午後の光が射していた。ベッドサイドの円いガラステーブル。さりげなく置いてあったその雑誌を手に取ったのはどうしてだったのか、覚えていない。でも幾つか理由は考えつく。強い光が眩しかったから。ビジネス誌の下に隠れた表紙に写る女優の瞳がこちらを覗いているようだったから。あのひとが枕辺に置くにはあまりに下劣な週刊誌だったから。
めくってみた。軽い下級紙の重さが指にかかる。若い記者がハンター協会の汚職について、憶測とそれにもとづく中傷でしかない記事を書いていた。その匂い立つほど汗臭い文調から、彼が身勝手で無邪気な正義感に憑かれている典型的なナルシシストということがわかる。小さな見出しには『ハンター協会副会長と軍用備品会社の蜜月』。片面一ページのうち三分の一ほどしかないその記事。さらにその三分の一を占めているのが夫の粗い顔写真だった。不躾に撮られたであろう写真なのに、彼はいつもと変わらない優しいほほえみをたたえている。それを見た自分の顔がつられてほほえむのを感じた。少し笑いながら呟く。「ひどい言いがかり」
「やあ。キミもそう思う?」
振り向けば寝室の入り口に、普段よりずっと早く帰ってきた夫がいた。
静かに狂い咲く白いライラックを抜けて昇った小さな月がキッチンから見えた。そしてその下にいる、バルコニーのデッキチェアに身を預け、ひとつかふたつの携帯を弄る彼も。
薄いグラスに貰い物のビールを注ぐ。栄養のある旬の野菜と魚を使ったつまみを手早く皿に盛る。料理は好きだった。夫に食べて貰えるものを作るのがとても好きだった。彼は私がどんなものを出してもキミが作る料理は何よりも美味しいと言う。嘘に思えるほどの真剣さで。週刊誌に載っていたのと変わらない完璧なほほえみで。
できあがった料理を盆に乗せて持っていくと、ゆるい半麻のセットアップに着替えた夫は、両手に携帯を持ってそのうちひとつを熱心に弄りながら、組んだ足にスリッパを引っ掛けてゆらしていた。
「ありがとう、ナマエ」
「お仕事ですか」
「んー、そう。ですけど、もうやめる。それよりキミのグラスは?一緒に飲もうよ」
「これ」
「お茶でしょ?」
ジャスミンの香りがするそれは確かにお茶だった。私はとてもアルコールに弱くて、少し飲めば吐いてしまうし、飲み過ぎればブラックアウトしてしまう。だから専門店で美味しい茶葉を買って、お酒代わりの楽しみにする。それをあなたは知っているはずなのに。私は曖昧に首を傾げた。完璧なほほえみで彼は言う。
「お酒を飲みましょうよ、ねえ?」
アルコールとかすかな血の匂いの中で目を開いた。全身のいたるところから鈍い痛みが起き上がる気配がする。シーツの上で、私の手のひらを彼のそれが潰している。背後から激しく肉を突かれている。ぼんやりした頭のなかでこの連続する痛みは子どもの頃に受けた折檻に似ている、だとか思う。まともに受け止めるのは耐え難いから別のことを考えてみる。
──朝に来たメールを思い出す。良心があるのなら夫の不祥事について何か情報を提供してほしいと求め、このまま夫と反社会勢力の関係が続けば私の身に危険がおよぶ可能性もあるのだから、いつでも助けを求めていいという、親切な警告のような文面。律儀にも記名されていた。
ミザイストム=ナナ……この人はきっと正しい人なのだろうと、そのスペルをカーソルでなぞりながら思った。少なくとも、常に正しくあろうと努めている人だと思う。慇懃でいて断じるような言葉尻からはそういう傲慢が漂っていた。でも私は正しさに興味なかった。ただ無知の中で夫を愛していたいだけだった。その外側にある嘘や罪も含めて。
ミザイストムという人は、私の経歴が普通の人間のそれだったから、そして清廉だと勘違いしたから、このメールを送ることにしたのかしらと思った。そんな人間があのひとと番う訳ないのに。ゆっくりとまばたきして、少し迷ってからそのメールをクリックする。削除しますか。『はい』。ゴミ箱に捨てた。ゴミ箱を空にしますか。もう一度『はい』。メールは無かったことになった。そして最後にメールアドレスをブロックする。さよなら、とささやく。
ブロックしたところで、ハンターがしようと思えばどんなかたちの接触も叶うと知りながら。
暗闇はやわらかくて優しかった。ほとんど意識のない体を嬲られた痛みと、二日酔いの目眩が体中で喚いているみたいだった。力任せに握り締め、掻きむしられ、咬みつかれたところが夜目のなかに暗く沈んでいる。
何月の何日だっただろう。結婚したばかりの頃は私に触れることすらためらっていた彼が私にこんな触れ方をするようになったのは。はじまりがいつかは正確に覚えていないけれど、その日々は前触れもなく悪い冗談のように開始された。
痛みは苦手だった。でも彼に触れられるのはとても好きだから止めたりするつもりはなかった。髪を。皮膚を。肉を。ささやかな妻としての好意を、あの指とことばが少しずつ壊していこうとするのを。あまりの痛みに制止を求めれば求めるほど彼が喜ぶと悟ってから、更に抵抗することを選んだ。だから痣と傷は絶え間ない。一度つけられてしまった傷はあまり痛まない。私が耐えられなくなるまで彼は何度でも同じことを繰り返してよかった。そして耐えられなくなっても、彼は何度でも同じことを繰り返した。
いつも狂乱の時間が終わると、彼は昆虫のように温度がない眼でじっとこちらの反応と傷を見つめた。その後に必ずあの優しい眼差しを向けてほほえんでくれるから、私は心が温められたような気がして笑い返す。彼はおかしそうに首を傾げる。そして私のことを、夫をとても怖がっているのに無理をして笑っているかわいそうな女だと決めつける。でも違う。彼はまだ私の中にあるものが好意ではなく愛だということに気づいていない。
シーツの上へ光の筋が落ちた。
「おはよう」
スラックスにワイシャツを羽織っただけの彼が部屋に入ってきて、あの目で私を眺める。ぼんやりした私が起きようとするのを見て爽やかな笑い声を立てていた。いつのまにか冷えた肩を大きな温かい手が抱き寄せ、頬を寄せて何度もキスされる。ペットにするように、いつものように、くしゃくしゃと髪を撫でてくれる。
「ナマエは今日も可愛い」
私は足の指から耳のしたまで、顔以外のどこもひとつ残らず傷だらけだった。
「ちょっとトラブルがあったから、もう出るよ。起こしてすみません。じゃあ、おやすみ」
おやすみなさいと返事をする。そして決められた時間までただ眠る。時間が来たらまた同じ一日を始める。痛み以外は以前と何も変わらなかった。私の感情だけが変わっていった。夫にとってただひとりの特別な人間であるという孤独から、夫らしいやり方でていねいに愛されている人間であるという充足へ。
本当は全て知っている。週刊誌の若い記者が、親切なミザイストム=ナナが、世の中あるいは私に向かって、夫の動向に気をつけろと警告を発する理由を。そして正しい人々は知らない。壊されていくことの喜びと、間違った人から間違った幸福を享けることの安息を。夫が自分自身の影を隠しきれなくなるまでは、何もかも歪んだこの人に私だけが正しく愛されていたこと、それがとても寂しかったということを。
いつも人並みに愛されたかった
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