魔法の言葉ってなんだろう?
小牧に教えられた言葉を言ったら、本当に自分たちの関係は変わるのだろうか?
たった一言で?
この関係が揺らぐ?


 お試しだけれど、恋人同士という関係がなくなってしまうのだろうか。
12時過ぎて魔法がとけたシンデレラみたいに?
ガラリと変わってしまうんだろうか。

(そんな馬鹿な…。
魔法の言葉なんて…そんなのあるわけないよ。
そんな一瞬で現状が変わる言葉なんて。
‘全部教えてもらいました’この言葉になんの意味がある?
俺が全部知っていたらなんだっていうんだ?
その言葉をいったら変わるって…、今の俺は利弥さんの全部を知らないっていうんだ…?)

 否定したい気持ちと、だけど本当に変わってしまうかもしれない言いしれぬ不安が、じわりじわりと、シミのように大きく広がっていく。じわじわと、心を蝕んでいく。

言葉一つで変わるはずがない。
20歳になったら、お試しじゃなくて本当の恋人同士になるのだから、不安に思うことなんてない。
そう信じていたいのに、利弥が時々見せる突き放した態度が、菜月を疑心暗鬼にさせる。
彼を好きな分だけ、より彼を疑ってしまう。

やめようか?
そう簡単に関係を断ち切れるほど、利弥にとって自分はそれほど価値のない人間だから。
言葉一つで変わらない可能性がないとも言い切れない。

信じたい。だけど、信じられない。
否定したい。だけど、否定するほど自信がない。
優しくしてくれているが、愛されている自信などないのだ。
頭を撫でて貰って、心配してもらって、隣にいてくれて。
好きだと思う気持ちは強くなっていくのだけれど、与えられる日々が怖くて何も言い出せない。
利弥のお陰で自分は少し変われたと思ったのに、自信がないところは変えられていない。

 小牧の出現で落ち着かない気分に陥ってしまった菜月は、気持ちを落ち着かせようと夕食の買い出しに出かけた。
外に出て気分転換でもすれば、憂鬱な気持ちもなくなるのではないかと思ったからである。

 どうせなら…と、電車を使い遠くまで買い出しに出かけたので、家へ帰る頃にはどっぷりと日が沈んでしまっていた。
日は地平線の彼方に落ちて辺りは真っ暗である。

 だいぶ遅くなってしまった。
いつもだったら、とっくに夕飯を食べ終わっている時間になっている。
重い荷物を片手に、錠が降りた家のドアの鍵を開けようと、鞄から鍵をとりだしドアに視線をやると、錠はおりていた。

(利弥さん…帰ってる…?)

ただいま、と声をかけて家の中に入れば、利弥からの返事はなかった。
やはりまだ帰ってないんだろうか…。
部屋の奥へと歩を進めてみれば、そこには帰宅していた利弥の姿があった。
利弥は、ソファにも座らずにリビングの真ん中に所在なくつったっていた。


「利弥さん…ただいま」

改めて、菜月が声をかければ、利弥は菜月の言葉が聞こえなかったのように返事を返さずに「うさこを知らないか?」と静かな声が返ってきた。


「うさこさんなら、小牧さんが持って行ったけど」
「小牧が…うちに?」

菜月の返事に、利弥の目が大きく見開いた。
その瞳にはわずかな動揺が走っていた。
瞬間、利弥は菜月の手を勢いよく掴む。
顔をしかめてしまうほど、強く捕まれた腕に菜月は困惑する。



「どうし…」
「あいつ、なに、話にきた?」
「なにって…」

なにも、ない。これといって、特には。
なんの前触れもなくやってきて、ぬいぐるみもって、またいなくなったのだけである。
ただ、魔法の言葉だといって菜月に言葉を伝えただけ。


‘全部教えてもらいました、っていってみなよ’

刹那、小牧の言葉が悪魔のささやきのように、過る。

‘君が今の現状を変えたいなら言ってみるといいよ。’
甘い誘惑のような、甘美な言葉。


(教えてもらったっていえば、魔法はとける…)

その一言で、この日常は変わってしまう。
小牧の言葉が正しければ、この関係は崩れ去ってしまう。

その不安はあったけれど、それ以上に、その言葉は魅力的だった。
今の一方的な関係を変えてみたかった。

その一言で、すべてが変わるなら。
この片思いのような、切ない関係が変わるなら。
小牧に馬鹿にされないくらいの関係に、その言葉を言って変われるのなら。
現状が変えられるなら…と菜月は口を開いた。


「全部…教えて貰いました…」
「全部…」
「はい。利弥さんのこと…ぜんぶ、です…」

教えられた言葉を口にすると、利弥の纏う空気が変わった。
ピンと張りつめた空気。

がらっと変わったその空気は、今までに感じることのなかったものだった。
強面だが、菜月の前では優しい微笑みを浮かべていたのに。
菜月がその言葉を口にした瞬間、柳眉をよせ瞳は凍えるような色を灯していた。


「そうか…教えて貰ったのか…」

利弥は小さく呟くと、その口元に冷たい笑みを浮かべた。

二人だけの部屋。
別人のように冷たい笑みを浮かべる利弥に菜月は思わず後ずさる。
しかし、利弥は距離をとった菜月に対し、愉快そうに唇を歪めると、その距離を縮めていった。 


「がっかりなぁ、俺がおまえに一番最初に教えたかったのに。
一番最初に、おまえの絶望する顔がみたかったのに…。
お前を、ここに引き取ると決めてから」

吐かれた言葉は、とても、冷たくて。
今まで菜月が知る利弥とはかけ離れていた。
まるで別人のようである。
同じ人間であるはずなのに、その空気はまったく違う。
ドラマでも見ているようだ。
全く違う人間を演じている役者を見ているようであった。


「な、なに…?」
「小牧に教えてもらったんじゃないのか…?
まぁ、いい。ちょうど、頃合いだと思っていたんだ
これ以上、茶番をつづけても意味ないだろう…。本当はもっと早く終わらせるつもりだったんだ…。そう、もっと早く…」
「茶番?」

心臓が、嫌な音を立てている。
聞くな、これ以上聞くな、といっているよう。
ぎゅっと握りしめた手は手汗で濡れて気持ち悪い。


「愛しているよ。菜月」

言葉だけは優しく囁かれた言葉。
けれど、目は笑っていない。
鋭く、冷たい。

「愛してる。
おまえに、そう告げたときから、いや、おまえと出会ったときからずっと考えていたよ。おまえに、どう復讐できるかな、って」

「ふくしゅう…?」

「新谷香月。
知らないか、一時期お前の家にいた。お前の家で、お前の面倒をみていた男だ。
おまえが奪った人間は、俺の一番愛していた人間だった。
俺の一番、心から愛していた男だった」

新谷香月。
聞き覚えのないその名前に、菜月は顔をしかめる。


「新谷香月…、そ、そんなひと…知らない…。俺の家にいた?そんなひと…」
「知らない?
そうか…、お前にとっては、あいつはたんなるお手伝いの一人で簡単に忘れられる存在だったのかもしれないな。
かわいそうに。
お前が殺されるところを誤って殺されたのに、当人は忘れているとはな…」
「誤って殺された…それって…」

該当する人物が1人いる。
菜月のお手伝いとしてやってきたお兄さん。
菜月の、「かっちゃん」である。


「かっちゃんが…利弥さんの…?
そんな偶然…」

「偶然じゃないさ。
俺も香月もおまえに近づいたのは復讐のためだったんだからな。

‘俺は、中川の家に…菜月に復讐するためにいきる、それが、俺の存在意義だから’

それが、香月がよく呟いていた言葉だった。
わかるか、香月はお前が憎くて、お前の家にいたんだ。
復讐する機会を伺うために。
あいつは、おまえに復讐するために、おまえに近づいたんだよ。ずっと、あいつはおまえに復讐する機会を伺っていた」


告げられる言葉はあまりに突拍子もなくて。
菜月はパニックになりながらも、利弥の言葉を否定しふるふると頭を左右に振る。

「かつき…かっちゃん…。そんな…だって、嘘だよ…。
かっちゃんは…俺のこと…やさしくしてくれて…そばにいて…くれて…。俺なんかにいつも笑ってくれて…。そんな…」

お兄さん…香月は菜月に優しくしてくれた。
菜月の一番大切な人。
一番、優しくしてくれたひと。

だから、利弥の言葉なんて嘘だ。
ウソなはずなのだ。
思いとは裏腹に、足はがくがくと震え、脳内は真っ白になる。
利弥の冷たい視線に晒されて、呼吸もままならない。


「あいつは、ずっと中川を恨んでいた。
中川の家すべてを。そして、子供であるお前も。

俺も、おまえに復讐するために生きてきた。
今まで…」

利弥は、可愛そうなくらい震えていた菜月の身体を引き寄せてた。
冷たい腕に菜月はもがくが、利弥の手はしっかりと菜月の身体を抱きしめており、離れることができない。

怖い。
そのとき、初めて菜月は利弥に対して恐怖心を抱いた。
怖い.

逃げ出したいほどに、怖い。
冷たくて、憎しみがこもった視線は、菜月を鋭く射抜く。
憎しみを込められた視線は、ぎらぎらと血走っていた。


「利弥さん…離して…」

「リンドウの花言葉を知っているか?」

耳元でささやかれた言葉に、菜月の視線がゆがんだ。
リンドウの花言葉。

『…ええっと、確かクジャクソウの花言葉は飾り気のない人、それから竜胆の花言葉は、あなたの悲しみに寄りそう。ホトトギスの花言葉は、私は永遠にあなたのものだったような?
ん〜、他にも聞いたのですが忘れてしまいましたね』

貴方の悲しみによりそう。
けれど、脳裏に強く思い出すのは、マスターが言っていた言葉ではなく小牧が言っていた言葉。

悲しんでいる、貴方が好き。


「悲しんでいる、おまえをみたくて仕方ないよ…」

利弥は薄く笑うと、呆然とする菜月の身体をその場に押し倒した。


「利弥…さん…なにを…」

「優しくなんて、できないぞ?
といっても、もうここは…、散々慣らしたから、すんなり受け入れると思うが…」

ズボンの上から、やんわりとそこをなでられる。
性的な愛撫に身体が硬直する。
今まで何度か夜のレッスンでそこは触られたことはある。
だが、こんな風に、冷たい顔でおざなりに触られたことはなかった。

魔法がとけてしまったようだ。
そう、淡い恋の魔法が…。

「い…いやだ…、離して…こんなの」
「抱かれたいっていってたじゃないか?」

お前の望みどおりだろう?
ちゅく…と濡れた音を立てながら耳朶をはまれ、囁かれる。
こんなのは違う。
全然、望んでない。
こんなの、望んでなかった。
これは、自分が望んだものではない。

「俺は散々、忠告してきた。
逃げなかったおまえが悪いんだよ、菜月」

抵抗するものの、菜月のズボンは簡単におろされ、なにも身につけていない下肢を晒される。

「…逃げる機会はいくらでもあったのに…。
俺はいつだって、逃がせるようにしていたぞ。なのに、お前は逃げなかった。
お前がいけないんだ…お前が…」

馬鹿なやつ…−。

利弥は、怯えていた菜月の身体に覆いかぶさると、まだ静かに眠っている菜月の陰茎を握り締めた。






  
百万回の愛してるを君に