一篇の小説が人生を左右し得るならこれがその作品だとナマエは思った。小さな文庫本の表紙をやさしく閉じてバッグにしまってから腕時計に目をやる。約束の時間は過ぎていた。背後の窓からちらほらと人々が出てくるのが見下ろせた。今から一時間前、彼と同じ会議に出た面子が数人この建物から去るのを見た。そして彼はナマエがそれを見たと知りながら自分が約束に遅れたのは会議が長引いたからだと言い訳するはずだった。あの人らしい、ささやかな嫌がらせだと思った。


「お待たせ!前の会議が長引いちゃって。すみませんでした!」
「予約の時間にはいいです。行きましょうか」

表向きはアフタヌーンティーという同じ趣味を持つもの同士として、本当は協専に属するものとその二番目に位置するリーダーとしてメンバーとの絆を深めるため。それがしばしば二人きりで──多くはホテルで供される優雅な午餐をともにする理由だった。

しかし会話はいつもパリストンから雨のように嫌味を降らせられるだけだった。朗らかにほほえみながら努めてナマエを傷つけようとする彼が自分に憎まれたがっていることを彼女はよく知っていた。だから自らは決して憎むことがないようにと能力の中に感情を閉じた。そういう能力を持っていた人間だったから、とめどない彼の話を聴くのは苦にならなかった。しかしそのからくりを知らないパリストンはいつまでも靡かないひとを口説くようにナマエを誘い続け、彼女はそれを可笑しがり、あまつさえ可愛らしいと思っていた。

スコーンを頬張ったとき唇についたクリームをパリストンの健康そのもののような舌がなぞる。ナマエはホテルの柔らかなソファーで落ち着いたティー・レングス・ドレスを身につけ、クラシックなティーセットがたたえる紅茶を口に含みながら、向かいに座る彼が美しい容姿と魅力的な所作を持つ人だという事実を、意味をもたない小さな石のかたちを手のひらで確かめるように、あらゆる温度を持とうとしないまま、ただ感じていた。

「ボクを待つ間、また読書してたんですか?」
「ええ」
「今度はずいぶん長大なシリーズに手をつける予定らしいですけど、本当ですか?」
「……嗅ぎ回るのはやめてくれませんか」
「え?嫌だなァ、嗅ぎ回ったりしてませんよ」
「どうしてご存知なんです」
「当然ながらキミの全てを把握したいですから」
「それを嗅ぎ回ると言うのです」
「んーと。しかしキミは今や大切なボクの秘蔵っ子なのですからね。動向を把握するなと言うのは無理な相談です。全くのところ無意味な読書だとかいうキミの美的な暇つぶしにはいささかうんざりしてるんですが。協専のメンバーとしてこれからも名を連ねる気がおありなら、愚にもつかない読書の時間を割いて、ボスの期待に応えるだけの働きをしてほしいものです」
「来月にご報告できることはいくつかあります」
「へえ?いやァ、いつだって賽の目が出てからしか数字を言わないキミがそうはっきり言い切るなんて驚きだなあ。ちょっと興味をそそられますね。一体何のことなんだろう?ピヨンさん主導のプロジェクトの方が好調なんですか?」
「秘密です。公共の場ですから」
「おやおや。キミはボクにそんな態度を取れるようなご身分ですか。パトロンのボクが質問したのですよ?機密に触れない範囲での簡単な報告すらできないようでは、そっちは難航中とみていいでしょうか。そうなんでしょう?まあ、あの仕事はキミの能力じゃあちょっと荷が重いとは思ってたんですよ。そこは期待通りうまくいかなかったんですね?そうですか?」
「来月の活動報告書に全て書きますよ。楽しみになさってください。あなたのご期待には応えたいですから」

パリストンが話している間に、ナマエは最上段のケーキが含む季節の果物の香りを味わった。そして口直しの一杯をソーサーに置き、お茶の相手に別れの挨拶をして立ち上がった。
ホテルの広窓のむこうには明るく曇った空が続いている。花椿の季節だった。ひとりで庭園に充ちる匂いを楽しみながら帰途につきたいと思ったけれど、当然のごとくパリストンも立ち上がり、ナマエの隣を離れずについてきた。彼はまるで上品な見た目の割に誰彼かまわずけたたましく騒ぎ立てる犬のようだった。しかしだからといって並んで歩くのは少しも不愉快ではない。
彼女は彼の声が好きだった。歪んだ性が好きだった。無駄だということを知らないままつとめてナマエの弱点に刺しこもうと策を弄する姿が好きだった。ナマエはそう感じながら相槌を打った。

花々の気配の中で他に人もない庭園を二人はただそぞろ歩いていた。ナマエは常々こう思った。──本当はこの人に求められ、私も彼を求めていて、お互いに深く受け入れる、そういうやりとりをしてみたい。そういう関係であればいいのに。けれど彼女はそれを口にしないだけの抑制と臆病とを持ち合わせていた。それが不可能なのだという事実を受け入れる分別も。その日の午後は彼とつつがなく別れた。


後日、ナマエはバーガンディのカバーに包まれた文庫本を、執務室のテーブルにそっと置いた。机で仕事をしていたパリストンは彼女の急な来訪とその行いを、手を組んだまま無言のうちに眺めた。彼女の次の言葉を待った。そして出逢ってから今まで初めての冗舌をみせたナマエがひとつの感情に乏しいトーンを保ちながら、静かに出会った頃から持っていた秘密をパリストンへ告げようとするのを待った。気は長い方だ。だから彼女がずいぶん長い間黙っていてもそれほど面倒だとも感じなかった。


「──あなたは私にあなたを愛させたがったでしょう。その上で憎まれたがったのでしょう。お気づきでなかったでしょうけれど、あなたの望みは叶えられていました。だから私はすべてをこの本の中に閉じました。それが私の能力の一つなのです。これは今まで抑えてきたあなたへの印象の物語です。今まで私が何をあなたに伝えて伝えなかったのか、これを読めばわかります」

パリストンは文庫本に一瞥をくれただけで触れようとしなかった。そしていつもの笑みをたたえたままナマエを見上げた。

「あー……ボクそんなもの読むほど暇じゃないんですよね。文芸作品にも最低限の教養以外の興味はありませんし……況してやあなたの個人的な感情しか書かれていない私小説など不要です。どうぞお持ち帰り下さい」

ナマエは微笑で男をとらえた。その目には怒りも落胆も無く、ただ薄く暈され、それゆえに永く培われてきた情のようなものがわずかに漂っていた。それはパリストンにとってある種の屈辱だった。
具現化されて机上に在るこの凝った装丁の一冊は、玩具と能力を使い潰すためのつもりで近づいたこの女に自分の磨き抜いた手練手管が僅かにも通じなかったことの証明だった。ナマエはそれを知りながら、心の底に澱のような愛を沈めたままパリストンの相手をしていたのだ。勝ちが見えていたはずのゲームに負けていた。美的な暇つぶしという当てこすりが今度は自分に返ってきていた。

小さな本をそのままにしてナマエは振り向き、扉へと歩き始めた。揺れた髪から微かに椿の匂いがした。パリストンは苛立った。彼は室に誰もいなくなる前に本革の椅子から鈍臭と立ち上がった。そんな自分に当惑しながら立ち尽くしたままその一冊を齎したナマエを見つめた。それ以上にできることはなかった。することすら思いつかなかった。彼女が自らの元を去り、今まで見せていたなけなしの忠誠をこのくだらない本と共に置き去っていこうとしている現実だけが眼前にあった。常のように人というのはそういうものだと一蹴することが、できなかった。

「さよなら、パリストンさん」

あなたを愛していたけれど、憎んだことなど一度も無かった。だから私は勝ったのだった。その本を読んでくれたら分かると、声に出さないままナマエは思った。種明かしはしなかった。その方が、きっと、本を読まない彼にとって残酷だと感じたからだ。けれどその中では暗愚な恋を語っていた。そして醜いかたちであれども彼の計画を称賛していた。彼との午餐を好んでいた。けれどなぜナマエがビヨンド=ネテロの野望とパリストン=ヒルの懸想を離れるのか、読者の誰にも分からない。誰も読まない本だから。

ナマエは縋るための涙も押しつけがましい感傷も惨めなかけひきも知らなかったから彼の元を去るより他に無かった。だからパリストンとは違う小径へ進んだ。別のつながりの中の、別の光の方へ。準備はできていた。その背中はもはや様々な枝葉に隠されて見えなかった。


パリストンは机上の本を手に取ってしばらく眺めた後、デリカテッセンの紙袋できつく包み、ダストボックスの底へ大切なものをしまいこむように棄てた。
駒をひとつ落とした。女は去った。それだけの事だった筈なのに、それ以上の何かが致命的に失われていた。パリストンはいつものようにその感情を飼い慣らすことができなかった。それは常人に殺意と名づけられる感情だった。もし今から出て行ったばかりの女を追いかけて殺したならナマエはあの抑制された表情より別の顔を見せるのだろうか。
パリストンは笑顔を忘れたまま必要な書類に赤い承認印を捺した。そのインクは血液に似ていた。殺したかったと思った。けれど彼がした事は印を捺した。それだけだった。

殺す程の女だった

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