クロネコラブレター



 昼休みの教室はガヤガヤと騒がしい。
 そんな中でも、俺はちゃんとその声を捉えることが出来た。

 「あ、猫!」

 望月の声につられるように、その方を振り返 る。俺も教室の窓際―――ちょうど中庭の部分を見下ろすことが出来る窓の位置にいた。
 ちょうどその場所から座席三つ分先で、望月は窓を全開にして中庭を覗き込んでいる。彼女の言う猫がどこに居るのか俺からは解らない。けれど、かすかに「にゃぁ」と啼く声は、紛れもなくまだ幼い猫のものだった。

 「おいでおいでー。怖くないよ」

 俺は思わず窓の外を見遣っていた。ガサガサと揺れる草の音。中庭のプランターの陰で、黒く小さな何かが動く。
 それを見た望月は、持っていたパンの欠片を放り投げた。影がさっと動いて、地面に落ちたパンを拾っている。子猫だ。
 真っ黒の毛並み。ガリガリに痩せてはいたけど、綺麗だった。尻尾と後ろ足の毛先だけが白いその子猫は、パンを咥えたかと思うと望月を省みることなく、あっという間にどこかへ駆け去っていった。

 「あーぁ、行っちゃった」

 残念そうにそう言うと、望月は突然俺の方を向いた。ばちんと目が合う。予想もしなかったことに、俺はただ驚いて眼を丸くするしかなかった。

 「澤村も猫、好きなの?」
 「え? いや……特別好きってわけじゃないけど。普通に可愛いよな」
 「だよね! あ、よかったら後で一緒にたび≠ノ会いに行く?」
 「たび=H」
 「あの子の名前。ホラ、後ろ足だけ毛が白くて、足袋履いてるみたいでしょ」
 「ハハ、なるほどな」

 答えると望月は嬉しそうに眼を細めて笑う。窓の外から吹き込む風が、望月の細い髪をふわりと揺らしていた。

 「香澄、移動教室遅れるよー」

 そんな俺たちの間を割り込むようにして、別の女子の声がした。「ゴメン、今行くっ」と望月は彼女に答えて窓を閉めた。最後に一度、俺をちらりと見て呟く。

 「じゃあ、昼休みにね」
 「ちょっ……望月!」

 確定事項なのか、と訊き返そうとしたけど遅かった。望月はスカートを翻してくるりと俺に背を向けたかと思うと、すぐに友達の方へ駆けていく。
 昼休み―――あの猫に会いに、ってことだよな?なんで望月が俺をそんなことに誘ったのかは解らない。

 単なる気紛れなのだろうか。だけど、意外さから来る驚きと期待ばかりが膨らんで、思わず緩みそうになる頬を、そうならないようにするので俺は精一杯だった。
 友達と談笑を交わしながら廊下の向こうに小さくなっていく望月の姿は、俺に背を向けたあの瞬間、どこかたび≠ノ似てるな と何となく思った。


 ☆ミ


 それから昼休みまでの2時間を、落ち着けずにそわそわと過ごした俺の頭に、授業の内容は勿論入ってはいなかった。
 板書を丸写ししながら時々ちらっと望月の方を見遣ると、彼女は真剣に黒板の方を向いている。その真剣な眼差しが何だか眩しく思えて、素直に綺麗だと思った。

 (って、何考えてんだ…!)

 思わず赤面。頭を抱えて、机の上に突っ伏した。授業が終わるまではあと3分。そうしたら午前の授業はこれで終わりだ。つまりは望月に誘われた昼休みになってしまう。
 わずかに動揺している自分に気づいたそのとき、授業終了を告げるチャイムが鳴る。黒板に数式を書いていた初老の先生の手が止まって、教室内は解放されたようにざわめきに包まれた。

 さあ、どうする。普段ならスガと旭と一緒にミーティングを兼ねて弁当を広げるところなのだが、今日は何て言ってそれを抜け出すかをぼんやり考えた。
 望月に声をかけられてから、何だか調子が狂ってる気がした。どこにでもいそうな感じの、ちょっとだけ化粧をした彼女の顔を思い出す。

 不思議なことに、俺が思い出そうとする望月はいつも笑顔だった。
 これまで特に何の接点もなかったというのに、望月の笑顔ばかりが、どうしてこんなにも焼き付いているのだろう。

 「みゃあー」
 「うおっ!?」

 いきなり背中に感じた衝撃。前へつんのめるようになって、机がどアップになって見えた。
 続けてけらけらと笑う声が頭の上から降ってきて、俺はようやく振り返った。望月。座った俺を見下ろすようにして、ただそこに居て笑っている。

 「なにしてんだよ……」
 「あはは。びっくりした?」

 ばくばく音をたてる心臓を誤魔化したくて、少しだけ雑になる口調を止められなかった。けれど望月はさほど気にしていないように見える。
 じっと、俺を真っ直ぐに見つめる瞳。それに真正面から貫かれてしまったら、俺はどうなってしまうだろう。

 「行こうよ、中庭。お昼もそこで食べる?」
 「あ……あぁ、そうだな。つかお前、さっきの」
 「あ、本物の猫みたいに可愛かったって?」
 「誰もンなこと言ってないだろ」
 「なにを〜〜!?」

 ぷぅっと頬を膨らませて、望月は俺の背中をばしんと叩いた。今日初めてマトモに会話した相手だなんて思えないくらいに、俺たちは自然だったと思う。
 望月はさばさばしていて、俺の仲間にもよく似てる。俺の隣に座り込んだ身体は、俺に比べればあまりにも小さい。
 だけどこうして俺に、当たり前のことみたいに触れてくる。気紛れな、まるで猫のように。

 のんびりと中庭に下りると、この日は先客もおらず辺りは静かだった。その分どこかの教室から響く笑い声がやけに大きく聞こえる。
 植木の影をきょろきょろと見回しながら、望月はあの子猫を探しているようだった。

 「たび、いないねぇ……」

 さわさわと風に揺れて小さく音を立てる木のざわめきに紛れて、望月が呟いた。どこか遠くのほうを見つめる眼は、まるで恋人を待ち焦がれているようにも見える。

 「望月、ホントに猫が好きなんだな」
 「うん。猫っていうか、たびが好きなのかもね」
 「なんだそれ」
 「あの子は特別なの!」

 小さく胸を張って、望月はえへへと笑った。あのたび≠ェ特別な理由はよく解らないが、好きな対象(もの)を好きだと臆面もなく言える彼女は、やっぱり眩しかった。

 「望月ってなんか、馬鹿なんだな」
 「ちょ、馬鹿って……!」
 「馬鹿つーか、バカ正直?」

 そう言うと、望月は言葉を詰まらせていた。ここに来て初めて、俺は彼女と眼が合った。何か言いたげな表情。
 「望月、」 呼びかけようとした俺に、ふいっと背を向けて。

 「私にだって、言いたくても言えないことくらいあるもん」
 「……ん?」
 「澤村の方が、ずっと真っ直ぐだよ。私よりも、ずーっと!」

 ぱっと振り向いて、望月はまくし立てるようにそう言った。「だから、困っちゃうんだよ」 と。俯いた彼女の頬に、長い睫毛が影を落としていることになぜか心臓が跳ね上がる。

 「俺だって困るっつうの…」

 思わず口を衝いて出た本音は。
 望月には聞こえていなかっただろうか。

 不意に訪れた静寂は、望月が「あっ」と声を上げたことで途切れた。彼女の指差した方向。黒い影が、俺たちの方をじっと見つめていた。
 真っ黒の身体によく映える、金色の目。よく見ると左右の色が違う。左目は太陽のような色、そして右目は真夏の空の色をしていた。その両目が、俺と望月の姿をしっかりと映しこんでいる。

 「おいで、たび」

 呼びかけた望月の声に、たびはぴくんと耳を震わせていた。だけど、大きな欠伸をひとつかましただけで、たびはプランターの影から動こうとはしない。
 近付くことは出来そうになかった。俺か望月が動けば、すぐに逃げてしまうだろう。

 「……駄目みたいだな」
 「そうだね。でも、これでも進歩したんだよ」
 「前は、もっと酷かったのか?」
 「うん。私のこと見て、ぴゃーって逃げてたからね」
 「そうか。じゃあだいぶマシになったんだな」
 「そうだよ。焦らなくても、これからもっともっと時間かけて仲良くなればいいんだよね!」

 そう言って、望月は俺を見上げて笑った。そんな彼女に、唐突に、触れてみたいという衝動に駆られる。
 額にかかった望月の前髪。そこに、指先だけを絡めた。

 「……俺たちもな」

 俺の言葉を、望月は一瞬理解できなかったみたいだ。眼を丸くして、だけどそのあと小さく、それでもしっかりと頷いていた。
 何でこんなことを、思ったのか解らない。ずっと前から心の底にあったものに、今気付いただけなのかもしれない。

 だけどこのきっかけを寄越したたびは、いつの間にか姿を眩ませていた。中庭に残された影は、俺と望月のふたつだけ。
 ふたつだけ、というのがなんだかいい響きのように思えて、望月には解らないように俺は小さく口許を綻ばせるのだった。


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Vanity