その日、利弥が帰ってきたのは、夜も更け日付が変わった頃だった。
出迎えた菜月に、利弥は疲れた表情で微笑むと、仕事用鞄を手渡した。

「お疲れだね…大丈夫?」
「ああ…ここ最近、ちょっとな…」

覇気なく笑う利弥の目元はうっすらとクマが見える。顔色も土色でけしていいとはいえなかった。ここのところ、日に日に利弥はやつれていっている気がする。
髪は毎朝ビシッときめているものの…菜月と反比例するように利弥は疲れている様だった。

「目、クマ凄いよ…。ちゃんと休んでる?ここ最近いつも利弥さん、帰り遅いよね?」
「ああ…うん…それは…。ちょっとな…」
「昨日も2時くらいまでかえってこなかった…。
昨日だけじゃなくて、その前も…ずっと…。朝帰り?」


ついつい詰問するように鋭く訪ねてしまった。
問いただす菜月に利弥は、さぁな、とはぐらかす。
利弥ほどの人間ならば、恋人の一人や二人いてもおかしくない。
おかしくはないと頭ではわかっているのだが…。

(なんか、凄く痛い。
これが嫉妬ってやつなのかな…。まるで恋人の不貞を尋問する女の子みたいだ。
俺と利弥さんはなんの関係もないのに…。)

頭で考えるよりも先に、胸がずくりと痛んだ。

「…俺も色々あるんだよ…。色々…な。
ため息交じりに疲れた様子で吐く利弥に、それ以上菜月は尋ねることはできなくて。

「そういえば、歩けるようになったらバイト先の店長の挨拶には行くって言ってたな?
どうだった?」

黙っていたら、利弥の方から話題を変えてくれた。


「あ、挨拶には行ってない…。途中まではいったんだけど、疲れちゃって。ダメだね、やっぱり、普段歩いてないと。
きっと筋肉、すごい落ちたんだと思う。
駅から降りて数分で、ダウンしちゃった」
「大怪我だったからな。でも、途中まではいけたんだろう?」
「うん。途中まで…ね。春までには歩けるようにならないと…。
あそこの桜、また見たいんだ。
スッゴイ綺麗なんだよ。バイト先の桜。
桜並木でね、桜の季節は木の近くを通ると桜のピンクの花びらがヒラヒラ雪のように舞うんだ。ひらひらって自由になれて嬉しいっていっているみたいに、綺麗にね」
「そうか…。リハビリを続けたら、きっと菜月ならいけるさ。
それに桜の季節まであと、数か月もあるしな…。クリスマスに、お正月、バレンタイン…行事も目白押しだ」
「…間に合うかな。俺、ちゃんと一人で歩けるようになるかな…」
「ああ、きっとな…」

ポンポン、と利弥が慰めるように菜月の頭をたたく。
利弥の手は優しくて温かで、ほにゃ、と口元が緩みそうになる。
きっと自分が犬だったら、ご主人の手にパタパタと尻尾を振っているんだろうなぁ…なんて、忠犬のように主人の帰りに喜ぶ犬である自分を想像してしまう。

(もし…恋愛感情で好きだなんて言ったら、こんな風に触ってくれなくなっちゃうのかな…。ううん。俺が好きだなんて言わなくても、もしも…利弥さんに別の誰か好きな人ができたら。そしたら、ただの犬である俺は捨てられちゃうのかな。
いや、それよりも、前に俺の20歳の誕生日がきたら、利弥さんは…)

「菜月?」
「あ、あの…俺…」
「ん?どうした?」

利弥は優しい声音で返事をかえし、菜月の顔を覗き込む。
菜月の視線は、利弥の唇へ無意識のうちに引き寄せられた。

《そうですね、相手の顔をみるだけで、思考が吹き飛び、ただ無性にキスしたいとだけ思ってしまう…
そんな感情ですよ、きっと》

利弥の唇を見つめていたら、喫茶店のマスターの言葉が脳裏に過った。

(この唇にキスしたらどんな感じなんだろう…)
それまで一度も利弥へ感じたことのなかった感情が、胸に広がった。
男同士で可笑しい、などと思うよりも先に、視線は奪われて。
目の前の唇だけに神経がいく。


「菜月…?」
「利弥さん…あの…俺…利弥さん…が…」

好きです。貴方が、好きになってしまったみたいです。
どうしたら、いいでしょう、俺。
頭に過る言葉は音にはならず…。
利弥は不思議そうな顔で、菜月の顔を見つめる。



  
百万回の愛してるを君に