恋をするには声ひとつで充分なのだと知りました。声ひとつでとわかるのは、逆光で彼の顔が見えなかったから。父はぞろぞろと入ってきた客人たちに、喜びを隠さないまま代わるがわる抱擁と握手をしてから、家族と使用人たちを紹介していきました。最後に、私について軽く触れたときだけ、父の声には僅かな憎しみのようなものが滲みました。



五人の客が我が家にやって来たのは雨季が終わる頃でした。八角形の広々としたロビーには、世界中から集めた希少な鉱石のタイルが貼り巡らされ、蒐集家が見れば歯ぎしりするほど珍しい植物と動物の剥製が並んでいます。
そこには私と父、継母、義兄、義姉、三人の使用人と料理人と医者が一堂に介していました。つまり十人もの人間がひしめいていたのです。広いホールにも人いきれがこもっています。
全員が揃った数分後──とげとげしい沈黙に満ちた数分間でした──客の来訪を報せるため番犬が戻ってきました。いつまでも私に懐かないその大きな犬は黒い艶のある尻尾を振るわせ、その動きは鞭を思い起こさせました。直後、最も年長の使用人に案内されてきた男たちが玄関を抜けてホールへ入ってきました。その先頭にいた彼は逆光の中で父に歩み寄り、こう言いました。

「久しぶりだな……五年になるか」
「六年だよ。ジン。待っていたよ」

父は応え、私は厳格な彼が涙しながら客人と抱擁するのを見ました。私は私で、あの声を聴いたために、いきなり殴りかかられた人のように呆然としていました。それでも前日に指示されていた通り、紹介を終えたあとは慇懃に礼をして逃げるように自室へ戻りました。

晩餐には同席しなかったから、その夜に何が語られたのかわからないままです。彼らがやってくるずっと前から入念に準備された料理に、あの人は満足したのかしらと思いました。自分に供されるのはいつも同じ療養食だから、私はただ母が口にしていたメニューについて想像をしました。
お酒のことはよく分からない。でも、春生まれのやわらかい仔牛肉。アントルメには庭で採れた桃のシャーベット。クリスタルのデキャンタに入った水にはレモンとシトラスが数滴、遠い海から削りとられてきた氷河。迎えた男たちの誰ひとり、そういう食事を特に好むような人たちには見えなかったけれど。
普段は他人の食べるものになんて興味を持ったりしないのに、あの人のことが気になったからそんな想像をしたのです。ジン。親しみと敬意を込めて父は彼を呼んだ。ラストネームを知りたくなりました。

五人分の汚れた靴と雨のような匂いを思い返しました。彼らはいつまでこの屋敷に滞在するのでしょう。父が泣いて肩を抱いたあのひとなら、父は数十年でも食客として迎えたいとすら思っているでしょう。でも私の秘密に気づかれれば、あのひとは父を許さないような気がした。それは、そうであってほしいというただの願いでした。

暗い部屋の中で鏡前に立ち、着ていたガウンをひらきます。デコルテから乳房を横切って、下腹から太ももまでびっしりと物語が彫られた肌を眺め、鏡文字に見えるそれを目でなぞった。背中から臀部にかけてまで同じように文章は続いています。私には後ろの文章がうまく読めません。だからこの物語の後半を知りません。
今まで幾人かの好事家が私を読みに来ました。
今度の男たちもそのためにここへ来たのかもしれない。ジン、という人は私を喜んで読むかもしれない。不思議なことに彼には読まれたくないと思いました。裸を見られたくないと。あの温かく強い声を持つ人にだけは。恋とはそういうものでしょうか、そもそもこれは恋なのでしょうか?本で読んだそれよりずっと苦々しい。ベッドに倒れ込んで目をつぶると、遠くにかすかな笑い声を聴きました。



ジンは客のなかでも際立ったひとりのようでした。彼を囲む人々の声色がそれを物語っていました。
対して装いは簡素でした。光の具合がどうかしたときには汚ならしいと思ってしまうようなくすんだターバン。粗い布の服。蒼い装飾布。それでもおおむね清潔に見えました。それらの服はこの特別な人にしっくりと馴染んで、似合っていた。
母が彼らのために用意した高級店の着替えを使うことはまずなく、彼らは使用人に靴下ひとつ任せず、自分の石鹸で洗濯をしていました。庭に干したその服が乾くまでの間、そのひとはプールで父や仲間たちと言葉を交わしながらごく楽しそうに泳いだり、何人かで話し込みながらビール瓶片手に芝生を横切っていったりしました。私はカーテンの隙間から時々わずかに見る彼の姿、彼の笑い声に、いま読んでいる本の中から抜き取った、快活や明朗という言葉をあてました。

その日の朝にノースリーブのワンピースを着たのは、たぶん彼を誘いたかったからでした。私は、自覚的に、普段着の中から最も女性らしいそれを選んだ。扉には鍵がかかっていて、自分には窓を開ける勇気すらなかったのに。庭から男たちの談笑がひびいて近づいてきます。壁の向こうにいるあの人を思いました。あの人に気づかれたいという欲が涙になって薄くまぶたに滲んでいくのがわかりました。
欲は大嫌いでした。気づいてほしい、助けてほしいという感情は、すべてを否定したくなってしまうから。自分ひとりだけが隔離されていること、外から鍵がかけられているこの部屋の暗がりを。
父と長く仲違いしていた母が死に、父はあからさまに冷酷になっていきました。新しい母と兄姉を迎えてからはさらに深く疎まれるようになりました。きっとそのうち殺されるとすら思っていた。父の残酷な声を聞けば、そうとわかりました。
それなのに、数年前のある日なんの説明もなく彫られたこの物語が、私を生きていて良い存在にしてくれたのです。



「病気には見えねーな」

刺青を入れた日の恐怖、機器がたてる叫喚、いつもと違って甘く宥める父の声、無意味に助けを求めたこと。窓の方を見たままテーブルに寄りかかってぼんやりとその思い出に耽っていたら、背後から急にあのひとの声がして、驚いて振り向きました。そこにいたのは彼ひとりでした。

「……病気?」
「お前の親父は神経衰弱って言ってたよ。んで、ナマエだったな。お前の全身にソシュール文明の神話の第三部が彫られてるってのは本当か?お前自身はそれを読めるのか?……なぜ彫ろうと思った?」

彼は一歩一歩進みながら私に質しました。私も退がっていくうちに壁へ背中がぶつかりました。彼は私を怯えさせないようにと思ってか、家の者に気づかれないためなのか、静かな声で話しました。たぶん、彼の靴先を見る私のつむじを見下ろしながら。

「安心しろよ。親父の許可は取ってある」
「……これは、神話だったんですね」
「ああ」
「読みますか」

私は襟口のボタンをひとつ外そうとしました。彼はその手首を即座に掴んで止め、有無を言わせない声で言いました。

「質問に答えろ」
「……そんな文明、知りません。でも文字は習いました。読めます。第三部なんて……読んでも訳がわからないはずですね」

私はなんだか笑いたくなってしまいました。その下らない神話は何部まであるのでしょう。どうしてこの人は、私が望んでこんな刺青を入れたと考えるのだろう。一体誰がすすんでこんな愚弄を受け入れると思うのでしょうか。

「自分から彫ろうと思ったのではありません」

私は掴まれていない方の手で彼の手をやさしく退けると、ボタンを二つ開けてデコルテを見せました。その時このジンという人の瞠った目に煌めいたのは、熱烈な好奇でした。小さな失望がひややかに胸へ下りました。

「読みたいなら、どうぞ」
「……今ここでお前からは読まねーよ。まずお前の親父を国際人権保持機構に突き出す。そっからお前がいいと言えば内容を書き写させて貰う。写しを頼むのは女になるだろうが」
「やめてください」

自分の声と体が震えているのを、どこかぼんやりと感じながら私はほとんど叫ぶような声を上げました。折角手に入れた生かされている意味を、むざむざ失うわけにはいきません。存在理由の前には恋心なんて軽いものです。彼に対する礼儀と、はじらいすら吹き飛びました。

「刺青を入れた時の見本は?それを読めばいいのに。もう無いのですか」
「無い。三部の原物は石板に記されてたが、宗教組織の小競り合いで粉々。レプリカはお前の親父が持ってるものが最後の一つだった。あいつはそれをお前に刻み込んで、その後燃やしたんだと。それだけでも懲役もんだよ」
「でも、父は簡単に連れて行かれたりしません。あの人は怖い人なんです。とても酷いことを迷わずにするんです。私が生きてるのはこの刺青があるからなんです。私は写しを許したりなんて絶対しません。あなたは、私からだけ読んでください。今ここで!」

そのひとは、取り乱してワンピースのボタンを震える手で開けようとした私の両手首を、分厚く温かい手で壁に留め、しばらくのあいだ逃れようとする私をただ見て黙っていた。そして力つき、うなだれて呼吸をする私に、言い含めるようにしてこう話しました。

「……んじゃお前は一生親父の言いなりか?アイツはただの人間だ。もう怯えんな。むしろ報復しようと思え。そっちのが健全だ。あんな本、読むくらいなら実際にやれ。オレも昔読んだよ。溶かした鉄呑ませるんだっけか?」

彼はテーブルの上に開かれたままだった本をちらりと見やり、笑ってそう言いました。ひどく獰猛な猫科を思わせるような凄みのある笑顔でした。

「さすがにオレも無料で写させろとは言わねーよ。お前が鉄を呑ませてる間、アイツを抑えててやる」



テーブルの上にあったあの本を、私は今でも肌身離さず持っています。
あのあと父は国際人権保持機構に身柄を拘束されました。彼は、私が二十歳を迎えるのを待ち、生きながら殺し、皮を剥ぎ、製本して、その一連の作業を撮影したデータと共に、あるコレクターへ売るつもりだったと供述しました。
私は巨額の慰謝料を手に入れました。ジンが来るまで暮らした屋敷は抵当に出されましたが、私が買い取りました。父の趣味ではあれどあらゆる技巧が凝らされたとても美しい建物でしたし、何よりも、ジン=フリークスと初めて会った場所でしたから。今は自分が暮らしていた一室を除き、文化財兼私設図書館として民間に開放しました。書棚にはジンとその仲間によって編纂され、出版されたソシュール文明神話の完全版が並びました。
全三巻のうち最後の巻は、私から写されたものでした。



数年後、ジンと私は紺碧の海を望む断崖を二人で歩いていました。
古代生物を宿したまま眠る琥珀を採るため、師匠であるクルーガー先生と、とある海岸近くの町へ赴いた時のことでした。そこにはたまたま(と彼は言いました)ジンが滞在していて、私は数日のあいだ彼と共に過ごしました。彼は一昨年前に私が優秀なジュエリー・ハンターの弟子になったことを知っていました。私たちは寂寞として美しい崖のふちをゆっくり散歩しながら、いつまでも尽きることない話をしました。そして私はつい先月、ある念能力者に依頼して、刺青を消したことを伝えました。

「そうか。どんな気分だ?」
「無くなっても、入れられた日のことを夢に見ます。でも減ってきています。それにクルーガー先生と会ってから、毎日思い出してる暇もなくて」
「そりゃ何よりだ」
「でも、喪失感みたいなものも一応あるんです。不思議ですよね。あれば苦しかったのに、無くしてみれば無い、と思うんです。だから、私を最後に読んだのがあなたで良かった」
「……写しを頼まれるとは思ってなかったな」
「あなたが初恋の人でしたから」
「知ってたよ。だから断った」
「でも引き受けてくれた。私はあなたが気にするって知っていたのに、わがままを言って。悪いことをしました」
「ま、鉄を呑ませるよか健全かもな」

日が沈む頃にようやく私たちは別れました。
彼に初めての恋をした人は誰も次の恋などできないような気がします。あのときジンが父に溶かした鉄を呑ませろと言ってくれたから、私は今ここに人として立っていられる。冴え冴えとした海風が冷たく髪に絡み、頬へ、服の中の肌にまで吹きつける感覚に陶然としました。
雑踏にまぎれ失われていく彼の後ろ姿を見つめながら、初めて会った日に恋をして、声を殺してカーテンの隙間から探した背中を思い出す。ソシュール語で愛にあたる言葉を唇でかたどった。これからも死ぬまで愛してる。そして何よりも感謝しています。わたしのノアルスイユ。

わたしのノアルスイユ

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