったとか?」
「いえ、全く」
「えええっと、じゃあ……遠い親戚だったりとか!?」
「そんなわけがないでしょう」
「ええええ、じゃあもうわかりません!」
アイドルによく似た顔の知り合いなんて、心当たりがない。当てずっぽうで手当り次第に挙げてみるものの、表情ひとつ変えることなく尽く否定され、とうとう手詰まってしまう。
強いて思い浮かぶなら、ひとつだけ。
「少し前に、この学校で番組の収録があったそうですね。その日、兄がこのハンカチを持って帰ってきたんです」
「そ、それって……もしかして!」
そんな都合の良い展開、あるわけがない。そう自ら切り捨てようとしたのに、彼の言葉はとんでもない事実を導こうとしている。
期待を含む緊張が全身を駆け抜けて、肩に力が入る。そんなこちらの気も知らず、彼は涼しく流れる水のようにさらりと言ってのけるのだった。
「自己紹介が遅れましたね。私の名前は一ノ瀬トキヤ。HAYATOの双子の弟です」
「えっ……ええええええっ!?」
腹の底から、渾身の衝撃を叫んでしまった。
半ば強引ではあったが、詳しく話が聞きたいと頼み込んで近辺にあるカフェに腰を据えることにした。彼も何やら話があるらしく、意外にもすんなりと応じてくれた。
ちょうど学校帰りの学生たちで店内は賑わっており、自分たちのお喋りに夢中な彼女たちにはきっと、こちらの会話が聞こえる心配はない。
アイスティーの入ったグラスを片手に握りしめ、優衣は向かいに座る青年の顔を一心に見つめる。指先が冷えてじんじんと痛みを帯びてきたが、それすらも気にならないくらいに意識は青年に向いていた。
双子の弟、という説明はとても腑に落ちた。HAYATOと同じ顔でありながら、持つ雰囲気は正反対。なるほど、盲点だった。
「……そんなに熱心に見つめられても、何もありませんよ」
「あっ……す、すみません……」
困惑を淀ませながら投げられる苦言に、優衣は不躾な己の態度を反省し、いたたまれなくなって視線を外す。
指先の冷気に焼けるような痛みをようやくはっきりと自覚し、グラスから手を離す。一方、青年は相変わらず周りの騒がしさとは相反して、涼しい顔でアイスコーヒーを一口。
おずおずと、今度は遠慮がちに青年の顔を見つめなおす。まだ少し夢見心地で、気分が浮ついている。
「……一ノ瀬さん、でしたっけ」
「ええ」
「本当にHAYATOさんの弟さん、なんですか。しかも双子の」
「はあ……先程、お伝えした通りですが。わざわざそのようなくだらない嘘を吐いて、何か私にメリットがあるとでも?」
「ああ、いえ。疑っているわけじゃないんです。ただ、その……現実として受け止められていないだけで……」
「同じようなものだと思いますが」
「ううう……」
終始、呆れさせてしまっている気がする。我ながら情けなくて惨めな気分になり、力なく頭を垂れる。
「ところで、あなたはどうして兄があの場所にいたと知っていたのですか」
「えっ?」
不意の問いかけに、きょとんと顔を上げる。いつの間にか、疑惑の視線がこちらに向けられていた。
「収録当日、兄は体調が優れなかったようなのですが、それを知っていたのは番組収録のスタッフと彼のマネージャーだけ。どうしてこのハンカチが兄の下にあったのか、不思議だったそうです」
「そ、それは……」
「それから、兄は眠っている間、女性の声を聞いたそうです」
「声っ?」
「とても優しい声で、確か……『いつも元気をくれてありがとう。早くあなたも元気になれますように』と」
ああ、聞かれていたのかと、肝が冷えた。てっきり完全に眠っているものだと思っていたのに。
実を言うと、立ち入っては行けない場所に無断で侵入してしまったことに関しては後悔していた。普段の臆病者の自分だったら、まずありえないことだった。
やはり、怒られてしまうのだろうか。後ろめたく青年の顔を見ることもできず、俯く。それでも部外者である彼になら、正直に懺悔することができた。
「これは本当にたまたまなんですけど、スタッフの人たちが話してるの聞いちゃったんです。具合が悪いのに、予定通りスケジュールをこなさなくちゃいけないんだって」
「まあ、プロですからね。体調管理も仕事の内ですよ」
「で、でも! HAYATOさんって、めちゃくちゃいろんな番組に出てるじゃないですか。アイドルって言ったって同じ人間なんですから、限度ってものがあると思うんですけど……」
「……ふん、随分とあの男の肩を持つんですね。カメラの前でただ脳天気に笑っているだけの、中身のないアイドルだというのに」
何故だろう。HAYATOのことになると、彼は厳しい物言いで語る。むしろ、どこか忌み嫌っているようにも感じられる冷たさだった。悔しくて彼の瞳に真っ直ぐに訴えるかけるも、その温度は相容れない。
言葉に絡みついた小さな棘が、ちくちくと優衣の心臓に刺さる。
「そんな言い方……しなくても……」
憤りよりも悲しみが勝り、口を突いて出た反抗の言葉は思っていたよりも弱々しかった。実の兄弟なのにHAYATOに対して一切の情けも持たず、冷ややかに切り捨てる青年がほんの少しだけ怖いと感じた。
青年はこちらの目を暫しじっと見つめると、逃げるように逸してしまった。
「……すみません、少し言い過ぎました。それで? あなたが根っからのお人好しであることは理解しましたが……まさか、HAYATOの体調を心配して部屋に侵入したのですか?」
「そ、それもありますけど。あたし、あの時助けてくれたのがHAYATOさんなんじゃないかって思ってて、その……確かめたくて、つい」
「なるほど。意外と大胆なんですね、あなた」
またひとつ、感心と皮肉の入り混ざった言葉が矢の如く刺さる。非難される覚悟は掲げていたものの、さすがにそろそろ心が折れそうだが、ぐっと机の上で握る拳に力を込めて堪える。
「どうしても、あの時のお礼が言いたくて。ずっと気になってたから……」
「随分と律儀な方ですね。偶然通りかかった、どこの誰ともわからない赤の他人ですよ。奇跡的に再会できたとしても、相手がそのことを忘れてしまっている可能性は考えなかったんですか?」
「それでもいいと思ったんです。じゃなきゃ、あたしの気が済まなかったから」
彼の意見は尤もだった。指摘されるまでもなく、自らも想定できていた。それでも不思議と青年に強く執着し、諦められなかったのだ。青年にもう一度会えなければ、二度とこの胸は晴れない。そんな気すらしていた。
だからこそ、揺らぐことなく真っすぐに訴えた。信じた奇跡が叶ったから。青年はこちらの視線を真摯に受け留め、諦めたように小さく息を吐く。
「そう、ですか」
帽子の影に隠れてはっきり見えているわけではないが、青年の目元がほんの少しだけ柔く細められた気がした。気のせいではないと信じたくて凝視しようとしたが、青年は思い出したようにさらりとはぐらかしてしまう。
「ああ、そうだ。兄が言っていましたよ。あの声のおかげで元気を貰ったと」
「へっ?」
「あのハンカチのことを知った途端、自分は会いに行けないから代わりに礼を伝えてきてほしいと、煩かったものですから」
やや遅れて、言葉に秘められた真相を理解した。
奇跡は自分が思っていたよりもずっと、大きく叶っていたらしい。心臓が熱く激しく揺さぶられる。強烈な感情が緊張で引き締まる喉に詰まってしまって、上手く言葉を表せなかった。
「……わざわざ、会いに来てくれたんですか?」
「まあ、そういうことになりますね。ちょうど時間があったので、寄ってみたんです。まさか本当に会えるとは思いませんでしたが」
「そう、なんですね……!」
身体の底から湧き上がる嬉しいという純粋な感情が、頭の先まで駆け抜ける。熱が涙腺を刺激して、少しでも気を緩めれば泣いてしまいそうだった。
それなのに、ようやく心の奥深くにまで沈みきっていた蟠りから解放された安堵から、顔はすっかり緩みきってしまっていた。
よほど表情に出てしまっていたのだろうか。青年は少し首を傾けて、怪訝な眼差しをこちらに向ける。
「何故、そんなに嬉しそうなんですか?」
「えへへ、何ででしょうね。ただ、少しでも弱っている人の力になれたなら、よかったなあって思って」
「赤の他人のために、よくもまあ……」
理解しかねるといった顔で、青年は肩を竦める。しかしそれは非難ではない、ほのかな関心を含んでいるようにも見えた。
top