「あ、これだけしか遣ってないの」

あなたは疑問符をつけなかった。わたしは黙って頷く。これだけと言われても今月は珍しい品を迎えたから、遣い込みした方だった。そう伝えてもあなたはよくわからないと言いたげに首を傾げる。黒髪がわずかに揺れた。
「蝶の一つ二つくらいしか買ってないじゃない。もっと欲しいもの、ないの」
わたしは手のひらをくるんで爪を押し付けた。半月のかたちをした痛みが皮膚をはしる。欲しいものといえば本当は靴が欲しかった。一足も持っていなかったから。理想なのはシンプルで特徴のない、けれどしっかりしたつくりのハイヒール。それを履いて街に出たかった。けれどあなたはそんな求めを知らない。わたしが教えようとしないから。そして教えたところで、あなたはそれを絶対に許さないから。

「お前はつくづくオレのためにあるような人間だよね」
「……あなたには、そういうひとが沢山いますね」
コーヒーの準備をしながらつぶやいた。
「どういう意味?」リビングの椅子にかけていたあなたがこちらを向く。見なくても、少し眉間にしわが寄っているのがわかる。
「執事のことです。あなたのためにある人達」
ああそう、そうだね。携帯をいじるあなたのもとへコーヒーを持って行くと、他に女がいるって意味かと思った、と言われた。だからなんなのだろう。それが、どうしてご機嫌を損ねることになるのだろう。そうだとしても私は嫉妬すらできないのに。
あなたはトレイからコバルトブルーの蝶が描かれたカップとソーサーを受け取ってテーブルに置くけれど、そのときは全く音がしない。まるでやわらかなマットレスにぬいぐるみを寝かせるときのように。私は自分のカップをそっと置いてみたけれど、かすかに震える磁器は当然に小さな硬い音をたてた。


部屋中にとりつけられた無数の蝶や蛾を眺めながら──もしかしたら眺められながら──するセックスはいつも曖昧に始まって、少し痛んだ。あなたは死んだ蝶目たちを気に留めないし、生きた芋虫たちをなんとも思わない。こんなわたしを気持ち悪がらずにそばに置くなんて、つくづくあなたはわたしのためにあるような方ですよね。心でだけそう呼びかけながらそっとあなたの顔を見上げた。
「……集中しなよ」
「はい」
短くやさしい命令にじっとりと汗が滲む。体が揺らされるのにまかせて目を閉じる。本能がわたしを侵した肉を絞める。あなたの言葉はいつも怖いけれど、怖いから好きだった。


あなたを愛しているかと考えれば、悪夢の中の長いらせん階段を降りるように果てしなく、答えは出ないままになる。
わたしはもともと執事候補生になるはずだったのだけれど、入学式の前日に寮の部屋からあなたの部屋に呼び出され、ここへ連れてこられた。初めはご家族のお目に留まったのだと、怖さ半分いやらしい嬉しさ半分の心でその望みに応えようとした。
あなたがわたしに下した命令は三つだけだった。一つ、決してここから出ないこと。二つ、セックスを拒まないこと。三つ、名前ではなくWあなたWと呼ぶこと。

──恋愛したい訳じゃないし、ましてや妻として扱うつもりは全くない。ただここにいればいい。金で手に入るものでこの部屋に置ける物品なら買ってあげる。そしてこの三つを守れたら、生きててもいいよ。

そうしてこの暮らしは始まった。わたしは数ヶ月ほどあなたに恋した時期もあったけれど、あなたのなかには体をもたない殻のようなわたししかいなくて、初日に話された通り、恋人とも、細君とも、性処理具とも、執事とすらも、思っていないようだった。気まぐれにキスをして、気まぐれに突き離した。根拠も名前も無い関係はわたしをひどく不安にさせた。
どこかへ一緒に出かけることもなく、わたしを知ろうとするでもなく、ただ蝶と本のコレクションばかりが増えていく部屋をどこか満足げに見回して、たまに黒蟻のように小さくて無害な愚痴をこぼしてから、夜が来る前に情のないまぐわいをして姿を消す。あなたがすることといえば、それだけだった。


あなたがいなくなって薄闇がわたしの輪郭を失くしてしまうまでは、灯りをつけなかった。あなたにとってわたしは何なのだろう。どうして結婚してもいないのに、ご家族もご友人も一人だってわたしのことを知らないのに、あなたを名前ではなくWあなたWなどと夫らしく呼ばせるのだろう。きっと、遊んでいらっしゃるのだ。わたしにはそうしてあたりをつけることしかできない。その疑問はこれまでもきっとこれからも消えない。答えを聞いてしまうのが怖いから。聞いて、壊れてしまうのが怖いから。それでもわたしはあなたをイルミ様と呼びたかった。その美しい名前はモルフォのように彼の内で輝いている。どうしてあなたはそれを、わたしには、わたしだけには、触れさせてくれないのだろう。


この無音の日々が始まってから数年が経っていた。わたしはいつか目眩と頭痛と焦げるような孤独に悩まされるようになっていた。五ヶ月いなくなったあと二週間ここにいるような、不定期で前ぶれのないあなたの訪問は、その痛みの波を高くして長引かせた。ただ意味のない読書、他の──わたしより遥かにこれを必要としているかもしれない──コレクターから奪って作りあげた素晴らしいコレクション。全てが整い、欲しいものは掌中にあり、恋人に似た主人にはまだ求められていた。それなのにわたしはどうしてか、一日一日に倦んでいた。


完全空調を無視して、ゆっくりと窓を開けた。あなたにしか繋がらないはずだった扉は怖くて開けられなかったから。違う、中身がわからないプレゼントの箱を開けるのをためらうのと、同じようにためらったから。あなたは今ここにいない。それでもわたしは彼をあなたと呼ぶ。そう呼ぶようにと乞われた日から。
窓の外には沈黙する夜が広がっていた。四階から飛び降りて死ねるものかしらと思う。まあ、やってみたらわかるでしょう。ふと、ハイヒールを履いて死にたかったと思った。あれだけは求めても手に入らなかったものだから。でもそんなこと今更どうでもいい。シンプルで特徴のない、けれどしっかりしたつくりのハイヒールなんて、もう要らないから。もしもわたしにそんな靴を贈ってくれたなら、あなたと心から愛し合えたかもしれない。けれどあなたは決してそれを望まなかったでしょうね。殻というのは、わたしではなくあなただった。
さようなら、イルミ様。

蝶が壊れた部屋

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