01



すっかり春の陽気だというのに、日没後の冷え込みはまだまだ激しい。肌を通り抜ける風は、薄手のカーディガンだけでは肌寒いなと思わせる。しかしながら、バス停から図書館までは大きな距離はない。降りた終バスの時間は23時32分。夕飯時までには戻れると図書館の皆に言っていたにもかかわらず、とっくにその時間は過ぎていた。食堂が閉まっているどころか、既に就寝してしまっている人もいるだろう。しかし、何もぼうっとしてこんな時間になったのではない。久々に会った母の、悩める相談を聞いていたせいなのだ。

―――そろそろ、結婚を考えてみない?お見合いとかどうかしら。

仕事第一であった名前にとって、思いもよらない一言であった。母は図書館に住み込みで働いていることを知っている。アルケミストだとか錬金術の話は一切伏せているが、母が思う通り出会いがないのは間違ってはいない。しかし、いきなり見合いなど話が飛躍しすぎている。格式高いファイルに収められた"見合い写真"を見せられたり、隣町の床屋の息子が"適齢"だとか、しきりに異性を勧めてくる母をいかに躱して帰宅するかに時間がかかってしまったのである。

図書館の建物が見え始めた頃に、門の前に誰かが立っていることに気付く。煙草から煙をくゆらせて、物憂げな表情で空を見つめる人。それが誰と分かった途端、名前は顔を青ざめ同時に駆け出した。

「北原先生!」

声をかけると、さも今気付いたと言うばかりに司書を見やって、懐から取り出した小さな携帯灰皿にその吸殻を仕舞いこんだ。

「すみません、その……」
「言い訳は聞かないよ」

司書が事情を説明する前に、北原はばっさりと切り捨てて、図書館の方へ歩き出した。
自分が図書館を出る前、助手にしていたのが北原だった。帰宅の時間はもちろん夕食前と伝えてあったものだから、彼が憤りを覚えるのは当たり前だろう。
スーツケースの転がす音だけがやけに耳につく。二人の足音すら消し去るくらいには大きい音で、それに加えて母から持たされた土産の袋が揺れるたびにがさがさと音を立てる。それは主人が帰って来たことを知らせることにもなるのだが、如何せん静まった図書館の敷地内では大きすぎた。

「貸したまえ」

横からスーツケースをひったくられる。小さく礼を述べて、寮へ向かった。
寮に入り中を見渡すと、一階奥にある食堂の灯が付いているのが分かった。きっとまだ起きている人たちがいるのだろう。名前は声をかけようかと足を止めた。しかし、前を行く北原が二階へ続く階段を昇り始めてしまったので、慌ててその後ろについて行く。
木の板を踏みしめるたびにぎしぎしと音が鳴る。なるべく音を立てないように歩くが、古い造りのそれではどうにもならない。部屋の前まで来ると、北原は立ち止まって名前のほうを振り返った。私室は鍵を掛けられるようになっているため、本人が持つ鍵が必要になる。北原の言わんとするところを察した名前は上着のポケットからストラップも何も無い質素で小さな鍵を取り出して、扉を開けた。
手探りで灯のスイッチを探し当てて、灯を付ける。たちまち部屋が明るくなり、自分が出ていく前と変わりない様子が照らし出されていく。

「ありがとうございます、先生。それと、連絡せず申し訳ありませんでした」

スーツケースを受け取りつつ申し訳なく言えば、軽くため息を吐いてこちらを見た。

「僕は気にしないけれど、心配する輩も多いからね。そこは気を付けたほうがいい」
「はい、重々承知しています」
「だろうね。もう今日は休むといい。食堂の面々には騒がないように伝えておくよ」

司書部屋の扉を閉めたところで、北原は深くため息をつく。そう司書には言ったものの、今日のような時間に一人で帰宅するのは如何なものかと思う。バス停から図書館まで大した距離はないとはいえ、人通りのない道である。何も無いとは言いきれない。
少々口煩く叱ってやることも考えていたが、疲れた顔をする司書と、言葉から感じられた罪悪感に毒気が抜けた。母親に会いに行くと言っていたが、あまり仲は良くなかったのか。再びタバコを吸おうと懐に手を入れかけて、我に返る。食堂にいる連中を黙らせておかねばならない。自分で言い出した以上、放置して喫煙所に行くなど有り得なかった。一階に降りて食堂に入ると、必要最低限付けられた電灯の下に、数人の男達が集っている。何人か机に突っ伏して、寝てしまっているものもいた。

「司書さん、戻ってきたんですか?」

入ってきた北原に気付いた高村が問う。その向かいには、目の据わった石川と涼しい顔をした若山が湯水の如く酒を煽っていた。あまりそれを見ないようにして、返事を返す。

「今部屋に戻って休ませたところだ。随分疲れている様子だったからね、あまり言うのは止したよ。それと、騒ぎ立てないようにともね」

北原の言葉に、この騒ぎですからね、と高村は苦笑いで返す。食堂の奥では無頼派が中原を交えてすったもんだ起こしているし、卓を囲んで麻雀をし、勝った負けたと叫ぶ者達もいた。
司書にはあえて伝えなかったが、戻らぬ彼女を少なからず心配し、普段夜更かしや飲み明かすことをしない者もこの食堂に残っていたのである。きっとここにいない者達も、就寝には至っていないだろう。現に、司書が戻る前に喫煙室を覗いた時も、数名そこでたむろしていたのを知っている。

「まあ何にせよ無事に帰ってきたんならいいんじゃないか」

意識のある牧水がそう言いい、おーい、司書さんは無事帰って来たってよと声を張り上げる。そうすれば、少しだけその喧騒が収まったように感じられた。その様子に若山は「これで安心して飲めるな」と新たに酒瓶を開く。辺りに転がる酒瓶に呆れながら、ほどほどにしておくのだよと言い残して北原は食堂を後にした。