閉じていた目をゆっくりと開いた。薄い涙の膜が、飾られた白蘭やテーブルに置かれた男の腕時計、クリスタルのグラス、そのほか目に映るものをきらめかせていた。
曇天がホテルの室にやわらかく無表情な光を与えている。お互い裸のままでベッドにうずもれながら、パリストンはナマエを後ろから抱きしめて、かすかな汗と香水が交じった髪の匂いをかいでいた。首につけたネックレスの留金を指でなぞり、なめらかな背中やくびれた腰をゆっくりと撫でた。どことなく愛犬にそうするように。事が終わった後の安らかな時間にナマエは眠ってしまいそうだった。けれど今は眠れない。最低の敵であり、最悪の標的が自分の体を抱いているから。
「ねえナマエさん、第一胸椎のちょっと上に小さい黒子がありますよ。知ってました?」
「へえ。知りませんでした」
パリストンが事後に言うことはいつもつまらなくて意味がない。だからナマエはほとんど返事をしない。ただこのとき彼女は前日深夜まで仕事をしていたので、その皺寄せのために眠くてたまらなかったからつい応えてしまった。これできっと彼は調子に乗っただろうと思っていると、前触れなくパリストンの手が自分の乳房を包むように置かれた。それは寒がりな自分の肌と違って温かく湿っていた。男性にしては長くほっそりとしたパリストンの手のひらに自分の手のひらを重ね、肌に押しつけて片方の乳房を温める。小さくため息をついた。
パリストンを追い出して、このまま柔らかいしとねで十時間ほど眠ってしまえたら幸福なのにと思う。ナマエの機微を捉えたパリストンがからかうように囁いた。
「今、ボクを追い出して寝ていたいと思ったでしょ?」
「思いました」
「あははは。キミには矛盾が無いから好きです」
「矛盾は誰にでもありますよ」
「いいえキミは少し違います。スパイの癖に標的と寝て、そのくせボクから何一つ聞き出そうとしないんだ。どうしてか正攻法で追ってくる。ハニートラップなんて古典的だなァ、と思いながら寝てみたらあなたの変人っぷりには驚きましたよ。ただただボクの肉体が気に入っただけなんて。まったくミザイストムさんに知れたら彼なんて言うでしょうね?お笑い草ですよ。これほど仕事と情欲に白黒つけるという無駄な技術、どこで身につけたんですか?大抵の女性は……普通の女性は、少し揺さぶりをかければ義務と情などすぐに混じりあわせてしまうものなんですが。あなたは半年経ってもボクに思惑ひとつ──恋心ひとつ見せてくれない」
「話すのをやめてくれませんか。あと八分眠れるので」
「W副会長Wを嗅ぎ回っている時のあなたと、ボクとキスしてる時のあなたは、同じ顔をした別人みたいなんですよ。ボクと寝るのは仕事のためじゃ無い。ボクを心の底から愛してるんでしょ?だから仕事抜きで寝る。そこには矛盾がない。だから好きなんです」
「正確には、あなたとの性行為を愛してる」
「他には?」
「魂以外は全て愛してる」
それくらい気に入ってもらえてたらまあ良いかなァ、とパリストンは言った。ナマエは彼の饒舌を浴びていると混沌とした夢の中にいるような気分になってしまいそうだった。そしてパリストンは中身のない言葉をつないでナマエを眠らせてしまうつもりなのだ。その人となりを知っているから苛立つことはなかったけれど、鬱陶しいとだけ思った。
時計の針は定刻を指していた。もうすぐに着替えて会社へ向かわなければならない。四十分後には社長との約束が控えている。ナマエは全力を振り絞って起き上がり、未だ温かなシーツの中へ自らを留めようとするパリストンの手を払いのけ、ベッドから降りた。哀れみを誘うように男は言った。
「ねえ、ナマエさん、本当にもう行っちゃうんですか?」
パリストンは彼女がソファーに置いた服を拾い集めて一つずつ身につけていくのを、頬杖をついて眺めながら言った。淡く繊細なグレーのレースでできたショーツとセットのブラジャー、太腿までのストッキング、それをとめるガーター、シンプルなキャミソール、黒いスカート。最後に勤め先のロゴが入ったワイシャツに袖を通す。
そしてナマエは鏡の前でやや乱れた髪と化粧を直し、パリストンに痣や噛み跡のような噂の火種をつけられていないかチェックし終えると、シャルルサーチの華奢なパンプスにそっと足を入れた。
「四時には幹部会ですから、またすぐ会うじゃないですか」
「幹部会なんて仕事じゃありませんか。ボクは恋人として……」
「私たち恋人ではありません。ではまた後で」
「キスは?」
パリストンは甘えるようなねだるような子供の声で言った。ナマエは振り向かないまま廊下を進み、ホテルの扉から一歩踏み出して、細く黒いヒールを深い絨毯に沈めた。白い廊下は室よりも明るくて少し眩しい。目をしばたたかせる。
華奢な靴も繊細なランジェリーも、髪や肌、爪や体を磨き抜くことも、ハニートラップのためではなく個人的な趣味だった。職業柄かこの事実を心底から信じる人はなかなかいないのだけれど。幸いな事にパリストンはそのうちの一人だった。
色仕掛けは信条に反するから、ナマエは単に魅力的なW肉体Wだと感じたパリストンとの交わりを、ただ混ぜもののない悦楽の為だけに行っているつもりだった。しかし例えばこれから会う社長にこの感覚の理解を求めるのは不可能だろう。この世で最も尊敬している彼は、ナマエが女しかもたない武器を使ってパリストン=ヒルを籠絡したと思っている。その考えは覆しがたい。この情事は仕事ではなくただの趣味でしかないのだと、あの人に伝えられればいいのにと思う。尊敬は愛より深いものだから。
エレベーターはいつまでも来なかった。目を閉じて銀の扉が開くのを待った。再び目を開いたとき、ナマエの頭の中は仕事で一杯だった。
ホテルを出たら雨が降っていた。乗り込んだタクシーの窓から空を眺めていたら、穏やかだった曇り空が急に風を帯びはじめ、会社に着いた頃には天気雨になり、タクシーから出たナマエの髪とスーツの肩を濡らした。降りるときヒールの脚を少しひねってしまった。眉を顰めて胸ポケットから出したカードキーを会社のビルの扉に当て、続けて複数箇所のゲートに当て、指紋認証と虹彩認証を終え、社長室の重い扉を開く。
中では約束通りミザイストムが待っていた。彼はナマエの挨拶にねぎらいの言葉を返しながらパリストン=ヒルの今週の動静を詳細にまとめた資料を受け取った。ひとつは電子記録媒体、ひとつはすべてのデータのうち特筆すべき事項をまとめた紙媒体だった。ミザイストムは紙の方をめくりながら、ナマエが大好きな優しく低い声で言った。
「素晴らしいな。まだ検証は必要だが……検挙の柱になるような情報だよ。チェックが終わったらすぐ審議に回そう。キミが担当になって半年だったか。あの男の追跡には大抵の奴が音を上げるんだが」
ミザイストムは資料からふいに目を上げてナマエの姿を見つめてから黙りこみ、礼儀正しく視線をはずした。見てはいけないものでも見るかのように。彼女には彼が何を考えているのかがわかるような気がした。
協会本部へ向かうため、今度はナマエとミザイストムの二人でタクシーに乗り込んだ。灰色のベルトが肌に冷ややかで、パリストンの指の温もりを思い出す。彼はこの雨で濡れただろうかと思いながら窓の外を眺めた。
パリストン=ヒルは雨に汚れたものを着て壇上に立つくらいなら、背広ごと替えるだろう。そして濡れていた方が見る人の同情を買うことができ、それが必要な場面だと判じれば、ごく自然にブラウンのヘリンボーンの肩から胸までを濡らしてくるだろう。彼は有能なエンターテイナーであり、いたいけなゲームのユーザーであり、狡猾な支配者だった。彼はそのうちのどの顔をいつでも見せることができた。
けれど今日はただの幹部会の定例報告会議、しかも参加自由のものだから、誰に憐みを乞う理由もない。彼はつい数時間前に脱いだものと同じスーツに、雨一粒しみもつけずに現れるはずだった。ナマエは上司と議題の確認をして、広く冷房の行きとどいた会議室へ入り、ミザイストムの隣席で完璧な彼を待った。
「やぁ、皆さん、お待たせしました。ちょっと前の用事が押しちゃいまして!じゃー早速始めましょうか」
台詞に反し悠々と入ってきたパリストンの姿を見て、ナマエは目を疑った。彼のスーツも髪も雨に降られていた。そんな事は何ひとつ問題ではないと言いたげに。そしてここにいる大多数の人にとっては、彼がそういう格好で来たとしても実際、何の問題も違和も感じない。ただナマエは自分の予想が外れた──獲物の行動をつかみきれなかった──そこに賞金首ハンターとしての屈辱を感じた。
その後、彼は盤上のゲームを楽しむように定例報告会の結論を自分好みの方角に導いた。すずやかに他者を愚弄しながら、いつも通り折り目正しく完璧な進行役を果たしたのだ。雨に濡れた姿で。
今後の協会について下らない問題を侃侃諤諤つつきまわしたがる連中をよそに、パリストンは壇上からミザイストムの横に座るナマエを見下ろした。
自分は今この女がどんな下着を身につけているか知っている、と彼は思った。世界で最も忠誠を誓ったと言った社の紋章が入ったシャツを、どれほど無造作に脱ぎ落とすか知っている。
虹彩がつくる光と陰のありさまも、体の線淵も肌の質感も、性器のかたちも声を殺す癖も、黒子の位置も分かりきっている。そして、もちろん相手もそのはずだった。ナマエはたったひとつの意味で自分の殆どすべてを知り尽くしていると形容してもいい人間だった。
そんな女から肉体の記憶より他の秘密の一切を護り切り、虚実入り交ぜた無意味な情報を餌のように与えるというのは当然の選択のはずだったが、長い雨を連れてきた低気圧のせいか、パリストンにとって今だけはそれが奇妙な行いに思えた。
今日の午後もまだ浅い頃、全裸の彼女がひとつだけ身につけたネックレスの小さなトップが暈けた光を映してきらめいたのを、何ということもなく思す。
ナマエはパリストンから贈られるアクセサリーや花束や靴は主人が犬から受ける自然さで取り、パリストンが関与する事故や事件についての情報は猟犬じみた殺意でもって追求する。
それを理解してからだった。彼女を興味深いと思った。そして寝るのなら愛する人より興味深い人の方がいいとも思っていた。一度愛してしまえば壊してしまいたくなるし、彼女は卵の薄殻のように簡単に壊れてしまう。だから愛ではなくて良かった。そうでない方が良かったはずだった。しかしいま関係は変わろうとしていた。流れ落ちる水のように、抗いがたく、そしてごく自然に。
──触れただけで壊れる儚いモノでも、自分は彼女を愛せるだろうか。
パリストンは指の間でペンをもてあそびながらその問をもてあそんだ。きっとそうなるはずだ。気に入っているのは確かだ。今日わざと雨に濡れてきたのも彼女の逆鱗に軽くふれるためだった。もっと彼女が自分に執着してくれたならと願い始めている。もう既に、忠誠と情愛の境界線を踏み躙った時の彼女の顔が見たくなってきている。かわいい笑顔より愛憎のこもる目で見つめられたくなっている。壊してみたい。自問自答は終わった。
パリストンはナマエへ不躾なほど輝く微笑を投げ、それが流し目で殺されるのを愉しんだ。会議が終わり、ナマエとパリストンは別々の方向へ歩き出した。彼女はミザイストムの下へ、彼は執務室へ、お互いが在るべき場所へ向かうために。
午後からの明るい雨はまだ降り続き、いつまでも止む気配を見せなかった。
キマイラは沈黙する
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