「あ、しまったっ」
カフェのレジで並ぶ間、とんでもない失態に気づいて、愕然と思わず大きめの声を発してしまった。同じく隣で、前の女子高生たちの会計が終わるのを待っていた青年の視線が刺さる。
「どうしたんです?」
「えっと……お金……持ってきてなかった、です」
周りの喧騒に埋もれそうな力のない声は、虚しくも青年の耳にしっかり届いたらしい。深い溜息が、傍らで溢れ落ちる。いたたまれなくなって、身を小さく竦めてしまう。
奇跡の再会に舞い上がってすっかり失念していた。今日は真っすぐ帰宅する予定だったので、財布を持ってきていなかったのだった。
「いいですよ。ここは私が払います」
「うっ、すみません! 後日、必ずお返ししますから!」
「結構ですよ。ドリンク代くらい、大した額ではありませんし」
「でも……!」
「お会計お待ちのお客様ー」
「はい」
「あ、ちょっと!」
軽々とこちらの意志を躱してレジの前へ進む青年に、慌ててくっついていく。
赤の他人であるというのに、あまりにも世話になりすぎている。受けた恩にようやく礼を返せたと思えば、また新たな恩が生まれてしまったではないか。これ以上はさすがに受け取れないと、必死に横から制止しようとするのだが。
「ありがとうございましたー」
青年は聞く耳持たず、あれよあれよという間に会計が終わり、店の外へ送りだされてしまった。完全なる敗北である。
外はすっかり日が落ちてほの暗く影が落ちていた。時が経つのも忘れてそれほどまでにこの店に入り浸っていたのかと、少々驚いてしまった。
「さて、随分と時間を取ってしまいましたね。私はそろそろ失礼しま」
「待ってください!」
このまま帰すわけにはいかない。もはや執念で、踵を返しかけた彼の腕を掴んでいた。
「な、何です?」
「お金、絶対返すので! その、また会えませんかっ?」
自分がどれほど強引な我儘を押し付けているか、充分に理解はしているが、それでも恩人である彼に借りを作ったままでいるというのは、どうしても気が済まなかった。
たじろいでいた青年は少しの間、こちらの目をじっと見つめながら思案する。負けじと真っすぐにその瞳を見つめていると、とうとう観念したのか、彼の視線は下へと折れていった。
「その様子だと、はいと言うまで帰していただけそうにありませんね」
「だ、だって、あたしばっかりいろいろ助けてもらってばかりですし! さすがに申し訳なさすぎます!」
「……やれやれ、そうでもないのですがね」
「えっ?」
一瞬だけ、帽子の下から眼差しがほんの少し和らいだように見えた。ぼそりと呟かれた言葉の意図も理解できずに呆けていると、彼はすぐさま元の調子を取り戻して手を差し出してきた。
「ところで、携帯は持っていますか?」
「え。あ、はい、持ってます! って、ええっ!?」
あまりにも唐突な質問に、条件反射のように考える間もなく、素直に携帯を鞄から手繰り寄せて見せたのだが、流れるようにあっさりと手中から取り上げられてしまった。
困惑するこちらをよそに、青年は取り上げた携帯と自分の携帯と見比べて、手慣れた動作で指を繰る。そして、悪びれることなく一言。
「ロックもかけていないとは、不用心ですね」
「それ、人の携帯勝手に弄ってる人の言うことですかね!?」
さすがに理不尽な言い草に黙っていられなかったが、呆気なく無視されてしまう。意外とマイペースなのだろうか。
やがて彼が納得したように頷くと、ようやく携帯が手元に戻された。力なく呆然としていた手のひらに重く沈み、危うく落としそうになるのを慌てて掴みとる。
「また後ほど連絡します。それで構いませんか?」
促されて画面をよく見てみると、開かれた電話帳に刻まれた彼の名前と連絡先。それは彼の与えてくれた最大限の譲歩だと思った。
ああ、やっぱりこの人が助けてくれたんだな。クールな言動に秘められた優しさに胸が満たされて、思わず笑みが溢れた。
「はい! ありがとうございます!」
ほんの一瞬だけ、彼が拍子抜けしたような顔をしたような気がした。
*
寝る支度を済ませて、ベッドに身体を預けきる。心身と共に緩みきった思考は、ぼんやりと天井を見上げながら今日の出来事を振り返る。
未だ夢見心地だった。運命の出会いだなんて称するには彼に申し訳ないけれど、あの青年との再会はそれほどまでに奇跡だと思った。そして、HAYATOに対する祈りが届いたことも、同じくらい奇跡だった。
ああ、充実感に胸が満たされてしまう。ひとりでに口元を緩めていると、傍らで鳴り響く着信音にびっくりして飛び起きてしまった。
こんな時間に誰だろう。首を傾げながら画面を開くと、そこにはかの青年の名前が記されていた。どきりと胸が躍る。
『こんばんは。一ノ瀬トキヤです。今日は突然押しかけてしまってすみませんでした。おかげで兄も、感謝の気持ちが伝えられたと満足しているようです』
真面目さの窺える文面に、ますます頬が緩みきってしまう。夢じゃなかった。目の前に在る現実に強く感激して、ほんのりと熱く瞳が潤んだ。
『早速の連絡ありがとうございます。今日はお会いできて本当に嬉しかったです。お兄さんにも、どうかよろしくお伝えください』
つられて堅苦しい文面になってしまったけれど、相手はほぼ初対面の人なのだから、これでいいのかな。などと悩みに悩んで、たったこの三行のために十分以上も時間を費やしてしまった。
緊張感に包まれながら、力の入った親指で送信ボタンを押す。それから返事が来るまでやけに落ち着かなくて、再びベッドに寝転がりつつも携帯から目が離せなかった。
それから意外にもメールのやりとりが捗ってしまい、借りを返すという目的を危うく忘れそうになるほどに、彼の情報を知ることになった。
大人びた彼だが、実は歳が一つしか変わらないという衝撃の事実。それから、HAYATOと同じようにアイドルになるため、大手芸能事務所であるシャイニング事務所の社長が開校している芸能専門学校に通っているらしい。夢を叶えるために学園での授業やレッスン、日々のトレーニングに励みながらも、外でバイトなどをして資金を稼いでいるという。
要するに、かなりの多忙でなかなかスケジュールが合わないのである。そんな中、あのように時間を割いて会いに来てくれたことが申し訳なくもあり、とてもありがたいと思った。
『なんだかすみません。お忙しいのに、我儘言ってしまって…。もしよければ、私がそちらに伺いましょうか?』
さすがに学園寮の敷地内には入れなくとも、せめて最寄りまでなら。既に散々に振り回しておいて今更ではあるが、少しでも彼の負担を減らしたかった。
メールを送ってから、それまでよりも長い間があった。もしかしたら、それはそれで迷惑だったかもしれない。余計な気を遣ってしまっただろうかと、徐々に不安に駆られていく。
悶々と返事を待ちながら、訂正の文面を画面に打ち込んでいると、ようやく着信音が鳴った。きゅっ、と携帯を持つ手に力が入る。
『わざわざすみません。春日さんがそれで問題なければ、お言葉に甘えてもよろしいですか?』
受け入れてもらえてよかった。ほっと安堵して手先の力が抜ける。と、同時に少しのゆとりもなく多忙に追われる彼の身を案じてしまう。
『もちろんです。放課後とか休みの日なら予定空けておくので、いつでも都合の良い日を言っていただけたら、いくらでも合わせますよ!』
*
「……お人好しにも程があるでしょう」
携帯の画面に映し出された文面に、無性に心配になってくるあまり思わず独り言が零れてしまった。
「うん? 何か言った?」
「いいえ、何でも」
どうやら部屋を共にする男に聞かれてしまったらしく、先程から床に敷いたクッションの上で、何やら熱心に手元へと注がれていた集中力をこちらへ引きつけてしまった。詮索されると面倒なのですぐにはぐらかすと、ふうん。と不思議そうに首を傾けられる。やがて、興味が消え失せたのか、何事もなかったように再び手元へ視線が戻された。
物が雑多にとっ散らかった空間で、よくもまあ集中できるものだ。ベッドサイドに腰を据えていたトキヤは、燃えるような赤い頭をひと睨みする。いっそ感心してしまうくらいだが、皮肉を込めても脳天気なこの男には利かないのだろう。行き場のない不満を溜息に込めて、深く吐き出した。
この男はいつもそうだ。あっけらかんと、この身には持たないものを無邪気に見せつけてくる。どれほど努力し追究しても未だ掴めないそれを、あの男は持っている。技術もでたらめで知識も欠乏している。それでも、無限大の可能性を秘めた伸び代を感じさせるのだ。悔しくも、それは認めざるを得ないことだった。
時間が足りない。この男に追い抜かれるわけにはいかない。練習時間をもっと確保しなければ。だからこそ、得体の知れない赤の他人であるあの女子高生のために割く時間など、欠片もないはずだ。
それなのに、何故こんなことになっているのか。
「トキヤ。さっきからずっと携帯見てるけど、もう寝る時間じゃなかったっけ?」
不意に指摘されて、はっと我に返った。
焦りを感じて時計に視線を向けると、就寝を決めていた時刻をとうにオーバーしている。
貴重な睡眠時間、美容のためにもアイドルとしては少したりとも削るわけにはいかない。それを失念してしまい、よりにもよってこの男に指摘されてしまうとは。焦りは次第に刺々しく苛立ちに変わっていく。
「お前に言われなくてもわかっていますよ。必要な連絡事項があったので、それを済ませていただけです」
「ふーん。そのわりには、なんだかいつになく楽しそうに見えたけど」
「は?」
愕然とした。この男はいつも何食わぬ顔で、こうしてこちらの思ってもみないことをぶつけてくる。
「何を寝ぼけたことを言っているんですか」
「だって、すごく熱心に携帯見てたじゃん。誰かとメールでもしてたの?」
「別に。人のプライベートにまで首を突っ込まないでいただけますか」
「いいじゃん別にー。トキヤのこと、もっと知りたいんだよ。俺たち友達じゃん」
「あなたと友達になった覚えはありませんね」
「ええ〜、俺はトキヤのこと、もうとっくに友達だと思ってたのにぃー」
そして、無神経にも土足で人のパーソナルスペースへ入り込もうとする。そもそもこの学園にいる同級生全てがライバルであるというのに、馴れ合うのも馬鹿馬鹿しい。
どれだけ苦言を呈しても、疎ましいとあしらっても、大して気に病む素振りも見せない。次第に嫌味を返す気力さえ失せてしまう。こういう時は聞き流すのが一番だ。
「私はもう寝ます。お願いですから、睡眠の妨げとなるような物音は立てないようにしてくださいね」
「はーい。おやすみ〜」
間の抜けた返事に物申したさはあれど、これも聞き流すことにした。
彼女への返事が途中になってしまったが、これ以上に睡眠時間を削るわけにはいかない。明日に回すことにして、目覚ましのアラームをセットしてからベッドに疲弊した心身を力なく預けた。
『いつも元気をくれてありがとう。早くあなたも元気になれますように』
静かに目を閉じた瞬間、闇の中であの優しい声がリフレインする。あの声に導かれるがままにどうしても真相を確かめたくて、わざわざ貴重な時間を割いてまであの場所に足を運んでしまっていた。そして奇跡的に再会した彼女は、相変わらず小動物のように体を小さく縮めて、泣き虫で、それでいて意外と頑固かつ大胆な行動力を持っていて、度を超えたお人好しだった。
たとえ偽りで固められた軽薄さえ思わせるようなアイドルでも、彼女はその中に埋もれてしまった必死の努力を見出して、受けとめてくれている。そして、心の底から余計な世話だと言いたくなるような心配までしてくれている。間違いなく、あの声の主だった。
それを知った瞬間、もがき苦しむ日々の中でも、誰かの心を動かすことができたのか。理性が認めることを拒みながらも、すり減った心は泣きだしそうなほどにそれを噛み締めて安堵した。それと同時に、HAYATOではなく本当の自分を見て、その想いを向けてほしい願ってしまった。偽りではない本物の歌を、評価して受けとめてほしい。
次に会う時が、恐らく最後になるだろう。彼女は返さなくてもいい恩を返して満足し、こちらも会う理由がなくなる。彼女に振り回されるのは、時間の無駄遣いをするのは、これで最後なのに。
何故だかいやに反発する想いを抱いて、やがて意識を微睡みの中に手放した。