来る約束の日。トキヤの指定した時間よりもかなり早めに、学園の最寄りの駅前で待つ。学校帰りなので制服のまま来てしまったが、明らかに周りの学生たちとは違うデザインですっかり浮いてしまい、肩身が狭い。
約束を取りつけたあの日から数日、いくらかのメールのやり取りを経てようやく予定を合わせることができた。ありがたいことに、彼は過密なスケジュールの合間を縫って、ほんの少しだけ時間を作ってくれたのだ。借りを返すには充分。必要以上に彼の貴重な時間を奪ってしまうわけにはいかない。
きっと、会うのはこれで最後だろうから。今度こそ、できる限り迷惑をかけないようにしなくては。最後を意識する度に生まれる寂しさを日々振り払いながら、今日という日を迎えた。
改札をくぐり抜けた先、人様の邪魔にならないように柱に寄って立っている間、なんだか緊張して気分が落ち着かなかった。最後だからこそ、悔いのないように改めて感謝の気持ちを伝えたい。それに、彼の夢を応援したいという気持ちだって。限られた時間の中で、きちんと全部伝えられるだろうか。彼を目の前にすると、そうでなくても彼のことを考えるだけで感情が高ぶってしまう。
彼はあくまでも赤の他人で、それでも恩人で、実はHAYATOの弟で。ただそれだけなのに。
「もう着いていたんですか」
「あ、一ノ瀬さん!」
少し驚いたような声に、はっと我に返って振り向く。いざ顔を見てしまうと、ますます緊張で身が縮みあがってしまう。
「一ノ瀬さんこそ、まだ予定の時間より早いと思うんですけど……」
「用事が思ったよりも早く終わったものですから、読書でもしながら先に待っていようかと思ったのですが。随分と早いですね。いつから待っていたんですか?」
「あ、全然、さっき来たところです!」
これは、嘘である。緊張のあまり思いっきり早く来てしまいました。なんて、恥ずかしい上に気を遣わせてしまいそうで言えるはずがなかった。
それにしても、彼の制服姿は実に新鮮で、本当に学生だったのだとようやく腑に落ちる。思えば、こうしてはっきりと顔を見たのも初めてかもしれない。彼はずっとつばのある帽子を目深に被っていたから。
冷たい美を内包した端整な顔立ちに、つい惹きこまれて見入ってしまう。なるほど、アイドルを目指すのに相応しい顔である。
「……何です? 人の顔をジロジロと」
「あ、いえ! やっぱりHAYATOさんとそっくりだなあって思って。さすがは双子の兄弟ですね!」
またやってしまった。見惚れてしまっていただなんて、素直に話すには少し恥ずかしくて。慌てて、口を突いて至極当然の言葉が出てきてしまったのだが。やはりHAYATOの話題に触れた瞬間、彼の表情は冷たく険しいものになった。実は不仲なのだろうか。少々心配になってしまう。
「……そんなにHAYATOが好きなんですか?」
「え! ま、まあその、そこまでめちゃくちゃ熱心なファンではないですけど。テレビで見てて素敵だなあ、とは思ってます……けど……えっと、気分を害したならごめんなさい」
「いえ、別に気にしていませんよ」
複雑な情のこもった眼差しが、ふいと逸らされてしまった。彼の考えていることは、よくわからない。そもそも彼のことをよく知らないのだから、当然のことではあるのだが。
それでも彼の気に障るようなことを無神経に口走ってしまった罪悪感は、暗く深く影となって落ちていく。
せめて空気を変えなければと心が急かされて、思い出したように今日のそもそもの目的に声を大きくして触れる。
「あ、そう! これ、先日はほんっとーにありがとうございました! 何度もお世話になってしまってすみません」
鞄の中に大切にしまっていた封筒を取り出して差し出すと、彼は拍子抜けしたような顔をして受け取った。
「わざわざご丁寧に。本当に、こういうところは律儀と言いますか……」
「だって、お世話になりっぱなしですもん……。今回も、こうして予定を合わせてもらえて嬉しかったです。本当にありがとうございます。それから、一ノ瀬さんもHAYATOさんに負けないくらい素敵なアイドルになれるように、応援してますね」
「それは……ありがとう、ございます」
ちゃんと言いたいことは伝えられた。これできっと、悔いはない。満足感でいっぱいのはずなのに、ほんのささやかな寂しさが静かな波紋を生む。
彼の夢への道筋を妨げうる感情は、振り払わなくてはならない。優衣は何も知らないふりをして、無邪気に振る舞う。
「アイドルってことは、一ノ瀬さんもやっぱり歌うんですよね?」
「ええ、もちろん」
「一ノ瀬さんの歌がいつかテレビとかで流れたりするってことですよね。いやー、聴くの楽しみだなあ!」
「せっかくですし、今、聴いてみますか?」
「……へ!?」
思わぬ返答に、理解が追いつかなかった。こちらが咀嚼できずに呆然としていると、彼はおもむろに鞄の中から小型の音楽機器を取り出した。
「これはデモテープです。資料として持ち歩いているものになりますが、よろしければ」
「え……いいんですか!?」
「ええ。一般の方の純粋な意見も聞いてみたいですしね。ちょうどいい機会です」
「で、では、せっかくですし、お言葉に甘えて」
「どうぞ」
まさか、こんなにもあっさりと願望が叶ってしまうとは。少し浮足立ってしまうが、それでも彼の厚意には甘えることにした。
HAYATOとよく似た彼は、どんな歌声を持っているのだろう。そして彼自身は、どんな風に歌うのだろう。これは、純粋な興味だったから。
音源を受け取ると、期待に胸を躍らせながらイヤホンを嵌める。やがて耳に吹き込まれたのは、とても流麗に耳に馴染む歌声だった。テレビで聴いたHAYATOの元気良さとは正反対の、明確な理性を持った歌だった。常に落ち着いていて、着実で、彼の性格がまさに表れているように感じた。
短めのボイスサンプルを堪能しきって、思わず溜息が溢れる。イヤホンを外してすぐさま、疼く心を抑えられずに感じたままを無我夢中で伝えてしまう。
「一ノ瀬さんの声、すごく綺麗で、あたし、とっても好きです! あまり技術的なことはよくわからないですけど、それでもすごく上手だなって思いました!」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
「音も全然外してないですよねっ? それに、高い音も全然ブレてないし……なんだか機械みたいですごいです!」
「っ!」
上手く言葉が見つからなくて、変なことを言ってしまったのかもしれない。静かにこちらの率直な感想を受けとめていた彼は、鋭く刹那的に目を細めた。それはどこか険しく苦しげにも見えた。
「え、あ、あたし、失礼なこと言っちゃいました……?」
「いえ。素直な感想はとてもありがたいですよ」
「そう、ですか……?」
とっさに平静を装う彼だが、その表情は未だほの暗さを漂わせて、視線を泳がせる。その胸に抱えるものが知りたくて目で探ろうとするも、差し込む闇は壁のように、決して踏み込ませないと言わんばかりの拒絶を感じさせる。
他人である自分には、懐に入る権利はない。もうこれ以上は彼の気分を害してはいけない。何事もなかったかのように諦めて、借りていた機器を差し出す。
「聴かせてくれてありがとうございます。一ノ瀬さんって、クールに見えて実はかなり優しいですよね」
「は?」
背けていた視線をぐいとこちらに引き寄せられた彼は、毒気の抜けた顔をしていた。受け取ろうとしていた手が、届かないところで宙をさまよっている。
「……どうしてそうなるんです?」
「だって、一ノ瀬さんにとってあたしなんて赤の他人じゃないですか。お忙しいのにわざわざこうしてあたしなんかの我儘に付き合ってもらって、嫌な顔一つしないなんて、優しい以外の何物でもないですよ」
「それを言うなら、あなたにとっても私は赤の他人でしょう。よくもまあ、赤の他人のためにここまで行動できるものです」
「ううん。一ノ瀬さんはあたしにとって大切な恩人ですから、もう赤の他人じゃないですよ」
呆けたままの彼の手にそっと触れ、手中に音楽機器を収めさせると、トキヤは一瞬だけびくりと体を揺らして、やがてそれを確かに握った。線の細い印象を抱いていたが、骨ばった大きな手は男を象っている。
いつからだったか、彼のことは他人だとは思えなくなっていた。何と具体的に問われると、適正な言葉は見つからないけれど。ただ、彼の身に良い事が起こればいいな。そういった細やかな願いを捧げたいと思える存在になっていた。
彼は複雑な情を瞳に閉じ込めて、視線を落とす。そこにどういった情が絡み合っているのか、読み取ることはできない。
「……そろそろ戻らなければなりません。この後、レッスンがありますので」
そして、ほのかに揺らぐ声が終わりを告げる。決して強い言葉ではないのに、優衣の胸深くに刳く刻み込まれた。
とうとう別れが来てしまうのがとても名残惜しくて、何故だか悲しくて。それを悟られてはいけないと、強く振り払って穏やかに笑ってみせる。
「はい。本当に、色々とありがとうございました。えっと……あ、そうだ。帰ったらちゃんと連絡先とメールの方は消しておきますので。こういうの、情報漏洩の恐れとかありますもんね」
「ああ、そうですね。お願いします。私も、きちんと破棄しておきますので」
「はい。……では、あたしはこれで失礼しますね」
「ええ、お気をつけて」
これで本当に、終わってしまうのだ。何もなかったかのように、元通りに。胸を締め付けられながら、それでも精一杯笑い続ける。
「ありがとうございます。さようなら」
軽く頭を下げて、そのまま彼の顔を見ることなく背を向けた。いつまでもここに留まってしまいそうになるから。もう少し、彼の話を聞いていたいと願ってしまうから。
だから、早くここを立ち去らなければと、早足で改札を通ろうとした。
「…………えっ?」
不意に手首を掴んで引っ張られ、軽い恐怖心が肝を浮かせた。はっ、と反射で振り返ると、どこか思い詰めたような眼差しを真っ直ぐに浴びた。
「い、一ノ瀬さんっ?」
「すみません。やはり連絡先はそのままで結構です」
「は、はいっ?」
「いえ、ですから。これからも、一般の聞き手としての純粋な感想をいただけたらと……」
理解が追いつくのに時間がかかった。弱々しく消えゆく彼の声には、迷いのような揺らぎを感じられる。
彼はこれからアイドルになる。いつか有名になって世間中を虜にする、そんな魅力を持った凄い人物と繋がりを持ち続けていいものなのか。戸惑いから、彼の望みを素直に呑み込むことができなかった。
「あ、あたしでいいんですか?」
「あなたがいいんです。お願いできませんか?」
それでも、切実な訴えを込めた熱い視線を振り払うことも、強く掴まれた手を振り解く勇気もなかった。
時折に垣間見える彼の持つ影の正体を、ずっと知りたかった。恩人である彼の力になれるのなら、受けた恩を返せるチャンスがあるのなら――彼を知ることを、許してくれるのなら。彼の向ける熱に侵されて、静かに底に秘めていた感情が灯火となって決意に生まれ変わる。
真正面に向き直って、改めて彼の目を真剣に見据える。そこに閉じ込められた不安を少しでも取り除いてあげたくて、優しい微笑を浮かべて。
「あたしなんかでお役に立てるのなら、喜んで!」
手首を掴む手が次第に抜けていくと同時に、ずっと固くなに厳しく結ばれていた表情が安堵に緩んでいく様を目にして、心に熱く燃え上がっていた灯火はやがて穏やかな温もりを残して鎮まっていった。
「ありがとうございます。それでは、これからもよろしくお願いします」
それなのに、初めて見た彼のとても綺麗な微笑は、何故だか胸を熱く苦しく焦がしたのだった。