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あれからどうやって電車に乗り、どうやって帰って来たのか殆ど記憶が無い。自宅マンションの玄関扉に背を預け、ずるずるとへたり込んでしまった。まだ、心臓はドクドクと脈打ち、こんな季節なのに汗ばんでいた。
ベルモット。彼女のことを見たのは2回目だ。しかし、その2回とも変装姿だ。素顔の彼女には会った事がないが、紙面でみる限り美しい人だと思っていた。しかし今日一瞬だけ合わせた目線が、やけに恐ろしく感じた。腹を空かせた獰猛な肉食獣に狙われているかの様な感覚。すぅと体内が底冷えし、一気に汗が噴き出した。安室とはまた種類の違う冷ややかさ。こんな感覚、二度と味わいたくない。
無理矢理呼吸を落ち着け、ゆっくり立ち上がる。膝が笑うとはこの事だと思い、笑ってる場合じゃないと思い直す。この膝の震えは、心理的緊張からなのか、肉体疲労の筋緊張からなのか。顎先からぽたりと汗が落ちた。
フラついて立ち上がった拍子に肩からずり落ちた鞄の端で、ビニールの擦れる音とこの場にそぐわない柔らかい香りがした。震える手で鞄を開けると、黒羽に貰った小振りの花束が目に入る。それを見て深く息を吐いて、正気に戻る事が出来た。崩さない様にそっと取り出し、その柔らかな香りをめいっぱい嗅ぐと、真っ黒でトグロを巻いていた何かがすぅと消えていく気がした。

「…黒羽君、ありがと」

誰も此処には居ないのに、独り言を呟きながら、漸くリビングへ向かった。


***


「あら…一応居場所はつかんでいるのね…その亡霊さんの…」
「いや…それはまだですが…タネがわかればそれを調べる事なんて僕にとっては…1日あればお釣りが来ますよ…」

フン、とベルモットが鼻を鳴らす。ジョディの服装をしたままの彼女は、首から上の妖艶さと相まってとても不釣り合いに見える。そして、美しく薄い唇に黒い笑みを乗せてバーボンに聞いた。


「ねぇ…貴方のエンジェルは、彼女と会った?」


「…何を言っているのか、分かりかねますが」
「あら…今日、名字名前は、ジョディ捜査官に会ったか、と聞いているの」

一言づつ言葉を切りながらベルモットは言う。その唇から、まさか名字名前という言葉が紡ぎ出されるとは思ってもおらず、つい返答に詰まってしまった。

「杯戸中央病院の通用口で、あの子と擦れ違ったの。私を見てとても驚いていたけれど、何も言わず足早に立ち去ったわ…可笑しいわよね」

ついさっき正面玄関でジョディ捜査官とは擦れ違っていたはずなのに、と歌うように言葉を奏でていく。安室のステアリングを握る手が無意識に強くなった。