懐かしい暴力の匂い。からだが凍りついて、頭の中は怖いくらいしんとしている。なのに総毛立つ。経験から滲みだす、もう逃げられないという諦め。目線の先には磨き上げられた彼の靴の爪先がある。見上げることができなかった。

「やあ。久しぶりだね、ナマエ」

明るく降る声に呆れるほど私の肩は跳ねた。どうして本部にいるはずのこの人がここにいるのだろう、今頃は会長と昼食をともにしているはずなのに。どうしてこの人の声はいつもこんなに完璧なのだろう。ちがう、この人そのものが完璧なのだ。

──仕立てのいい服ですね。よく似合います。昔からキミには白、白だけが似合っていた。その辺の白じゃありません。そもそもの成り立ちから品の良い白です。たとえば血が垂れたとき美しく映えるような。だからそれ以外の色を着て欲しく無いとよく思ったものです。キミは僕の顔色を窺って、僕が選ぶものばかり着ていた。昨日のことみたいだ。こんな思い出話、今さらしても仕方ないんですけど。……でもこうして久しぶりに師匠と弟子としてお話ししているんですから、ねえ。

「顔くらい見ましょうよ」

やさしい声で彼を見ることが許された。見上げる。何年も経っているのに、髪型とかっちりした服装以外は何も変わっていない。私はと言えば、髪の長さと背丈が変わった。

「……先生……」
「すっかり大人になりましたねえ」

肩に手が置かれる。首の後ろをくすぐるようにゆっくりと、髪のなかにまで来た指が這う。その大きさと温かさに吐き気がする。それが発する力に馴れていた時期のことを思い出す。彼が総てだった時期のことを。

「私は……もう……先生は……先生とは……」
「僕とは、何?」
「……」
「指を折った時のことを覚えてます?」

唾をのんだ。何度も深く頷いてから頷くのはこの人が嫌った仕草だということを思い出す。馬鹿、と内心で声がひびく。──覚えています。指を砕かれて、痛かったことを覚えています……それどころか……あなたは今でも毎晩私の夢にいて、その笑顔でからだとこころを嬲ります。私はあなたを忘れられません。一日も忘れたことはありません。先生は私を壊しました。今はもう、割れて、割れたものの、かけらとして生きているようです。だからもう先生には要らないものです。そうではありませんか。

「ははあ。そういう媚態をとれるようになりましたか。やはりもう子供ではないのですね。好いですね。そういうの好きですよ。そんなかけら……つまりは廃棄物が婚約とはじつにおめでたいことです。僕からの婚約祝いを見ましたか?」
「いいえ」

ふうん。彼は私の首から肩、腕から手へとその指をなぞらせて、私がしていた指輪を左手からやさしく引き抜いた。そうして、曇空に光るそれを眺めまわしてから、なにげない仕草で空いた窓へ放って棄てた。
それから私をどう罰するか考えているときのように、昔そうだったように、唇に指を当てて微笑しながら私を見つめていた。動くことすらできなかった。私は今ある幸福の象徴を守ろうとすることができなかった。もっと言うならそういうもの、先生と離れてから血が滲むような必死さで手に入れた愛するひとたち、なかでも私を最も愛したひと、私に幸福を与えるものの全てを捨ててしまいたくなっていた。無惨に割れた皿のように、汚れた紙で包んで。けがれてしまった思い出のように。感じてしまっていた、世界で唯一、そして最も純粋な愛を与えてくれるのはこのひとだけだと。

「差出人が僕だったから捨てたんでしょ?」
「……」
「キミの愛する人の死に顔だったのに」
「……」
「こんなこと言われたところで惜しくも悲しくもないんでしょう。キミが芯から愛せる人間は僕をおいてこの世のどこにもいないと知っているから。僕がキミに全てを教え込んだとわかっているから。僕こそがキミの愛だから。ほら、そうでないなら出て行けばいいんです。けれど事実ならここへ来て、抱きしめさせてください。最後にお別れした日みたいに」

私はすぐに踏み出して、先生の腕の中にからだを預けた。良心と直感が私のなかで叫く声が聞こえた。迷いがなかったわけでは決してないのだけれど。間違っていると知りながらそうすることは涙をこみあげさせたけれど。でもためらいを見せてはいけない、そういう教えだったから。先生は私をきつく抱きしめてくれた。先生と別れていた日々のどの瞬間よりも幸福だった。


……先生と私は籍を入れた。でも二つ目の指輪は要らなかった。初経を迎えたとき、彼が私の左手の薬指を折り、ちょうど指輪をつけるところにナイフで歪な線を描いたのは、私が誰かと結婚したときに先生を思い出させるため、いいえ、先生以外の誰とも契れないようにするためだと知っていたから。それは誰も間に入れない、永遠の約束のように思えた。

光がいつも無惨であれば

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