あまりにも頭が痛むのでざわめきに殺されてしまうような気がした。頭痛薬を受け取って、路に出てからすぐ飲みくだした。自販機が電子カードを読み込まない。吐気とめまいで膝をついてしまいそうになる。現金を持ってきていたかと不安になりながら財布を開いて、紙札の線淵が見えたからほっとした。コントレックスのボタンを押す。キャップをひねりカプセルを流すためだけの水を舐めるようにして少しずつ飲む。
白灯の下の街路樹は鈴掛だった。影がそういうかたちをしている。その樹はわたしにとても嫌なことを思い出させる。
「いらない」
薦めたのは煙草を吸わないからだかった。もらいものだから減ればいいと思って声をかけたけれど、ゾルディック氏には断られてしまった。折角ここにあるのだから一本くらいは吸ってみようかという気になって、セットでもらったライターを手のひらに出した。
礼儀として窺うように氏へラベルを向けると、彼はほとんど目を落とすようにして肯き、腕組みをして広い窓のむこうを眺めた。ホテルのロビーからは鈴掛が夏の光の中で義務のように立っているのが見えた。待ち人はなかなか来なかった。そのとき彼と二人でひとを待つことは仕事だと聞かされていた。わたしは何度か慣れない音を立てて真白い一本目を焦げつかせ、唇にあてた。目論見を聞いていたら、たぶん吸わなかった。騙し打ちの見合いだった。
「物わかりが悪いよね。何度言わせるの」
「あなたこそ何なの。わたし、その子と会ったこともないのに」
「秘密にしないでって言ってるでしょ」
「ねえ、頭が痛いの」
「お前が悪いんだよ」
「わたしの何が悪いの」
「秘密をもつこと」
「お願いだから針を抜いて」
「本当のことを喋ったらね」
「あの子のことで嘘なんてつかない。嘘なんてついてどうするの?あなたの針に嘘なんてつけないじゃない。わかってるくせに」
「違うね。お前は嘘つきだ。お前は何か隠している。お前は自由になりたいんだろ。お前は変化系だしね。キルと同じ。だからキルの肩をもった。お前みたいな奴は家に入る前に徹底的に教育しなきゃ。この家に嘘つきは要らないから……」
「お願い、頭が痛いの」
「もっと痛くできるよ」
「許して」
──許さない。耳を疑ったけれどその声には確かに笑いのようなものがこもっていた。このひとが笑ったところを見るのは婚約の日以来はじめてだった。彼はわたしに自白のための一本に加え、もう一本、頭痛の種としての針を埋めた。
これから揃って嵌める婚約指輪を執事が持ってくるまでの待ち時間に、彼はいつもの平静さで出奔した弟の話をした。それを聞いてわたしは何となくその子を擁護した。わたしたちの仕事は特殊なものだし、遊びたいざかりの子にとって修行はつらい。反抗期の子が家出をしただけだ。少し時間が経てば家を恋しがるはずだから、それまでは黙って戻るのを待てばいいと思って。あまつさえそれを口に出してしまった。そこからだった。ごく大人しかった彼の態度は変わってしまった。あるいは、わたしが変えてしまった。
七十二時間の容赦ない拷問を受け、一度生家に戻ったわたしはゾルディックの電話口にひとが出るなり婚約を取り消すとだけ伝え、逃げた。気づいたときには痛みとともに飛行船の一席にいた。しばらくのあいだそのまま飛行船を乗り継いでいた。痕跡を消すほどの余力はほとんど無かったから、とにかく都合がつく便を捕まえては世界中を行きつ戻りつした。パドキアの国境線だけは越えないように。
飛行船の冷房の中で毛布にくるまり、目を閉じて動物のように傷を癒した。三週間経ち、ほとんどの痛みがなくなってからわたしはやっと自分の足取りを完璧に拭き消すことに成功して、ある国に降りた。そして空港に程近い静かなレストランに落ち着いた。重い体をソファに沈めて窓の外を眺めた。鈴掛が暗い影を落としていた。
あなた。それに、ゾルディックさん、としか呼びかけたことがなかった。それまでの縁だったから。なのにいつまでも頭が痛い。拷問によって受けた傷はすべて薄く白く残るただの記憶になった。なのにいつまでも経っても生々しく頭が痛い。許さない、と彼は言った。
頭痛が強まったときはいつもパドキアの天気予報を見た。雨の夜が多かった。あの山は特に冷えるだろう。あのひとは仕事ばかりで世界中を回っているのだから偶然かもしれない。けれどこれは確かな愁波のように感じた。彼はいま夜の雨の中でわたしを求めているのかもしれない、そう思うと哀しくなった。でも戻るつもりはない。
あのひとが捨てたようにわたしを捨てるなんて、怖くてできない。あのひとが生まれながらに与えられていなかったものをわたしは生まれながらに持ってしまっていた。全身の神経を引き抜いてみせるのと同じように、自分自身を引き抜いて彼に捧げるのは不可能だった。
ある国で、ある街角で、ある鈴掛の陰で、ごめんなさいと呟きながら何度も何度も鎮痛剤を飲みくだす。そのうち麻薬が必要になるとわかっていたから準備した。彼の願いを受け容れるまでこの頭痛は続き、受け容れなければいつかわたしはたった一本の針によって殺されてしまうと予感した。ひとつの根が石材を砕くように。それでも戻りたくはなかった。あなたのようになりたくなかった。
「ごめんなさい」
ホテルの白い壁に繰り返しつぶやく。とても眠りたいのに飾られた花の匂いが頭痛を起こしてしまう。やがて嵌められる指輪を待っていたあの数分に、あなたの味方をしてあげればよかった。わたしはあなたに何が欠けているか、自分があなたの目にどう映っているか、あなたにとってあの男の子がどういう存在か、し尽くしても行き届かない想像すらしなかった。
眠りたい。けれど今でもきっとあなたのことを理解できない。それが可能になる未来などこの先にはもうないのだから、お願いだから、眠らせてとあえぐ。この頭痛は鈴懸と同じくあなたの静かな顔を思い出させてしまう。痛みは深い水のようにわたしを溺れさせる。
彼は許さないと言った。あの日からひとときもあなたを忘れられない。忘れられないようにしているのでしょう。泣きながら繰り返す。ごめんなさい。あなたはずっとわたしをナマエと、名前で呼んでいてくれていたのに。あなたの瞳がわたしを求めていたのと同じくらい、あなたを求めていればよかったと今になって思う。
「イルミ……」
何百回目の夜だろう。なかば無意識に舌がひとつの名前を唱えた。あのひとの名前。あのひとだけの名前。今、わたしの声が届いていればいいのに。彼になら針で頭を割られてもいい、でも同じくらい彼とこの激痛に消えてほしいと願った。この薄情をこそあなたは許したくないのでしょう。わたしは全身全霊であなたを欲さなければいけなかった。それが正しい答えだった。そうでしょう。応えるように愁波は強まって、また哀しくなっただけだった。
ベッドに臥したまま麻薬を針から腕にそそぐ。初めて煙草に火をつけたときよりは慣れた仕草で。そのまましばらく目を閉じていた。眠りの根がゆっくりとわたしの神経の末端にまで伸びていく。音は無い。けれど扉が開いて誰かが入ってきたような気がした。きっとわたしを心配した両親が迎えに来てくれた夢だと思った。誰も眠る瞬間をとらえられないのはどうしてだろう。わたしも鋏で切り取られるように鋭い眠りに落ちた。その直前にひとの気配が顔に近づいてくるような気がした。でも、もう指ひとつ動かせなかった。
「ナマエ」
とても遠いところから誰かがわたしを呼ぶ。大きな手のひらがやさしく髪を梳いてくれた。温度のない涙が肌に流れていく。夢では花の匂いもわたしも頭痛も彼も皆、消えてしまった。眩しかった。光の中にいるように。
眩い光の中で
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