『今日はお付き合いいただき、ありがとうございました。少々ご迷惑をおかけしてしまったかもしれませんね。すみませんでした』
『体調は何ともありませんので、ご心配なく。いつもありがとうございます』

教室に溢れるクラスメイトたちの話し声が、遠くに聞こえる。初夏のじっとりとした蒸し暑さが、つい最近夏服に移行されたことで曝け出されるようになった肌に纏わりつく。おかげで活力を奪われて立ち上がる気力もなく、頬杖をつきながらぼんやりとメール画面を眺めている。
このメールが届いたのは半月も前、トキヤと一緒にHAYATOが主演の映画を観に行った日のことだった。その日の夜のやりとりを最後に、ぱたりと交流が止んでしまった。
本来、これが普通であるべきだったのだと思う。彼は叶えるべき夢のために日々努力し続けている。その限りある貴重な時間を、細々と奪ってしまっていたことに、ずっと罪悪感を抱いていたくらいなのだから。それでも、彼との対話はとても楽しくて、だからこそいけないと思いつつも少し寂しいと感じてしまった。
同時に、ひとつの不安も抱えていた。あの日、もしかしたら彼の機嫌を損ねてしまったかもしれない。彼が時々、不意に見せる闇に囚われたような表情を見せるものだから、少しでも元気になってほしくて必死になるあまり、空回りしてしまったのかもしれない。少なからず、彼は自分を信用してくれていたのだと思う。なのに、彼が抱えているものをちゃんと知りもしないで、知ったふうな口を叩いて、知らず知らずのうちに追い詰めてしまっていたのなら。日に日に後ろめたさに重みが増して、抱えているのが苦しくなっていた。

「優衣ー? ゆーいー!?」
「は、はいぃっ!?」

突然、友人の顔が至近距離に現れると同時に大声が激しく鼓膜を刺して、心臓が大きく飛び跳ねてしまった。

「もー、何回呼んだと思ってんのよー」
「え、えっ?」
「最近、なんかやっぱおかしいよね。ずーっとぼけーっとしてるし。さっきなんて、先生に当てられてるのにも気づいてなかったじゃん」
「そーそー。そんなんでよくテスト乗り切れたよねー」
「うううん……」

そう、つい先ほど、授業で怒られたばかりである。こちらの異変を訝しむ友人たちの言葉に、返す言葉もなかった。
彼女たちの指摘通り、ちょうどこの間に試験前の準備期間に入っていた。試験勉強にはやはりなかなか身が入らなかったが、それでもかろうじてどの教科も平均点には届いた。正直なところ、数学はやや危なかったと思うが。

「もうじき夏休みなんだから、気合い入れていかないとー! 宿題はたんまりあるみたいだし、学園祭の準備だって始まるし、あとほら、お祭りもプールも行かなきゃだしー」
「遊ぶ気満々じゃん」
「だって、遊べるうちに遊んでおかないと〜。三年生になったら確実に後悔するんだから!」
「ああ、うん。そうだね」

力いっぱい語る友人は、確固たる気合いが入っている様子。片やもうひとりの友人は、ちらつかされる現実に顔を引きつらせていた。

「……お祭りかあ」

不意に、トキヤの顔が浮かんだ。これではまるで、一緒に行きたいだなんて願ってしまっているみたいではないか。罪の意識から、慌てて振り払う。下手をすれば、もう二度と会ってもらえないかもしれないというのに。浅はかで欲深い自分が嫌になった。



「へ……お祭りですか?」

思わず素っ頓狂な声を発してしまったのは、パジャマ姿で座り込むベッドの上でのことだった。

『ええ。ちょうどその日、夕方から時間に余裕ができましたので、よろしければ』

受話器の向こうからは、いつもの淡々としたトキヤの声が流れてくる。まさか話題に挙がっていたその日の夜に、彼の方から誘いがあるとは思いもしなかった。
どうやら彼も定期試験なるものを迎えていたらしく、試験準備に集中するために連絡を断っていたのだそうで、この半月ほど悩んでいたのは全て杞憂だったと判明し、それはもう深く安堵した。それどころか、直接話がしたいからと通話を望んだのも彼の方だった。

「あ……あたしでよければぜひ!」

夢のような心地だった。本当に夢だったらどうしようと、浮足立ってしまう。それでも、受話器の向こうから掠める穏やかな笑い声は、確かに鼓膜を優しく揺らしていて。

『よかった。その時に、話したいことがあるんです。聞いていただけますか?』

含みを持たせる言い方だった。急に改まって、何なのだろう。意図が掴めず首を傾げると同時に、脳裏に彼の横顔が浮かぶ。どこか寂しそうに、苦しそうに、遠くを見据える姿が。もしかしたら、彼の抱えているものを打ち明けてもらえるのだろうか。図々しい期待を抱いてしまう。

「もちろんです!」
『ありがとうございます。それではまた、近々予定を合わせていきましょう』
「はい。よろしくお願いします!」

今はただ、純粋にまた彼に会えることが嬉しくて、幸せだった。




*




日が暮れて空が薄紫に染まる頃、最寄りの駅から神社までの道は、人々の活気と熱気に溢れていた。スーパーボールすくいや射的、やきそばなど色とりどりの看板が並び、時折夜風に乗せて漂う、香ばしい醤油やソースの匂いや、甘い飴の匂いが食欲をそそる。傍らで、からん、ころん、と下駄の小気味のいい音が横切り、羨望の眼差しをそちらへ向ける。

「いいなあ、浴衣」
「あなたも着てくればよかったのでは?」
「いやあ、あたしだけやたら気合い入ってるってのもおかしいじゃないですか」
「意外とそういうところは気にするんですね」
「意外とって、どういう意味です!?」

隣を歩く彼は今までと別段変わらない調子で、密かに胸を撫でおろしていた。
人混みで溢れ返る道をゆっくりと練り歩く。人と人がほぼ密着している状態で、蒸し暑さに汗ばみ、体力を奪われてしまいそうになる。

「あっついですね。一ノ瀬さんは大丈夫ですか?」
「ええ、今は何とか。春日さんこそ、大丈夫ですか? 今にもバテそうな顔をしていますが」
「え。だ、大丈夫です!」

あからさまに心配といった顔で覗き込んでくるものだから、慌てて気怠さを振り切ってみせた。が、虚しくも誤魔化せていなかったらしく、疑わしき視線が緩むことはなかった。まるで学校の先生のように、頑なな注意を促してくる。

「いきなり倒れられては困りますからね。水分補給はこまめに。少しでも気分が悪くなったら、すぐに言ってください」
「ううん、わかりました。……まあ、そういう一ノ瀬さんも、人のこと言えませんけどね」

白々しく指摘すると、どうやら気に食わなかったのか、むっと眉を寄せる。
よくよく見ると、いつもの涼しげな表情に険しさが感じられるような気がした。色白な顔がますます青白く、ぐったりした様子が窺える。確かにこの最寄りの駅に着くまでには既に、散々なまでに満員電車に揉まれていた。もちろん、皆の行き先は同じだった。

「私は体調管理には十分気を遣っています。少々、人混みに酔いそうになっているだけですから。あなたのような素人と一緒にしないでください」
「うーん、それは失礼しました」

ほんのりムキになっている姿は珍しい。厳しい言葉を突きつけられているはずなのに、なんだか可愛らしく思えて口元の緩みを抑えることはできなかった。証拠に、彼はなおも不満げにこちらを睨みつけている。それを躱すように足を早めようとしたが、すぐ斜め前を歩く体格の良い男性の体に押し戻されてしまう。行き場を失った優衣は、逃げるようにわざとらしく話題を逸らす。

「それにしてもこれ、気を抜いたらはぐれちゃいそうですねー。探しだすのも大変そう」
「そうですね……」

人の波は時に、程よく保たれたふたりの間を割って流れだそうとする。小さな子どもが無邪気に駆け抜けたり、後ろを歩く同世代の男女たちに押されたり。その度に元の距離に収まろうと踏みとどまったりしているうちに、だんだんと疲れてきてしまった。
当たり障りのない相槌を打った彼は、しばらく思案する素振りを見せていた。どうしたのだろう。不思議に思いながら横目で眺めていると、不意に手のひらに熱が触れ、びくりと体を揺らしてたじろいだ。

「い、一ノ瀬さんっ?」
「少しの間、我慢してください。これが一番はぐれずに済みますから」

そう言い聞かせる彼の目は涼やかに前を見据えていて、だけど握った手は少しだけ力が入って強ばっていて。平然を装う横顔に見入ってしまう。

「我慢って……別に一ノ瀬さんと手を繋ぐのは、嫌でも何でもないですよ」
「そうですか。それはよかった」

あくまでも気配りのつもりだったのだろうが、手の力は安心したかのように柔らかく抜けていった。彼の通う学園の関係者に見つかるとまずいのではと気後れしつつ、確かに手のひらに在る温もりを感じると安心して前へ進めた。
後ろめたいことは何もない。自分たちは、咎められるような関係ではないのだから。繋いだ手に導かれる道を、信じてただ突き進んだ。



「ふふふ、これがなくちゃお祭りは始まりません!」

道中で手に入れたりんご飴を片手に、子どもじみたはしゃぎ方をしてしまう。小さくて見た目も可愛らしい姫りんごにコーティングされた飴は艷やかで、とても綺麗だ。見ているだけで、心がときめいてしまう。
しかし、それを冷ややかに非難する視線が横から突き刺さる。

「よくもまあ、それほどの砂糖の塊を平気で……」
「なっ、中身はりんごですよ!? 果物ですよ!?」
「おや、りんご飴の平均的なカロリー、教えてさしあげましょうか?」
「うっ、それは遠慮しておきます……」

さすがはカロリー管理の鬼、他人にも容赦がない。これ以上の論争は不毛だと悟った優衣は、呆気なく降参する羽目になった。甘いはずの飴が、なんだか気持ち的にしょっぱく感じる。

「そういえば、そろそろ花火上がるんじゃないですか?」
「ああ、もうそんな時間ですか」
「ふふふ。せっかくですから、一ノ瀬さんには特別に、とっておきの場所を教えてあげましょう!」
「とっておきの場所、ですか」

得意げに言ってみせると、彼は優しく首を傾けて聞き入れてくれた。それが嬉しくて、繋いだ手をそのままに人混みを掻き分けて脇道へ逸れていく。祭りの喧騒から離れて閑散とした路地を歩いていくと、やがて小さな児童公園が見えてくる。さすがに今は人気がなく、暗闇の中を静かに遊具たちが佇んでいる。

「さあさあ、ここですここです〜」

小さな子どものように心躍らせ、軽やかな足取りで公園の敷地内に入ると、児童のために作られた低めのベンチに並んで腰かけて、空を仰ぐ。闇夜に点々と散りばめられた星たちは、静かなる煌めきを与えてくれる。

「わあ、今日はよく星が見えますねー! 晴れてよかったです!」
「ああ、本当ですね」

共に星空を見上げる彼の表情は、至極穏やかだった。瞳に映る光は、彼の抱く輝かしい夢を映しだしているようで、とても綺麗だ。

「……そういえば、どうしてあたしを誘ってくれたんですか?」
「え?」

密かに抱いていた疑問を何気なく投げかけると、彼の視線は意表を突かれたようにこちらに向けられた。

「映画の時は、招待券を余分に貰ったから……というのはわかるんですけど、一ノ瀬さんがお祭りに誘ってくれるのはかなり意外でした。ただお話するにしても、お祭りじゃ不向きですし」

たったひとつの街灯にぼんやりと照らされる彼の表情は、次第に柔らかく解けていく。

「それは……あなたが言ったんですよ」
「え、あたしっ? 何かそんなようなこと言いましたっけ?」
「本来、お祭りなど大して興味もなかったのですが。何でも無邪気に楽しむあなたと一緒になら、楽しめる気がしたんです。プロになるには豊富な人生経験が必要、なのでしょう?」

含みのある笑みを向けられ、血の気が引いた。あの日のことを何も触れてこないから、もう忘れてるのだろうと思っていたのに。急激に落ち着きつつあったはずの罪悪感に苛まれ、居心地が悪くなった。

「あっ……そ、そそそその節はド素人が無責任にも大口を叩いてしまい、申し訳ございませんでしたっ!」

堪らず深々と思いきり頭を下げると、頭上で愉しげな笑い声が掠めた。

「いえ、表現者を目指す身としては、とても参考になりました。実を言うと、わからなくなっていたんです。どうすれば、私の歌は人々の心に響かせられるのか。どうすれば私は、HAYATOの弟ではなく私として認めてもらえるのか」

ほの暗く翳る声に引き寄せられて顔を上げると、苦悩に囚われる彼の姿がそこにあった。これまでにも時折垣間見られた、途方もなく遠い未来を見つめるような目をしていた。
ようやく彼のことを理解できた気がする。彼はHAYATOの弟として比べられることを嫌っていたのだ。だから、HAYATOのことに触れる度にどこか辛辣に批判する。双子の兄弟なのに、ではなく、双子の兄弟だからこそ。自分の無神経な言葉が知らず知らずのうちに彼を苦しめていたのだと初めて気がついて、ひどく胸を抉った。

「私は自分の意志を抑えつけて活動していくうちに、いくつもの感情を失っていました。だから、自由に多種多様な表情を見せるあなたが、とても羨ましかったのだと思います」
「一ノ瀬さん……」
「あなたを見ていると、不思議と様々な感情が移ってくる。喜びも、悲しみも、楽しさも。あなたとなら、失ったものを取り戻せる気がするんです」

真っすぐな熱が、瞳に注がれる。希望を抱く声が、確固たる自信を持って心に響く。繋いだ手が、一際強く縋るように握られる。

「ですから、春日さん。あなたにはどうか、これからも私の隣で、私の見る世界を色鮮やかに塗り替えていただきたいのです」

信頼してもらえたことが、何よりも嬉しかった。彼の力になりたいという願いはずっと、じれったく燻っていたから。
そっと手を握り返す。優しく、強く。誠心誠意をもって応えなければならない。それくらい、彼は大切なものを委ねてくれたのだから。

「もちろんです。この手は、何があろうと絶対に離しませんよ」

揺らぐことない信念を、真っすぐに目を見据えて、言葉に託した。刹那、彼の表情が複雑な情を滲ませて沈む。思い悩み、ぐっと言葉を喉に詰まらせて、そして、やがて決意に顔を上げて。

「……春日さん。私は――」

大きな破裂音が、空間いっぱいに響いた。上空に鮮やかに大きく咲く、眩い光の花に照らされて、彼の唇だけが動いた。声が聞こえそうで、だけどその意味まではよく聞き取れなかった。

「い、今、なんて言いました……?」

呆然としながらも問うと、彼は何事もなかったかのように微笑んだ。

「……いえ、大したことではありませんよ。そんなことよりも、花火、綺麗ですね」
「そ、そう……ですね……」

次々と打ち上がる光の芸術が、闇色の空を様々な色で彩る。この瞬間をずっと楽しみにしていたはずなのに、花火に心を打たれる余裕を失っていた。だって、あれがもしも聞き間違いでなければ――

『私は――HAYATOです』

臆病にも不確かな真実を受け取る勇気はなくて、聞こえない振りをしてしまった。







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