その洋館はナイフォークという霧に隠された土地に建っていた。
ほとんど廃屋に近いような、灯りをつけてもどこか薄暗い部屋のいくつか。曇り空しか拝めない温室、申し分なくいごこちのいい椅子とクッション。壁面にはびっしりと本が詰められ、浴室を除いたすべての部屋は天井近くまで積みあげられた夥しい数の古い紙や映画のフィルムに支配されていた。
実業家のような、犯罪者のような、そして時々は小説家のような、得体の知れない人──クロロが初めて私をここに連れてきた時、古文書狂いのコレクションを収めるのにはぴったりの場所だと、他人事のように思ったのを覚えている。自分もまたその中のひとつであるという自覚も持たないまま。
その日の午後からの雨が夜になってもしつこい底冷えを連れてきていた。温かい飲み物が欲しくてレモネードを作ろうとキッチンでナイフを握っていたとき、彼がこんこんと扉を叩く音に気づいた。私は大量のレモンから離れてドアを開けた。
クロロはいつも前触れなく、そして必ず深夜にやってくる。決してベルを鳴らさない。私が眠っていたりシャワーを浴びていたりしたらどうするのだろうと不思議に思うのだけれど、彼はどうしてかいつもタイミングよくやってきては、私をその静かな来訪に気づかせた。
「これから人でも殺すのか?」
暗い雨のそぼ降るなかで大げさに手を広げたクロロは、私が片手に持つナイフを見て笑った。黒髪から額を隠す包帯へ雫がしたたり落ちるのも気にせず冗談を言うところが彼らしいと思った。この辺りの土地は霧が多いけれど雨が降ることは滅多にないから、たまにしか来ない彼が今日この日に降られるなんて不運な人だとも思った。そのときクロロは分厚いラシャのロングコートを着ていたけれど、その裾からも水が落ちていた。冷え切っているはずなのに、彼はいつもより機嫌がよさそうだった。
「そのつもり」
笑顔を浮かべたけれど私の声はとてもかわいていて愛想がない。挨拶代わりに彼の胸へ頬をつけ、ナイフを持ったまま抱きしめる。雨に湿った唇で髪にキスされたのがわかった。彼の首元からは重い香水と、ここではないどこかの匂いがした。
温めたレモネードを飲みながらベッドの上で近況を話した。クロロが世界中から集めてきた膨大なコレクションを置いているこの家は、他の誰にも見つからないところにある。そういう霧なんだ、と彼は言った。だから私はここに来てからクロロ以外の誰ともことばを交わすことがなかった。必然、話の内容は私が読んだ本や観た映画の結末について、曖昧で主観的な感想を並べることにとどまる。
クロロはそのとりとめない話を、レモネードベースのカクテル──私がみつけたカクテル辞典に載っていたものを見よう見まねで作ったアーノルド・パーマー・スパイク──に少しずつ口をつけながら、ごく楽しそうに聞いていた。ときどきは私へ、自分自身すら気づいていなかった歪んだ部分へ差し込むような、きわどくて快い質問を投げかけながら。私は彼にそういうことをされるのが好きだった。この世でただひとりの恋人に理解を試みられているという実感があったから。
クロロは私の話を喜んで聞くけれど、自分の話はあまりしない。なぜかと問うと、お前のことを殺したくはないからだと冗談のように言われたことがある。それは決して冗談などではないと私は肌で知っていた。だから、彼がごく稀に話してくれるとても狭い範囲の個人的なエピソードのひとつひとつを、縋るようにいつまでも憶えていた。そういう話をする時のクロロは決まってとても疲れていた。
いつか彼の殺意を試そうとして家の外に出たことがある。
それは初めてここに連れてこられた日に禁じられていたことだった。私は彼のコレクションの一部で、それが彼の意思に反して手元を離れるなどあってはならなかったのに、その時まで私はまだ自分の主人は自分なのだと思っていた。
許可もなく近くの町に下り、広場の噴水のふちに腰掛けて果物をかじっていた。外の空気を吸いたくなっただけで遠くに行こうとしていた訳ではないから、いつ見つかってもよかった。一時間ほど経った頃だろうか、誰かが私の前に立った。濃い影が私の足下に落ちてからクロロだと分かった。もう捕まってしまったと鬼ごっこの鬼に触れられた子供のような気分で彼を見上げた。クロロは怒りも笑いもせず、無言のまま片手に奇妙な本を広げ、説明のつかない力でもって私をこの家へ連れ戻した。そして勝手に霧の中の家から離れた理由をひと通り聞き出した後、オレも出来ればこういうことはしたくないんだが、とつぶやいてから、誰かに電話をかけた。
数時間後、黒服の小男が家のベルを鳴らした。クロロはフェイタンと名乗ったその人から拷問についての講義をするようにと頼み、私をそこに同席させた。教師である彼は居間のソファーに座る私たち二人の前に立ち、模型と刃物とたとえ話によって人間の腕一本から最大限の苦痛を効率的に引き出す方法を詳細に伝えてくれた。私はこのグロテスクで退屈な時間を、外出の禁を破った事へのささやかな罰、やさしい脅迫として与えられたのだと考えながらノートを取った。
長い講義を終えてフェイタンが帰り支度を始めたのは夜も更けた頃だったから、泊まっていかれないのとクロロに聞けば、泊まらないさと微笑まれた。
それからクロロは浴室にいくつかの調理器具を持っていき、いつもの声で私を呼んで扉を閉めた。そして正しく教えられた通りの方法で、丁寧に時間をかけて私を傷めつけた。そのとき受けた傷によって左手が言うことをきかなくなってから一年が経つ。
傷の深度はところどころ違っていて、かたちは醜く、複雑な深い赤と白と葡萄茶のまだらによって構成されていた。彼はこの傷を画家が描くように計算してつけたのだった。私はその傷を愛おしんだ。
それ以来、拷問や痛みについて書かれた本を読む時、より深くその表現に自分自身の経験をなじませることができるようになった。今読んでいる小説にも人が傷つけられるシーンがある。そのやり方はあなたが私を傷つけた時の手順によく似ていて、だからきれいな体だった頃よりもずっとその物語を面白く読むことができる。あなたのおかげで。皮肉ではなかった。そうクロロに伝えると、彼は珍しく大笑いして、それならお前にその傷をつけた甲斐があったよ、と私の髪を撫でてくれた。それから私たちはまぐわった。
キスをしたときレモンの匂いがした。それは翌朝になって彼がいなくなったベッドにさす灰色の陽光の中でも香っていた。
クロロは一晩でここを去ってしまった。寂しいというのはあまり美しい感情だと思わないのだけれど、私はそれを寂しいと感じた。もう一度ここを離れようとすれば、彼はまた私を捕まえてくれるだろうか?もしもそうなれば今度はどこに醜い傷をつけるつもりなのだろう。全身が傷で埋め尽くされ、本すら読むことができなくなったら、声すら奪われてしまったら、彼は私を殺してしまうだろうか。そうしたいわけではないのに、そんなことばかり考えていた。
つまるところ私は、彼が真実自分を愛しているかどうかを確かめたかったのだと思う。
そのために再びここを離れるという考えは魅力的だったし、実際に何度も計画し試してみようとしたけれど、それはいつも夜毎に彼を待つあいだの暇つぶしに終わってしまった。
醜く爛れたまだら模様という所有の証を与えられ、機能を失った左腕に触れる。窓に広がる闇の向こうから小さなノックの音がしないかと耳をそばだてる。灰色の太陽が隠れてまたひとつの新しい夜が始まると同時に、たったひとりの客人を待つ。
私がまだ知ることを許されていない彼、この傷のように計算され、純粋で、美しく、そしてきっと醜いクロロの内面のすべてをいつか知り尽くしてみたいと、叶わない願いを抱きながら。
夜はいつも彼のように醜い
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