遂に過ちを犯してしまった。
ずっと独りきりで抱えていた痛みを、誰かに聞いてほしかった。誰かに受け入れて、理解してほしかった。学び舎を共にするライバルたちに打ち明けたところで、それは弱点を晒してしまうのと同じことである。事情を知らない人間に吐露したところで、十分に理解されず無責任な慰みを与えられるだけ。
でも、彼女なら。他人の心を繊細に感じ取ってくれる彼女なら、願いを受け留めてくれると思った。しがらみに縛りけられて自由を失った心身は、優しく見つめるその眼差しに縋るしかなかった。

『この手は、何があろうと絶対に離しませんよ』

成り行きで繋いだ手を固く握って、彼女は揺るぎない声で、真っすぐな視線で、宣言してくれた。絶対などないことはわかっている。いつかはその手を離さなければならない時が来ることを、確かに予感している。それでも、たとえ離れ離れになっても、心が孤独に呑まれそうになっても、彼女なら夢の中で手を握り続けてくれると信じてしまった。……そうであってほしいと、願ってしまった。
だから、賭けてしまったのだ。他言してはいけない秘密を告白して、信じてくれている彼女に全てを曝けだそうと。たとえそれが彼女への裏切りだったとしても、正直に打ち明けよう。そんな決意にあと一歩踏み出せない臆病な自分は、彼女の気づかぬ隙に時を調節して、夜空に咲く大輪が轟かせる音に真実を紛れさせてしまった。あの時の彼女は、声が届いていたのか、もしくは意味までは聞き取れなかったのか。ただただ呆然とこちらを見つめ、こちらがはぐらかしてしまうとそれ以上に触れることはもうなかった。
それでよかったのだと思う。冷静になった頭が、やはり危ない橋を渡るべきではないと判断した。一時の熱に侵されて、夢への道のりを途絶えさせてはいけない。それは今まで、散々に嘲ってきた愚行ではないか。

たとえば、もう夜だというのに同じ部屋のベッドの上で、ギターをかき鳴らしながら歌っている目の前の男。パートナーの作曲家への好意を臆することなく発信している。この数ヶ月の間、七海という名前はいやというほどに耳にしている。
恋愛禁止令――この学園で絶対ともされる規則である。破ってしまえば即刻、例外なく退学を余儀なくされてしまう。当然だと思った。アイドルは夢を売る仕事であるというのに、個人的な恋愛に現を抜かすなど、ファンへの裏切りではないだろうか。しかし、この男はその絶対の規則に怯える様子もなく、堂々と思いのままに七海春歌への恋愛感情を認めて相手にぶつけている。馬鹿馬鹿しいと、何度も蔑んだ。理解ができないと、拒絶した。そんな男にレコーディングテストで敗北したのは、2ヶ月ほど前の話だった。
この男の歌には、人の心を惹きつける力がある。技術さえ伴えば、多くの人々の心に響かせられるほどの実力が持てるだろう。こちらがどれだけ緻密に技術を研きあげても、誰よりも豊富な経験値を積んでいても、この男には敵わなかったのだ。それがひどく悔しくて、彼の感性に嫉妬してしまう己が醜く見えて、ただ苦しかった。
それでも今は、彼女に会えばそれも浄化されてしまう。彼女の言葉が、苦しみから解放してくれる。道標を教えてくれる。彼女を想えば、心が温かくなる。そして、また、どうしようもなく会いたくなってしまう。
夏休みに入り、スケジュールに少しは余裕が出てくる。これまでよりは予定が合わせやすくなるだろう。夏が終わるまでに、見つけなければならない。――歌に乗せるだけの感情を、自身の魂の中に。




*




「おはやっほー! みんな、元気かにゃあ?」

せっかくの夏休みだというのに、結局は朝寝坊することなく、毎日規則正しい時間に起床している。テレビの向こうで元気を届けてくれるHAYATOの活躍をぼんやりと眺めながら、リビングのソファーで寝ぼけ眼を擦る。夏の活発的な朝陽に熱された部屋に少しでも涼やかな風を吹かせようと、傍らで扇風機が頑張ってくれている。
HAYATOは毎日、変わらず笑顔で番組を盛り上げている。朝の情報番組だけではない。テレビでHAYATOの姿を見ない日はなく、それでもやはり疲労の欠片も見せることなく明るく振る舞っている。

『私は――HAYATOです』

一緒に花火を見た日。トキヤの心の内を知った、あの日。花火が打ち上がる音に紛れた彼の告白が、もしも本当に聞き間違いではなくそう意味していたなら。初めて彼と出逢った時にひたすら渦巻いていた疑惑が蘇り、またさらなる疑問を生む。彼がHAYATOだったなら、何故、と。
あの日、やっと彼のことを知れたと思った。彼が蝕まれていたかもしれない本当の影に気づかずにぬか喜びをして、力になりたいという願いを口にした。それは本当に、正しい向き合い方だったのだろうか。しかし、彼が吐露した願いは本物であると、今の自分には信じることしかできなかった。

「さてと、そろそろ……」

考え事をしている間に、HAYATOのコーナーが終わっていたどころか、番組は既にエンディングに差しかかろうとしていた。気怠くテーブルに置かれたリモコンに手を伸ばして手繰り寄せ、暑さに茹だる体を持ち上げる。テレビの音が静かに途切れると同時に、気持ちを切り替える。

今日は昼からクラスの集まりがある。9月に行われる文化祭の出し物についての会議だ。優衣のクラスは演劇で、題目は王道にもシンデレラと決まっている。配役、分担も夏休みが始まる前に既に決められており、優衣は衣装係を担うことになった。
元々目立つのがそれほど得意ではないので、舞台の上に立つのは気が引ける。緊張するあまり、セリフが飛んでみんなに迷惑をかけてしまったら……などと想像するだけで、血の気が引く。力に自信はないし、音響や照明も責任重大だ。結果、ほどほどに得意な裁縫なら活かせる気がして、衣装係に自ら立候補したのである。
大体のアイデアは初回のクラス会議で纏められていて、今日は採寸と材料の買い出しがメインとなる。その間に、役者陣はセリフ合わせを始めていくと言っていた気がする。恐らく、これからしばらくは忙しくなるだろう。同時に大量の宿題も消化していかなければならない。

「んん〜、せっかくの夏休みなんだけどな……」

洗面所で、ぼんやりと歯を磨く自らの間抜け姿を眺めながら、嘆きのため息を小さく吐く。やるべき事が充実しているのは決して悪い事ではない。文化祭は高校生になる上で一番楽しみにしていた行事だ。……しかし、である。


「ん?」

顔を洗った爽快感に浸りながらリビングに戻ると、テーブルに放置していた携帯がけたたましく振動していた。不思議に思って画面を開いてみるなり、まず率直に「珍しい」と思った。何の前触れもなくトキヤから電話がかかってくるのは、初めてかもしれない。何かあったのだろうか。そんなことよりも、生放送が終わってまだ間もないのではなかっただろうか。

「はい、春日です」
『もしもし、一ノ瀬です。おはようございます』
「おはようございます。って、どうしたんですかっ? 確か……というか絶対、さっきまで生放送してましたよね!?」
『はあ、何の話です?』
「えっ……」

戸惑うあまり、思わず先ほどまで巡りに巡らせていた考え事をそのまま口を突いて滑らせてしまったが、彼はあくまでも我関せずといった口ぶりでしらを切る。それとも、あの言葉は本当に思い違いだったのだろうか。

『ところで、今日は空いていますか?』
「へっ?」

また思考の渦に意識が呑まれそうになっていたところで、珍しく直球な誘いに思いきり引きずり出された。

『長期休暇に入ったので、今までよりも少しだけ時間にゆとりができたのですが。そちらも、もう夏休みですよね』
「うっ、それは……そうっちゃそうなんですけど……」

良心が痛んでつい口ごもってしまう。実は頭の中をどこかで覗かれていたのではないかと疑ってしまうくらいには、タイムリーな話題だった。

『またあなたとどこかへ出かけられたらと思ったのですが……その口ぶりだと、都合が悪そうですね?』

察しの良い彼に、嘘は吐けない。共に夜空を見上げたあの日、大切な約束をしたばかりだというのに。断ることで、彼を傷つけてしまったら。ネガティブな想像力ばかりが活発に働いてしまって、苦しく呻いてしまう。それでも、当然ながら与えられた仕事を放りだすわけにもいかない。

「ううーん、それがですね……」

渋々、正直に事情を話すことにした。彼は静かに相槌を打ちながら聞き入ってくれていたが、一通り話し終えるとあからさまに大きなため息を吐きだした。

『まったく、相変わらずお人好しが過ぎますね』
「ええっ!?」

続いて吐きだされた皮肉に、あっさりと深刻な悩みを一蹴されてしまった。衝撃が強すぎて堪らず大声をあげてしまった。

『互いがそれぞれの事情を抱えているのは当たり前の話でしょう。そこまで気に病むことではありません』
「そうですかね……」
『まあ、そのお気遣いはありがたく受け取らせていただきますが。あなたに負担をかけてしまうのは本望ではありませんし、また日を改めてお誘いしますよ』
「うう、ありがとうございます。またよろしくお願いします……」
『ええ。まだ早いかもしれませんが、あなたたちの舞台の成功をお祈りしています』
「一ノ瀬さん……! ありがとうございます! あたし、頑張ります!」

初めはどこか神経質な印象があったが、意外と彼は寛容なのかもしれないと、ここ最近になって感じる。それでも、こうして手向けてくれる優しさはずっと一貫しているようにも思えた。

せっかく会えるチャンスを逃してしまったのはとても寂しいけれど、それでも収穫はあった。

「声聞けただけでも、嬉しいな」

空白を埋めるように、彼の声に、言葉に触れられることが何よりも幸せで、自然と笑みが満ちた。




*



「お疲れ様でした」

関係各所への挨拶を終えて、トキヤはテレビ局を後にした。この後に仕事の予定はなく、マネージャーと別れて直帰することになった。珍しく予定もないので、近くの書店にでも寄り道してから寮へ帰ろうと思い立ったのだが、一方ではやはり優衣に会いたいという思いが拭いきれない。
近頃は時間に隙が生まれると、自然と彼女のことを思い浮かべるようになっていた。たとえすぐに会えなくとも、彼女の言葉を思い返せば力が湧いてくる。弱さをも抱擁する優しい風に、孤独を慰められる。電話越しに声を聞くことで、疲弊する心が癒やされていく。しかし、時間を共にするあの瞬間のようには満たされず、渇望する願いは肥大化してしまう。
それは、歌う瞬間でも。詩を紡ぐ瞬間でも。いつの間にか、春日優衣という陽だまりのような存在は当たり前のようにこの世界にいて、自身の中に生まれくる音楽さえ彼女を取り巻くようになっていた。それはきっと、彼女が色褪せた世界に様々な色彩を与えてくれたから。世界を創り変えた彼女だったから。


その後、局の最寄りの書店に立ち寄り、新しい本を一通り物色して満足を得たところで、戦利品を手に大人しく寮へ帰ろうとしたのだが。

「あれ、もしかして、一ノ瀬さんっ?」

背後から、近頃よく聞き慣れた声が意識を引きつける。期待を弾ませて振り返ると、まさに会いたいと焦がれていた彼女の、驚く視線と重なり合う。

「春日さん……」
「奇遇ですね、こんなところでお会いするなんて!」
「ええ。……今日は学園祭の準備だったのでは?」
「はい。衣装とかに必要な材料の買い出しに来てたんですけど。まさか一ノ瀬さんに会えるなんて、今日はとってもラッキーです!」

確かに彼女の両手には、大きめの手提げ袋が複数あった。喜びを噛みしめてはにかむ姿を眺めていると、何故だか胸を甘く締めつけられて、息を詰まらせてしまう。この感覚がいったい何を表しているのか、その正体をトキヤは未だ知らない。

「ラッキー、ですか」
「だって、下手したらしばらく会えないと思ってたから……なんだか少し寂しいなって、思ってたんです」

遠慮がちに吐露された素直な想いは、こちらが抱えていた感情をなぞるかのように同じものだった。ああ、そうか。彼女のいない時の中で感じていた空虚は、寂しさだったのかと。自覚して改めて、こうして彼女を目にした喜びを強く実感する。

「……そうですね。私も、あなたに会えて嬉しいです」

そして温かな感情が器から溢れて、至極自然に言葉へと紡がれていった。穏やかに、唇を緩めて。
彼女は何を思ったのか。瞳に何か強い光を揺らめかせて、こちらを見つめた。呆けた唇が、微かに何かの言葉を象ろうとした瞬間。

「春日さーん、そろそろ戻るよー」

彼女の後方から、彼女と同じ制服を着た同級生らしき数人に注意を引きつけられた。我に返った彼女は、慌てて彼らを振り返って返事をする。

「あっ、はーい! ……うう、名残惜しいですが、あたしはこれで失礼しますね」

未練がましく注がれる視線に心を絡めとられ、このまま彼女を引き留めてしまいたくなったが、身勝手な衝動を胸のうちにしまいこんで平然たる微笑を装う。

「ええ。無理しない程度に頑張ってくださいね」
「ありがとうございます! でもそれ、一ノ瀬さんもですからね?」
「わかっていますよ。ありがとうございます」

無邪気に笑う姿に気分を擽られる。くるりと背を向けて、一学生として街中の風景に溶けていく後ろ姿を見つめながら、人知れず胸の中で蕩けていく優しい感情を大切に抱くのであった。







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