駅のホームに降り立つと、雑踏の流れに身を任せて改札を潜り抜ける。そのまま待ち合わせに指定した出口へと向かい、辺りを軽く見回す。さすがに人が多く、通行の妨げにならないように壁際に寄って、待ち人が来るまで読書でもしようと思っていたのだが。壁を背に、携帯を片手にぼんやりと立つその姿を見つけ、小さな驚きを抱いてそっと声をかけた。
「春日さん。もういらしてたんですか」
はっ、と反射的に素早く顔を上げた彼女は、綺麗に流れる黒髪をさらりと揺らして、人懐っこく笑いかけてくる。
「あ、一ノ瀬さん。ちょっぴりお久しぶりです。相変わらず来るの早いですね」
「いえ、あなたに言われたくありませんが」
前回に会った時も、確か彼女の方が先に来ていた気がする。指摘すると、一瞬だけきょとんとした顔をして、すぐにへにゃりと緩みきったような笑みを見せた。
「いやー、なんだか楽しみで落ち着かなくて、そしたらすごく早く着いちゃいました」
「そんなにですか?」
「だって、他でもない一ノ瀬さんの誘いですよっ? あたし、嬉しかったんですから!」
「え……」
上機嫌に力説する彼女の目はとても純粋な輝きを秘めていて、同時に、やたらと好意的に聞こえる発言に、胸がざわりと騒いだ。万が一、彼女の好感が一線を越えてしまった場合には、突き放さなくてはいけなくなる。人知れず警戒し緊張する空気に包まれている傍ら、彼女は人の気も知らずに呑気に語る。
「何となくですけど、一ノ瀬さんってあまり人と関わるのが好きじゃないのかなって感じてたので。こうして誘ってもらえるのが、正直意外だったんですよねー」
「さり気なく失礼なことを言いますね」
「え、ああ、すみません! そういうつもりじゃなかったんですけどっ」
「冗談ですよ。あなたの言うことは、あながち間違いでもありませんからね」
悔しくも、彼女の言葉を真っ向から否定することはできなかった。意外と、人のことをよく見ている。密かに感心していると、彼女は何故か拍子抜けした様子で固まっていた。
「何です?」
「うーん、一ノ瀬さんでも冗談とか言うんだなあって思って」
「それはつまり、面白みがない人間だと?」
「あ、いえ、そういうわけでは!」
大人しそうに見えて、たまに悪気もなくはっきりと物を言う。しかも、彼女にはその自覚がないらしい。こちらが示す不服に慌てふためく姿は、どこか小動物のような愛くるしさを感じて、見ていて愉快だった。
「そういう春日さんは意外と大胆ですよね。馬鹿正直……いえ、素直と言った方がいいのでしょうか」
「一ノ瀬さんもわりと容赦なく失礼なこと言いますよね」
「おや、褒めているつもりですが。感情を素直に表せるのは、いいことだと思いますよ」
怒りを露わにしたり、わかりやすく落ち込んだり、泣きそうになったり、嬉しそうに柔い笑顔を見せたり、表情豊かに彩られる彼女はいつも眩しく見えて、少しだけ寮で同室の男を連想させる。自分とは違って、陽だまりの下が似合うような朗らかさを持っている。あの男ほどの強引なまでの力強さはなけれど、人の感情さえ絆してしまうほどの力が、彼女にはあると思う。表には決して出さないが、トキヤにはそれが羨ましかった。
「一ノ瀬さんは、できないんですか?」
「え……」
不意に核心を突かれ、息が詰まった。彼女の目は真っすぐに、哀れむようにこちらの目を見つめてくる。このまま胸に秘めた本音を見つけられてしまうのではないかと恐ろしくなって、とっさに目を逸らしてしまった。
「……さあ、どうでしょうね。そんなことよりも、いつまでもこのようなところで無駄話をしている場合ではありませんよ。行きましょう」
「ああっ、待ってください!」
はぐらかして足早に人通りの中へと紛れ込もうとすると、後ろから慌てた声と足音が忙しなく後を追ってきた。
「あの、あたし、自分の思ってることとか、感じたこととか、表に出せないとどうも息苦しくなっちゃって、我慢できなくてすぐ出ちゃうんです。だから、いつも冷静な一ノ瀬さんは凄いなって思って」
背後から必死に訴えてくる声は、少し震えているようにも聞こえた。気に障ったと誤解でも与えてしまっただろうか。それでも、彼女と面と向き合う勇気はなく。歩幅をなるべく彼女に合わせながらも、彼女の前を歩き続ける。
「芸能界は、厳しい場所です。受け手や作り手の望みを叶えられなければ、すぐに無用だと切り捨てられてしまう。たとえこちらが納得できなくても、呑み込むしかない。子どものままでは、いられないんです」
このようなことを言ったところで、住む世界の違う彼女に理解できるわけもない。わかりきっていながら、彼女の肯定的な言葉を素直に受け入れることができず、堪らず冷たく吐露してしまった。
さすがに彼女も返す言葉を失くしてしまったのか、しばらく黙り込んでしまった。少々張り詰めた空気が、ふたりの間に走る。素人相手に大人気なかったと自省し、劇場までの道を黙々と歩き続ける。夕方、学生たちが学業を終えて街へ繰り出す時間帯である。平日のわりに賑わう繁華街の喧騒が、いやに耳に響く。
「……じゃあ、あたしの前では、子どものままでいてください」
「はい?」
突拍子のない言葉に思わず振り返ると、力強くこちらを見つめる眼差しがそこにあった。呆然として足が遅くなっているうちに、隣に追いつかれてしまう。
「ほら、あたしは芸能界とはぜーんぜん関係ないド素人じゃないですか。てことはですよ、あたしに媚びを売る必要もなければ、強がる必要もないわけです!」
「ええ、まあ。それはそうですが」
「確かにあたしは、一ノ瀬さんの夢を応援したいと思ってます。でも、今、あたしの目の前にいる一ノ瀬さんは、ただのひとつ歳上のお兄さんです。だから、せめてあたしと一緒にいる間は、ただのお兄さんでいてくれませんか? そうじゃなきゃ、あたしもなんだか緊張しちゃいますし」
次第に柔らかく細められる眼差しは、優しさに満ちていた。小さな子どもに言い聞かせるような語り口で、孤独に縛られた心を慰めようと腕を伸ばしてくる。
「……考えておきます」
その腕に身を委ねる勇気もなければ、拒む力もなく、曖昧な返答で有耶無耶にすることしかできなかった。それでも彼女は、隣で快く頷いてくれたのだった。
「うーん、なかなか斬新なラブコメでしたね」
「ええ……そうですね……」
上映が終わり、シアターからロビーに出て一番に溢れた感想だった。ざわざわと周りの人間たちが思い思いに口にする傍ら、二人して内容を飲み込めずに呆然としている。コメディ要素が強過ぎて、恋愛要素がまるで頭に入ってこない。HAYATOとして撮影に臨んだ際は、仕事だからと役に集中して難なくこなしてみせたが、改めて客観的に観ると心底恥ずかしくなる。自分があの役を演じたことは、彼女には絶対に知られてはいけない。
「でもでも、HAYATOさんの告白シーン、あれはさすがにドキッとしちゃいました!」
「え、あの流れでですか」
賛同どころか、理解できずに一蹴してしまった。必死のフォローのつもりだったのだろうか。力強く語るわりに、少々声がぎこちなく裏返っていた。HAYATOの弟だからと気を遣っているのかもしれない、彼女は度を越したお人好しだから。その証拠に、こちらの容赦ない否定に対して苦々しく笑って弁解する。
「ええっと、流れはともかく……ギャップってやつですかね。普段明るくて愉快なHAYATOさんに、あんなに真剣に見つめられて告白されちゃったら、心揺らいじゃうといいますか」
「まあ、演技ですからね」
「それはそうなんですけど。あのシーンの表情は、どちらかというと一ノ瀬さんっぽかったですよね」
「は……?」
何故、そこで私が出てくるのか。思わず口に出しそうになってしまった。
興味深そうに真っすぐ見つめてくる視線は、誰にも言えない秘密さえ見透かしてしまいそうで、居心地が悪くなる。意外と彼女の着眼点は侮れない。
「普段の印象は正反対だけど、あんな表情もできるんだなって。うーん、やっぱりプロって凄いんだなあ」
かと思えば、こうして無邪気にこちらの気を振り乱してくる。高揚した尊敬の色が、純粋な黒の瞳に映しだされている。偽りのアイドルとしての演技がこうして目の前で褒め称えられるのは、なんとも複雑な心境だった。本当の自分を見てほしい。彼女がHAYATOのことを評価する度に、強い願いが心を揺さぶる。
「……春日さん」
「はい?」
不意に足を止めると、彼女も慌てて立ち止まった。誰にも聞かれないように、小さな体を覆うようにして、耳元に唇を近づける。
「今、あなたと共にいるのは私です。どうか、私だけを見ていただけませんか」
切なる願いを吐きだすと、息を呑む音が至近距離で聞こえた。激しく揺らぐ瞳が大きく見開かれて、こちらの目を食い入るように見つめる。ようやく私を見てくれた。満足感と安堵に胸を満たされる。
「…………と、こういう感じでしょうか」
「は……はいっ?」
わざとらしく軽やかに冗談めかすと、彼女は至極間の抜けた声を発した。きっと、理解が追いついていないのだろう。鮮やかに翻弄される姿は、実に見ていて愉しい。先ほどまでの適度な距離感を取り戻すと、ようやく彼女は我に返った。
「え……えーっと……今の、何です……?」
「あなたがあまりにもHAYATOを絶賛するので。なら、私の演技はどのように映るのかと思いまして」
「あ……ああ、そういう……」
嘘ではないが、本心でもなかった。彼女は納得したように頷いてみせているが、表情は明らかに困惑を拭いきれていない。そこへさらに、瞳を覗き込んで後押しする。
「で、いかがでした? 私の演技は」
「ええ、あの、なんというか……すごくびっくりして、演技どころじゃなかったんですけど……」
「おや、それでは台無しではありませんか」
「だって、今のはいきなりすぎますよ!」
顔を赤くして憤慨する彼女は、恨めしく睨みあげてくる。ころころと変わる表情は、本当に見ていて飽きない。ほんのりと生まれる悪戯心が、気分を密かに高揚させる。
「その顔を見る限り、少なからずときめいてはいただけたようですね」
「ときっ……!?」
ますます顔を赤らめる彼女だったが、急に様子がおかしくなった。驚きに染まった目が、また大きく見開かれて唖然とこちらを見つめている。
「ん……? どうかしましたか?」
怪訝に思って問うと、次第に彼女の表情が綻んでいくのが見てとれた。それは爛々と目を輝かせて、打ち震えるほどの小さな興奮を噛み締めて。
「一ノ瀬さんって、そんな風にも笑えるんですね」
「は……?」
「なんだかあまり笑うイメージがなかったから……一ノ瀬さんの新たな一面、発見です!」
無邪気にはしゃぐ姿は宝物を見つけた時の子どものようで、それほどまでに喜ぶ理由に見当もつかない。
「今、私はどんな顔をしていたんですか……?」
「え、すごく楽しそうに笑ってましたけど。もしかして、自覚なしでした?」
完全に無意識だった。気が緩んでしまっていたのだろうか。それとも、遂に絆されてしまったか。否、とすぐに首を振るも、蕩けそうなほどに頬を緩める彼女を見ていると、何故だか胸が熱く疼く。気を引き締めなければいけないと、己を厳しく律して唇を固く結ぶ。
「私が笑っただけで、どうしてあなたがそんなに嬉しそうにするんですか?」
「好きな人が笑ってたら、嬉しくなるのが普通じゃないですか?」
「えっ」
至極当然のように語られた言葉は、とんでもなく不穏に流れた。腹の底が冷えて、警戒心を抱いて険しく眉を寄せる。それに気づいた彼女は明らかな焦りを見せ、必死の形相で訂正に入る。
「あ、今のはそういう変な意味じゃないですよ!? 一ノ瀬さんのことはお友達として好きですから!」
「は、はぁ……」
素直なぶん、言葉選びがストレートなのかもしれない。そろそろ彼女の性質を把握してきたトキヤは、ひとまず彼女の言葉を信じることにした。こちらとしても、まだ彼女との繋がりを手離すわけにもいかない。他でもない一ノ瀬トキヤとして、本物の歌を歌えるようになるまでは。
「えーっとですね、話は戻りますけど。あたし、どうも人にすぐ感情移入しちゃうみたいなんですよね。ドラマとか見てる時も、すーぐ貰い泣きとかしちゃうし。特に、大好きな人が目の前で泣いてたらあたしも悲しくなるし、嬉しそうに笑ってたならあたしもつられて嬉しくなっちゃうんですよ」
何でもないことのようにあっけらかんと語る様子を見るに、それは恐らく生まれ持った感受性の高さなのだろう。もしくは、お人好しという性分も影響しているのか。どちらにせよ、トキヤには持ち得ない感性である。
「でも、役者さんなんかは意図的にそうさせる力があるのかもしれませんね。ミュージシャンなんかもそうなのかも。演奏や歌で人の感情を巻き込んでしまうわけですし。それって結局、自分がそういう感情の引き出しを持ってなきゃ、できないことなんじゃないのかなって思うんですけど。プロの人たちって、やっぱり人生経験豊富なんですかねー? って、一ノ瀬さん……?」
何も変わらない調子で語られる言葉が、心に強く刻み込まれる。これはきっと答えなのだと思った。豊かな感情を知り、それを歌に込めて人々の心に響かせる。切羽詰まった時間と奪われた自由の中で、とうに失っていたものだった。まさか、ただの女子高生にそれを気付かされるとは思いもしなかったが。だからといって、彼女に甘えきってしまうわけにはいかなかった。
「おーい、一ノ瀬さーん?」
視界に小さな手のひらが入り、思考を遮断される。未だややおぼつかずにいるが、心配そうに顔を覗き込んでくる彼女には悟られたくなくて、平然を装おうとする。
「ああ、すみません……」
「今日、ずっとぼーっとしてません? なんだか顔色と悪いし。もしかして、具合悪かったりします……?」
「いえ、大丈夫です」
「ただでさえ忙しい人なんですから、あまり無理しちゃだめですよ? 体壊しちゃ、どんなに頑張っても報われなくなっちゃうんですから」
「ええ……そうですね……」
やはり悪意のなく繰りだされる単純明快ながらもシビアな言葉には返す言葉もなく、力のない返事が漏れてしまった。それがますます心配を与えてしまったらしく、彼女は悲しそうに、そして静かに微笑んだ。
「今日はもう、帰りましょうか」
「……すみません」
このままでは崩れていくと思った。大丈夫だと自身を奮い立たせてまで彼女の隣にいたところで、心の奥底に沈めていた闇に気づかれてしまいそうで、それどころかそのまま曝け出してしまいそうで。何よりも、そのまま打ち明けてしまえば楽になれるのではと、一瞬でも過ぎってしまったことが怖くて仕方がなかったのだった。