「止めて下さい」というのが十番目に覚えた言葉だったと思う。
初めて会った日、私達は校舎の白い壁に凭れながら一緒に林檎を食べていた。ジンはそれを聞いて「よく憶えてんな」と真剣に感心してみせた。私はきっと憐れみを求めてそうしたのに、それは検証不可能な嘘かもしれない(事実ではあるけれど、思い返してみても嘘らしい話だった)のに、彼は私を信じ、水の上を渡る風のように笑ってみせただけだった。私は彼の隣で林檎を齧った。その頃はおいしいということがよく分からなかった。でもその日から「止めてください」という言葉に、みずみずしく赤く丸く、少しだけ重みのある記憶が付随するようになった。

学校も家も、殴られたり、意地悪な子にからかわれたりするばかりで、漠然と楽しくないと思っていた。だから私は毎日のように近所にある遺跡保護施設に隠れて夕刻が来るのを待った。親からはどうしてか年齢に相応しくない程のこづかいを与えられていたから、私は教師と遺跡の警備員を買収し、洞窟のような迷路のような暗い遺跡の目立たない裂け目に隠れ、そこで宿題をしたり、ときには館内をふらつきながら展示物の石板にびっしりと刻まれた文字を覚えたり、自分の名前や挨拶や簡単な会話をするためのフレーズをいくつか話すようになった。
そこに書かれていることは全く謎だらけだった。そして私は謎を謎のままにして眺める事が好きだった。体や耳に憑いた痛みを忘れるため熱心にそれらを読み込んだ。終わりには石板を暗誦できてしまうまで。そんな事ばかりしているうちに、私は中校生になっていた。これまでの数年間の全てが親の知るところになり、こづかいは減らされ、私の素行を確かめるためだけにわざわざ人を雇われた。
教師と警備員を買収する事はできなくなった。けれど金を払えなくなったと伝えた後も警備員は親切なままだった。それどころか、ただで中に入れてくれさえした。
私が中校生活の中で好きになれたのは、灰色のジャケット、バーガンディのリボン、格子柄のミニスカート、ジャケットと同じ灰色の靴下、丈夫なつくりのローファーだけだった。雇われた名前も知らない男が、いつも背後からじっと私を見ていた。
両親を喜ばせるためだけに選んだ将来に倦み、手をつなぐだけで吐き気がする婚約者に媚びていた。私は昔なじみの石板や、信じ難いほど精巧な香油の瓶や、王と妃が手を繋いだまま共に眠る石櫃にだけ、心からほほえんだ。あなた達も愛し合っていなかったの?と内心で問いかけながら。

そしてある日、石櫃の前でジン=フリークスという男に出会った。
初めて人生の針路を変えた。父に殴られて鼓膜が破れ、母につかみ掛かられて肩に三日月型の小さな傷跡が幾つも残った。婚約者は私の愚かさを嘲笑した。私はその傷みや跡や記憶を愛した。父母との分かち難い繋がりと、それらからの解放を意味していたから。
広い家を出てジンの持ち家の一つを借り──小さくて快適な部屋だった──奨学金で大学に進み、ほとんど生まれて初めての友人を得て、沈黙の中に重い恋を抱えた。
そしてたったひとりのためだけに、非常に特殊で尖鋭的と呼ばれる種類の、ある石碑に刻まれた、ある時代のある世界を語る言語の解読についてまとまった文章を書き上げることにした。それはきわめて慎重に、私とともに在ったあの石碑に刻まれていた文章を深く読むという目的に沿って纏められた。私は食べるためにする仕事以外の全てを抛って、そのささやかで、ごくわずかな人々にとってのみ、しかも部分的にしか役に立たないであろう文書に取り組んだ。生活の中で庭にある花を剪って飾った。死んだ花は何度も枯れた。繰り返し枯れた。でも私は飾る事をやめなかった。
あの日に二人で林檎を食べた後、ジンが私に関わる大人たちへ、私がある種の才能を持っている事を保証してくれた時から、十数年が経っていた。けれど熱意は衰えるところを知らなかった。それは恋だった。ジンが私の文章を見て「それ」を面白がり、完成する日を楽しみに待つと言ってくれたその日から、この無謀な計画は避け難く始められた。私にとってジンは全てだった。
大学を卒業した私は静かな入り江の近くにある白い家を借り、そこでたったひとつの贈り物をつくりあげるため、ひとりで静かに自分自身の誤謬や不足や無知と闘った。柳を揺らし水に渡るさわやかな風がいつでもあのひとの笑顔を思い起こさせた。そしてそれはほとんど突然、暁光のように完成した。


差出人:ナマエ
件名:
本文:ワニマ石碑解読のための文書が完成した。
紙のまま読んで欲しい。郵送はしたくない。だからここに来て。ステファノ・マドラーの15年もののワインもある。楽しみにしててね。
序文にはあなたの名前を書いた。

鍵はかけないまま家を出て、入り江の暗闇の縁で私はメールを読み直した。以前から彼に送りたくてたまらず、推敲してはまた翌日に見直すことを繰り返した文章だった。その妄執を彼は知らない。送信ボタンを押した。
もともと、この片恋が終わったら死ぬつもりだった。彼と会ってからこのかた、それだけに生かされてきたのだから。不思議と怖くはない。薄い波がやさしく滑ってきて裸足を撫でた。携帯を閉じてふと顔を上げてみれば、名前のわからない小さな花が闇にあって獣の目のように赤く開いていた。瞬間、あの日に彼と一緒に食べた林檎を思い出す。そういえば花の名前になど一度も興味を持った事がなかった、と思う。今から知ろうとも思わない。意味がないから。私は柔らかな冷たさをたたえた入り江の中へ踏み込んだ。水は私を受け入れてくれた。


「……どうして?」
「あ?こっちのセリフだろ。近場にいて会いに行こうとしてた途中だったんだよ。バカが」
「助けてくれたのは、ジン?」
「他に誰がいんだよ」
「……あれは?」
「読んだよ。今は何も言わねー。寝ろ」
どこかで火がはぜていた。彼が口癖のように嫌いだと言う面倒をかけてしまったと思うと、失態に鳩尾が痛んだ。あの黒く赤い花が散りばむ入り江へ溶け込むように死ねたなら、冥府でどれだけ安心できただろう。
この世のどこにも完璧などあり得ないという事くらい知ってはいるけれど、完璧でない私の文章をなぞった彼の目を思う。拙い内容に比して選んだ字体の美しいことを恥じた。頭が悪いことを恥じた。眠る私の顔を恥じた。そして今、その時間の続きを生きている。

彼の目に火が踊る。タオルにも肌にも水は浸みていく。沈黙の中で重ねられるひとつひとつの秒数が、かぞえられない瞬間が、おぞましかった。彼は私の髪についた葉に気づくとそれを荒っぽく払って火に投げ込み、タオルの山から新しいものを手に取り、髪を絞るようにして水を吸わせた。
そして私から火へと目を逸らした。その時初めて私は自分が全裸であり、ベッドではなくタオルにくるまれ、ここに住んでからというものお飾りにしかしていなかった暖炉の火の前に寝かされていることに気づいた。そして彼は来客用のバスローブを身につけている。彼も私がそれに気づいた事を悟ったようだった。
「借りたぞ」
「ええ」
「……もう寝ろよ」
「嫌」
「何でだよ」
「起きたとき、あなたがいないから」
「クソガキが。お前が寝ねえと良いワインとやらが飲めねーだろ。名前は忘れたが……」
「どうして?」ほほえみたかったけれど、冷えきっていたせいか、それはとても難しかった。
「半地下の右奥の、小さいセラーにありますよ」
「オメーが寝てる間に探すのが楽しいんだろが。オレの楽しみを奪うな」
私はかすれた小さな声で笑った。彼が泥棒みたいなことを言うから。本当はもっと大きな声で笑いたかったのだけれど、身体が重すぎるせいでそんな声しか出なかった。訪れた沈黙の中で、私は暇つぶしのように、ほんとうは恐る恐る、顔の前へなにげなく置かれたタオルの下にあるジンの指に触れてみた。それは私の冷たい指にとても大きく温かく感じられた。少し熱過ぎると思うほど。形を探るようにそっと指を滑らせていくうちに、薬指のささくれに気づいた。左手だった。
これは私のものではない。今までもこれからも、銀も金もプラチナも、この指を飾る事は無いと信じたかった。もしそうなったとしても、この指とこのひとが私のものになることは決して無いとわかっている。それなのに彼は触れるがままにさせている。あなたはなんて残酷なのでしょう。二人とも黙ったまま遠くない別れへと夜は流れていく。無音のうちに、留めようもなく過ぎていく瞬間が、ただひたすらに虚しかった。

モメント

return to list