奪われた地獄に懸想する
*カニバリズムを彷彿とさせる描写があります。苦手な方は閲覧にご注意ください。
***
「なによ、いきなり手なんて握ってきて」
冴は照れもせずににやりと笑った。私もいつも通りに返す。
「いえ、ただ少しだけ貴女に親近感がわきました」
「え、今まではなかったの?」
「そういうわけではありませんが……まあ、別の意味の親近感です」
「お?ひょっとして私に惚れちゃった?」
「それは天地がひっくり返ってもないですねえ」
にっこりと笑って言ってやると、冴もけらけらと笑った。
「そうよね。でも、まあ同じようなもの同士、仲良くしよう。これからも」
「ええ、私もそうしてもらえたら、嬉しいですよ」
貴女の知る地獄と、私の見た地獄は違うものであっても。私たちは今、此処にいるのだから。
***
幸福の場は、人によって違う。
故に、凪と『姐さん』は共にいる事ができず、そしてこれからもその道は交わる事は無いように思える。
私は凪の幸福を願う。
しかし、凪の幸福は透子の幸福ではないだろう。
凪にとっては、殺す事もまた救いなのだ。あの女郎をあっさりと殺したように。
なにかどこかで道を間違ってきたとしか思えないのだが、それでも彼に――あの歪み切った『救済』に助けられた人がいるのも事実なのである。
私はそのひとりにすぎない。
私の過去は以前に記した通りだが、そういえば凪と何があったかまではまだ語っていなかった。
しかしそれも当たり前に『いかれた』話でしかないのだ。
凪は彼の父親と所用で私の村の近くを通り、そして生き残っていた私を見つけた。
死んでいる母を『取り込み』ながら、生きていた私を。
凪の父――親父さんは、珍しくもない光景だと眉ひとつ動かさず、そして息子の凪は対照的にひどく驚いたようだ。
「なにをしている――!!」
凪は叫び、私が抱えている母の亡骸を引きはがそうとする。赤い糸を引く私の口をおぞまし気に見つめ、恐怖しながら言葉を続けた。
「やめろ、お前!」
「……」
私はもうその時は何も考えていなかったと、思う。自分でも何を思っていたかはあやふやだ。
母を抱き締め続ける力は弱くとも、同じ年ごろの少年が亡骸に抱き着いていれば引きはがすのは難しかったのだろう。
「よせって言ってるんだ!!!」
いきり立った凪が何をしたか。
彼は思いっきり母の亡骸を蹴り飛ばしたのである。
なんと不敬であろう。死者はいつにおいても丁重に扱われるべきであるというのに。
たとえ、死があふれすぎていたとしても。
ともかく、彼の蹴りによって母の身体は離れ、私もあっけなく床板に転がる。
「……かあさん、」
転がった母を見つめる。もう何も映さない母の瞳。濁っていながらも、それでもその目は最後まで『おれ』を見ていたはずの、かあさん。
「……凪。なんでそんなに拘った?」
黙って事の成り行きを見ていた凪の父が問う。
凪は肩で息をしながら、
「おかしいだろ……こんな、気持ちの悪いこと、おかしいだろ――!見たくないに決まってるじゃないか!!!」
怒鳴りながら私に近づき、そして私の口に手を突っ込む。
「え、ぐ、……」
「吐け。それは口にしてはいけないだろ」
彼は私の喉をえずかせ、口回りの血を上等なその着物で拭う。
そして今度は手のひらで私の口を覆う。
「腹が減っているなら、俺の手を食いちぎれ、食うなら親以外の他人にしろ」
ぼんやりとした瞳で、私は彼を見ていたと思う。
親は駄目で、他人はいいのか?
『これ』を『取り込む』ことは赦してもらえるのか?
ああ、そういえば。
そこで気づく、
母は一緒に幸せになろうと言ってくれたのに『おれ』は母を喰らって生き延びてしまった
一緒に幸せにはれなかった。
他人から見た地獄でも、此処は『おれ』にとっては幸福の場であった。
ほんの数日生き延びたとしても、あと少しで母と一緒にいれたのに。
こいつは、自分を喰らえと言って母と引き離そうとする。
「……いきたいのか、選べ」
凪はぐいぐいと手を押し付ける。
横目で、母の亡骸を見つめる。
かあさん、かあさん、かあさん。
かあさん。
私の弱った前歯が、かしりとその皮膚に柔く食い込む。そこに彼が更に力を加えた事で、皮膚が裂ける。
とろりと口腔に流れ込んだあの薄い血が、私を地獄へと引き戻す。
背後で見つめていた凪の父が静かに告げる。
「小僧、お前は自分で選んだんだ。それを忘れるなよ」
20200321
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