同級生の歯科医師尾形くん

 近頃なんだか歯がしみる。もしかしたら虫歯かもしれない。歯磨きは欠かさずしていたが、忙しさにかまけて検診をサボりにサボったツケだ。ここ数年歯医者には行っていない。だから馴染みの歯医者に行くのはなんだか気まずくて、最近できた評判のいい歯科医院に行ってみることにした。
 思い立ったら即行動。その歯科医院をスマホでたぷたぷ検索し、ホームページのお問い合わせだけを見てすぐに電話予約をした。



 そして本日検診日。初めての歯科医院に少し緊張しながら入ると歯医者特有の独特なにおいがして、ああ歯医者に来たんだなあと当たり前のことを思った。新しいというのもあって院内はとても綺麗だ。電話での予約も今日の受付も人当たりが良く好感触。それだけでこれからここを掛かり付けにしようかなと思えた。

「名字さん、名字名前さん〜」
「は〜い」

 名前を呼ばれ、奥の個室に案内される。ユニットチェアに座り歯科助手さんに紙エプロンをつけてもらい、横に置かれた紙コップに水が注がれるのを見て、またまたああ歯医者に来たんだなあと思った。
 担当医になる人はどんな人だろう。ドキドキする。ご近所さんの噂話によると、腕も顔も声もめちゃくちゃ良いイケメンの歯科医師がいるらしい。その人だったらちょっと嬉しいなあと思いながら、歯科医師との対面を待ちわびた。

 静かな個室に足音が響いた。気になる。が、すぐさま顔をガン見するのも不自然だろう。声をかけられるまで真っ直ぐ前を向いて待った。

「こんにちは。担当いたします尾形です」
「……えっ! 尾形くんっ!?」
「あ? ……ああ。お前、名前か」
「わ〜久しぶり〜!」

 驚いた。目の前にいたのは高校の同級生の尾形くんだった。彼も驚いたようで、特徴的な目を一瞬丸くした。
 尾形くんと会うのは卒業振りだ。数年振りのマスク越しでの再会だったが、私はすぐに彼が同級生の尾形百之助だとわかった。見間違えるはずがない。
 尾形くんは私のことなんてとっくの昔に忘れてしまっていると思っていた。だが彼も私の顔と名前を覚えていてくれたようで、それがとても嬉しかった。――が。

「……チェンジで」
「は?」

 私は尾形くんに口内を見られたくないと思った。

「……はい、椅子倒しますね」
「チェンジで!」
「はい、口を開けてくださいねェ〜」
「無視ッ!?」

 尾形くんは見たこともない作り笑顔で私の発言をガン無視した。いや、チェンジだってば。チェンジしてくれ。担当変更っ! 変更希望っ!!

「チェンジ……」
「おいふざけたこと言ってないで口開けろ」

 いや、無理だ。嫌だ。……三年間好きだった相手に口内を見せるなんて、私には絶対無理だッ!!

 私は高校の入学式で尾形くんに一目惚れをし、友人としてそれなりに良好な関係を築きつつ秘めたる思いを募らせ腐らせ、そのまま思いを伝えずに卒業した。そしてそれきり。だけど正直、卒業してからも彼のことをどうしても忘れることができなかった。つまりは、私はまだ尾形百之助が好きなのだ。そんな好意を向けている人物に、検診をサボりにサボったひどい口内を見せるなんて、絶対無理だろ……!!

 痺れを切らした尾形くんが私の顔を覗き込む。いや近い! まじで近いッ!! いや、まて、この距離も無理だッ!!
 ご近所さんが言っていた腕よし顔よし声よしなイケメン歯科医師はおそらく尾形くんのことだろう。マスクをしていてもわかる顔の良さ! おそろしいッ!! 無理だ、耐えられないッ!!

「あのッ! 担当変更してくだ――うがッ!」
「やっと口開けたな、噛むなよ」

 大きく口を開け抗議した瞬間、口に親指を突っ込まれ下顎をガッと固定されてしまった。嘘でしょ! これ、患者にやっていいことじゃないだろッ!?
 噛むなと言われたら噛みたくなるものだが、がっつり固定されてるうえに噛んだら噛んだで後がめちゃくちゃこわい。共に過ごした高校三年間で尾形くんがそれなりにおっかないことを私は知っている。噛んでやることもできず控えめに抵抗する私を無視して、尾形くんはテキパキと私の歯を見ていった。悔しいが手際が良い。

「歯がしみるんだったか? ……けど虫歯はねえな。とりあえずレントゲン撮ってこい」

 ユニットチェアが起こされる。一体何が起きたんだ……。いま私はめちゃくちゃ混乱している。無理矢理指で固定されたせいで口から垂れてしまった唾液をハンカチで拭き取りながら尾形くんを茫然と見つめた。だが彼はカルテを真剣に見ていて目が全く合わなかった。いやほんと敬語もどこいった? 我、患者ぞ? なんだこの扱いは。
 尾形くんをぼーっと眺めているうちに、笑顔が素敵な歯科助手さんが現れてレントゲン室に連れられた。「尾形先生と仲が良いんですね〜」なんて言われたが、どこをどう見たら仲良しに見えるんだ。



 レントゲン室から戻ったら担当医が変わっているかもしれないと思いながら個室に戻ったが、そこにいたのは尾形くんだった。淡い期待が打ち砕かれる。先ほど撮ったレントゲン写真を片手に尾形くんが説明する。やはり敬語はどっかに消え去っていた。我、患者ぞ?

「見ろ。やっぱり虫歯はねえな。検診サボって歯石がたまってるから歯肉が腫れて神経が過敏になってんのかもな。しばらくは歯の掃除をして様子見るぞ」
「はい」
「椅子倒すぞ。……今度はちゃんと口開けろよ」
「はい」

 また口に指を突っ込まれたら嫌なので、大人しく尾形くんの言うことを聞こうと思った。一度見られてしまったら二度も三度も変わらな……いややっぱ無理だわ。ユニットチェアを倒し顔を覗き込む尾形くんを見て、色んな意味で無理だと思った。私の口は開くどころか、逆に唇を噛み締めていた。

「おい」
「…………」
「俺のフルネーム覚えてるか?」
「……おガッ」

 私は馬鹿なので簡単な手に引っかかり、またもや尾形くんの指が口に突っ込まれた。

「ちゃんと開けろっつったよな……?」
「お、おがひゃひゃふほうへひゃん、ごえんらはい」

 尾形百之助さん、ごめんなさい。何を考えているかわからない黒目勝ちな瞳で凄まれてめちゃくちゃこわかった。今度こそ本当に諦めて、しっかり口を開ける。それでも離してくれない顎を掴む腕をぺしぺしと叩き、離れたところで覚悟を決めて目をギュッと瞑った。

「痛かったら言えよ」

 目を瞑って尾形くんじゃないと思えば平気……なわけなかった。いやほんと無理だわ。この耳触りの良い低い声はどう考えても尾形百之助だ。ふざけるな、おまえ自分の声がいい自覚あるだろ。勘弁してくれ。
 視界が真っ暗なせいで余計声に意識が向く。が、歯の掃除が始まった途端それどころではなくなった。

「へんへ! いひゃい! お、おがひゃ!!」
「我慢だ」
「〜〜〜〜っ!!」

 検診をサボりまくったせいか、めっちゃくちゃ痛かった!! 「ここは痛むぞ」「しみたら言え」とやたら声をかけられたが、尾形くんの低い声がどうこうなんて思ってられなかった。私がいくら痛いと言っても尾形くんは歯石をガリガリと削り取り続けた。

「…………ほら口ゆすげ」
「〜〜っ! 痛かったら言えって! やめてくれるんじゃないの!?」
「やめるとは言ってない」
「嘘でしょ……」
「やらなきゃ治らん」
「うう……」

 地獄の歯石取りは上下左右計四回続いた。

「この時期の水は冷たくてしみるからな。そんなに痛かったか?」
「めっ……ちゃくちゃ痛かった」
「けど虫歯はねえんだ。続けて掃除して落ち着くか見るしかねえ。来週またこい」
「…………」
「返事は?」
「はい」
「よし」

 しみるし痛いし尾形くんだしもう行きたくないと思ったが、受付で次回の予約日を聞かれた。当たり前なんだけど。最後の悪あがきで違う曜日に予約を入れたが「この曜日も尾形先生がいるので大丈夫ですよ!」とにこやかに返されて無駄なあがきで終わった。



 帰宅ついでにスーパーで買い出しをして家に帰ると、トークアプリに一件通知が来ていた。……尾形くんだ。一言『来週逃げんなよ』とだけ。慌ててトーク画面を開き『逃げません』と返信し、かわいい猫が土下座しているスタンプを送った。

 ふと、すぐ上の過去のメッセージを見ると、卒業式の日に私が送ったみんなとの写真が目に入った。懐かしい。それに対する尾形くんからの返信はなかった。その場で写真を送ったから。
 卒業してから、尾形くんとは連絡すら取ってなかった。私から連絡を送ることも、尾形くんから連絡がくることもなく、卒業してから数年、消せずにいたトーク画面と連絡先だけが私のスマホにあり続けていた。

 先程まであれほど尾形くんは嫌だ無理だと騒いでいたが、尾形くんが私の連絡先を消さずにいてくれていたこと、尾形くんからメッセージを送ってきてくれたことが嬉しすぎてにやけが止まらない。家の中でよかった。外でにやにやしてたら不審者だ。

 ……だがやっぱり担当医はだめだ。無理だ。絶対嫌だ。好きな人に口内を隅から隅まで見られるだなんて耐えられない。来週絶対に担当を変えてもらう。そう決意した。乙女心は非常に複雑なのだ。



 次の週。お忙しい歯科医師様なら歯の掃除は歯科助手に任せてしまうだろう! と思い、意気揚々と歯科医院の個室に入っていったが、そこには尾形くんがいた。ドウシテ……。
「チェンジで!!」
「ハッ、お前は俺の患者だ」

 にやりと笑って『俺の』と言う尾形百之助に不覚にもときめいてしまった。く、くやしい!!

- hakushi -