恋と呪い


 許嫁――家同士の合意により決められた契約上の関係。呪術師の名家である御剣家に生まれた神楽は、幼い頃から加茂家の許嫁としての教育を受けてきている。己の意思に関係なく決定された関係にも、不服などはなかった。呪術師の名家の子女に生まれた責務であると受け止めてきたためだ。

 古くから歴史を紡ぎ、伝統と格式を重んじる御剣家。古来より加茂家と因縁があり、加茂家と婚姻の契りを結ぶことを約束している御剣家は、加茂家の許嫁という立場を重く受け止めている。神楽を加茂家の許嫁として育て、振る舞いを教えた。
 その教育の一つの中に、“愛は呪いになる”という言葉がある。愛は呪いになる、だから許嫁に愛情を抱いてはいけない、許嫁に愛情を求めてはいけない。何度も言い聞かせられてきた。
 何故愛が呪いになるのかと、何故己の伴侶となるべき存在に愛情を抱いてはいけないのかと、求めてはいけないのかと、神楽は疑問を抱いていた。愛とは純粋で無垢なものであると思っていたからこそ、愛が呪いになるなど、考えられないものだったのだ。年齢の割に聡明ながら、しかしまだ幼かった神楽にはそれこそ理解が及ばずにいた。
 ただ、幼き頃に告げられたその言葉は、神楽の心に深く刻まれている。

 ――許嫁という関係において、愛は呪いになる。

 この言葉の真意が、今では、分かるようになってしまったから。


 京都の光景は、記憶に残っているものよりも、直接視界に映す景色の方がやはり色鮮やかに見える。何よりも好きな者と見た、懐かしくて、恋しい光景。色褪せることなく、心に深く刻まれていた。
 舞う花弁と共に、神楽の髪が揺れる。吹き抜ける風の温度が季節を知らせてくれた。風が無数の花弁を青い空へと運ぶ様子を、神楽は眺める。

「おい、神楽」

 途端、己を呼ぶ声がし、振り返る。視界には、隣で自分のことを見る真希の姿。腕を組みながら、普段と変わらない表情で言葉を続ける。

「ボケてたぞ」

 指摘され、神楽は謝った。久々に京都に来ると、その度に蘇る記憶と思い出に浸ってしまう。

「どうせ憲紀のことでも思い出してたんだろ」

 分かったように言われ、素直に頷いた。

 神楽と真希は共に任務で京都への遠征に来ている。呪術界は常に人手不足のため、学年に関わらず遠征に赴くことも多い。
 1年である真希は単独で遠征に赴くことこそ許可されていないものの、2年である神楽と共に任務を任されることはあった。真希は家系の関係で4級呪術師であるが、実力は相当のもの。加茂家の許嫁である神楽は高専に入学する以前から真希との交流があり、真希のことを信頼している。彼女との任務は即座に終わることが多い。
 そして、任務を先に終えた二人は、ある人物を待っていた。

「で、憲紀はまだか?」
「もう少しで来ると思うわ。……本当は、会わなくてもいいのだけれど」
「せっかくだから会ってこいよ。久しぶりなんだろ」
「真希こそ、真依に会わなくて良いの?」
「私はいい」

 腕を組みながら即答した真希に神楽は苦笑を浮かべる。双子の妹である真依に会ったとしても、言い争いになるだけだと思っているのだろう。神楽は一周だけ景色を見回し、自分達の元に落ちてくる花弁を見つめる。

 加茂家の嫡男である加茂憲紀は、神楽の許嫁だ。神楽は東京の高専に通うために東京に行ったが、憲紀は出身地である京都の高専に通っている。以前は許嫁として、よく顔を合わせていた仲だった。距離が離れている今では、憲紀の姿や声も神楽が己の記憶から呼び起こす程度で、対面することは少ない。特に神楽は憲紀に連絡を行わないようにしているため、会うことは疎か、声を聞く機会さえ多くはなかった。
 しかし、一応、と京都に遠征に行くことを憲紀に伝えれば、「久々に会おうか」と言われ、真希にも承諾を得て、久々に許嫁と会うことになり。今に至る。

「真希も付き合わせてしまってごめんなさい」
「いいよ。憲紀が来たら私は自分の用事を済ませてくる」

 真希も京都に用があるらしく、神楽が憲紀と合流をしたら一旦別れることになっている。気を使わせてしまっているのではないのかと思ったものの、真希は「ちょうどいい」と答えてくれた。
 懐かしむように京都の景色を眺める神楽に、真希が真剣な表情をしながら声をかける。

「……神楽、なんで憲紀と離れたんだ? 憲紀と一緒にいた方がよかったんじゃないか?」

 真希の言葉に、神楽の心は静かな波のように揺れた。一瞬だけ、神楽の表情が憂いを帯びる。長い睫毛が少しだけ伏せられた後、重たくなった唇を開いた。

「……憲紀といたら、私は憲紀に頼ってしまうから」

 静かに答えられた言葉は重い意味を隠し持っている。真希はそのことに気がついただろう。
 加茂家の嫡男である憲紀は、嫡男としても呪術師としても、立派な存在になっている。神楽はそんな憲紀のことを己の基準にしており、判断を彼に委ねることも多い。自ずと憲紀に縋りがちになってしまっていた。いつしかそれが、執着になっていると、気がついたのだ。

「ほら、憲紀はとても頼れる人でしょう? けれど憲紀のことを見習って、私も自立しなければいけないと思ったの」

 母のために加茂家の嫡男として振る舞い、本来は通わなくてもいい高専に行くことを決めた憲紀のことを、誰よりも尊敬している。驕ることなく常に克己的に己を律し、己を高める憲紀のことが神楽は何よりも好きだった。だからこそ、憲紀のことを見習い、自分も己を律すると決めたのだ。
 加茂家の嫡男である憲紀の、枷にならないために。

「だから」

 少しの間を空け、神楽は続けた。

「私は、憲紀と離れたくて」
「……そうか」

 何かに思いを馳せるように静かに紡ぐ神楽に、真希は納得したように一言だけを零す。神楽の想いも、憲紀と神楽の関係も、御三家のことも知っている真希には、神楽の少ない説明だけで全てを理解することができた。
 真希から見ても、神楽は憲紀と共にいた方が良いと思われているのだろう。二人の許嫁という関係と、神楽の許嫁に対する想いの強さを考えれば、きっとその方が間違いないのだ。神楽もそのことは分かっていた、それでも東京に行くことを選んだ。軽く笑いながら神楽は語り続ける。

「東京も楽しいわ。知らない世界に入ったようで、充実して――」
「――神楽」

 弾んだ声で語る神楽の言葉を遮るように、強い声音が響く。神楽と真希が声の主を辿れば、そこには許嫁である憲紀が立っていた。

「……憲紀……」

 落とされた声はどこか焦りを含んでいる。憲紀が表情をどこか崩していたからだ。

 久々に見る、許嫁の姿。憲紀は神楽達と同じく高専の制服に身を包んでおり、制服の濃紺な色も相まって、その容姿は清廉な気高さを秘めている。厳格ながらも気品を感じさせる佇まい。しかし、その知的さを感じさせる顔は少しだけ歪められ、伏せられたようにも思える瞳は鋭く神楽のことを捉えている。見慣れた姿であるがゆえに、普段の様子と違うことを神楽は分かっていた。
 憲紀は歩み寄り、口を開く。

「久しぶりだね」

 神楽と真希を一瞥しながら憲紀は挨拶をする。それに対して真希は短く返すが、神楽は言葉の代わりに頷いた。挨拶の言葉でさえ、どこか柔らかな印象を感じさせる声音が潜められ、重く放たれたからだ。己に向けられる眼差しにも重いものが込められていることを感じ取り、先程の自分達の会話が憲紀に伝わってしまったことを知った。

「神楽。君と話がしたい」

 一瞬で重圧を感じさせる空気に包まれ、返答ができずに口を噤んだ。憲紀が話したい内容など神楽には分かりきっている。躊躇っていれば、真希が促すように言葉を発した。

「行ってこい。私のことはいいから」

 神楽が真希を見れば、「終わったら連絡しろよ」と続けられる。深く頷き、神楽は憲紀と共にその場を後にした。


 先程の場所から、少し離れた所。人はおらず、周囲は静謐な空気に包まれている。青く澄んだ空には雲が流れ、暖かな太陽の光が神楽達を照らした。
 神楽は自分の前を歩く憲紀の背を見つめながら歩む。涼やかで品のある草履の音が響き、合わせて神楽の靴音が重なる。二人の間に吹き抜ける一陣の風が、神楽の髪と制服の裾を強く揺らしていく。

 憲紀が歩みを止めれば、少し距離を置いて神楽もまた止まった。憲紀は神楽の方を向き、視線が重なり合う。憲紀の表情は感情を悟らせないのに、逃れられないように神楽を縛りつける。まるで捕らえられているかのようだ。穏やかな陽の光とは反対に、この場の空気は重々しい。流れゆく静寂を破ったのは憲紀だった。

「真希との会話を聞いた」

 重く語られるその声が静けさを切り裂く。憲紀はちょうど神楽達の近くまで来ていたのか、一部の会話が聞こえたらしい。

「君が東京の高専を選んだ理由を、詳しく聞かされていない」
「……」

 憲紀の言葉から察するに、彼が聞いたのは、神楽の“憲紀と離れたい”という言葉だけなのだろう。その前の会話は聞こえていなかったようだ。
 高専に通うと話をした際に、神楽は東京の高専に行くと憲紀に告げた。しかし東京を選んだ詳細な理由を憲紀に話すことはできていない。出身地である京都を離れ、許嫁からも離れる選択をした神楽に対し、憲紀は未だに理由を求めている。

「君は私から離れるために東京に行ったのか?」

 率直に聞かれた言葉は重く響き渡った。会話を聞いていたのであれば、神楽がどれだけ否定をしたとしても憲紀に隠せるわけがない。偽るだけ無謀だ。憲紀には敵わないことは自分が一番知っている。

「……えぇ」

 暫しの沈黙が落ちた後、肯定の意を示すように頷いた。

「何故私から離れたいと?」
「憲紀といると、私が励めない」
「それは以前聞いた。まるで君にとって私の存在が邪魔のようだと聞こえる」
「っ、違う……」

 否定はするものの、それ以上の言葉を放てずにいる。一言だけの否定の表しなどまるで説得力がない。東京校に通うという意思を示した際もそうだった。曖昧な理由しか話せず、半ば押し切るように東京に来てしまったのだ。話さないのではなく、話せない。憲紀だけには。

 それなのに、話せない理由でさえ憲紀には言うこともできない。憲紀が納得のいくような説明をすればいいものを、神楽はそんな器用さを持ち合わせていなかった。憲紀を誤魔化すことは神楽にはできないのだ。だから、なんと言えばいいのかが分からずにただ首を振るだけ。こんな浅い言動では憲紀を納得させることなど到底できないと、自分がよく分かっている。

「私は、許嫁である君は自分の隣にいることが当然だと思っていた。だが神楽は違ったようだ」

 憲紀の表情は薄く、その声も波の立たない静かなもの。強さを感じるのは咎めるような意図を含んでいるからなのだろう。ただ、それとは別に他の感情が宿っているような気もして、けれど神楽には発言に込められた思いを悟ることなどできなかった。

 許嫁は当人の意思に関係なく、相手の傍に在る関係。どれだけ離れたとしても、神楽には必ず戻らなければいけない場所が既にあるということだ。それ故に合理的な憲紀は、許嫁である神楽は己の傍にいることが当然であると、そのように思っている。
 ただ憲紀が許嫁の存在と立場を重視しているのは、許嫁という関係が、家――加茂家に関わっているということが、大きいのだろう。きっとそれ以外に理由などない。そのことに心を軋ませることさえ筋違いなのだ。

「今の神楽は他の者にかまけているように見える。東京に行ってからは特にだ」

 過っていった音の羅列が、刃のように心に突き刺さる。硬質な声音は責め立てている証だ。
 神楽は初めて、不服な思いを抱いた。全て己が選んだことではあるものの、憲紀の言葉が心を陰らせていく。歩み寄れば近づける距離にいるのに、憲紀の温度さえ感じられない。それ所か、冷気のようなものが神楽の思考を凍りつかせるかのようだ。

「それでは、まるで……私が、許嫁という立場に責任を抱いていないと言いたいように聞こえるわ」
「そう言っている。近頃の神楽には自覚が足りない」

 低く心地の良い、大好きな声から放たれる言葉を、初めて聞きたくないと思った。

 不服の思いを言葉にすれば、憲紀に更に叱責される。己が許嫁の立場に責任を持っていないというように言われることは、神楽にとっては心外だ。自分なりに、加茂家の嫡男の許嫁として精進し、務めてきているつもりだった。そのことを見てくれていたであろう憲紀に言われることが、何よりも神楽の心を砕かせていく。
 ただそれは全て、神楽が引き起こしてしまったもの。憲紀は真摯に見てくれているだけ。神楽が、憲紀に自覚が足りないと思われてしまうだけの曖昧な言動を繰り返しているからだ。

「君は私のことを邪魔だと思っているのか?」
「っ――違う!」

 低く告げられた言葉に耐えきれず、反発をするかのように思わず強く声を上げる。発した後に冷静になるものの、取り繕うことはできなかった。神楽がこのように感情を露わにすることは少ないからか、憲紀も心なしか驚いているようで、瞳を瞠る。

 否定だけは行わなければいけないと、咄嗟に強く言い返してしまった。誤解であると伝えなければ、憲紀は本当にそのように思ってしまうに違いない。耐えきれなかった。神楽が憲紀のことを邪魔と思うことなどあるわけもないのだ。
 神楽の言動を見るうちに、神楽は許嫁という関係を枷のように思っているのだと、憲紀はそう捉えたのだろう。だからこそ問うているのだ。そのように思わせてしまったことも、許嫁としての自覚が足りないと思われることも、全て神楽に起源がある。

「……私、は……」

 ――私は、憲紀のことが好きなのに。

 己の心にも、憲紀にも、嘘をつきたくはない。それでも、その想いを言葉にすることはできずに言い淀む。神楽の表情には陰りが落ち、憲紀と視線を重ねることさえできずに俯く。

 好きで好きで仕方が無かった。気がついた際には、己ではどうしようもない程に焦がれてしまっていた。愛してしまっていた。他の誰にも代えられない程に。許嫁である、憲紀のことを。
 己の立場に忠実で、克己的で、母のために加茂家の嫡男として振る舞う憲紀のことを、傍で見ていたら。いつしか恋情を抱いていた。蕾のように固く閉じていた想いが開花をして咲き誇り、確かな恋の情を宿していったのだ。誇らしく思う許嫁を好きになったことは、神楽にとっては光栄なことであった。けれど神楽の憲紀の関係を考えれば、嘆かわしいことにすらなる。

 己の想いが憲紀の枷になりそうな気がした。呪術界の御三家の一角を背負い、嫡男として、次代当主として振る舞う憲紀の枷になるなど、神楽の矜持が許さなかった。憲紀に疎まれることだけは耐えられないと思ったから。
 ただ憲紀の傍にいられるだけでいいのだと、必死に律している。そうして感情を制御し、自身の想いを抑圧しているのに、溢れる想いは留まることを知らない。相反する思いが神楽の思考に矛盾を落としていく。
 きっと、許嫁が――己の相手が、憲紀ではなければ、恋の情など知らなかったのだろう。加茂家の嫡男が、次代当主として決められる者が、許嫁が、憲紀ではなかったら、神楽は恋をすることはなかったに違いない。

 許嫁のことが好きで、けれど許嫁に執着をしすぎていると気がついたから、枷になりたくないから。許嫁としても呪術師としても未熟であると悟り、これではいけないと、憲紀と離れることを選んだのに。この選択は、間違っていたのだろうか。
 勘違いを解きたいのに。ただ好きなのだと、傍にいたいのだと、伝えたいのに。

 ――まるで、呪いだわ……

 許嫁という関係において、愛は呪いになる。

 その言葉の意味を、恋をしてから分かってしまった。家に決められた重い義務には、余計な感情など不要でしかない。責務を果たすためには邪魔でしかないのだ。許嫁という関係は愛情など無くても、成立するのだから。それでも萎れてはくれない恋心が厭わしい。

 許嫁という関係があるからこそ愛が呪いになるのか、それとも愛自体が呪いなのか――。きっと、どちらもなのだ。その結論を導き出せる程に、神楽は許嫁のことを愛してしまっている。
 あれだけ家に戒められてきたのに、想いを制御しきれなかった神楽の落ち度だ。もはや制御などできない。惹かれてしまっている。焦がれてしまっている。己の恋情に、灼かれてしまいそうな程に。口にすることさえ叶わない想いは、陽の光を浴びることのない花のように、静かに、けれど深く秘められている。

 もはやどうすればいいのかが、神楽には分からなかった。
 神楽が言葉の続きをいつまでも紡がないからか、憲紀は勝手に解釈をしたように、低く零す。

「……君は私から離れていくのか」
「……え……?」

 静かに、けれど重く紡がれる。起伏の薄かった感情の片鱗を覗かせる言葉と表情に、神楽はつられるまま視線を上げた。しかし呟いた一言に対して、憲紀はそれ以上の言葉を重ねない。ただ空気に溶け、風と共に流れていくだけ。神楽もまた、憲紀の言葉の意味を悟ることはできなかった。

「許嫁に双方の意思は関係ない」

 普段の厳しさを纏う声で、憲紀は強く言い放つ。先程の感情の欠片など既に霧散しているかのように。

「許嫁は家によって決められたものだ。私は加茂家の嫡男として、神楽は御剣家の子女として、私達はその責務を負わねばならない」

 真剣みを帯びた視線に、言葉を封じられる。改めて自分達の立場と関係、その責務を告げられ、神楽はそのまま聞いていた。再度、神楽に自覚させるように憲紀は冷静な声で紡いでいく。

「君は私の許嫁であるということを忘れるな」

 普段よりも強い口調、強い声音。言い聞かせるようにして告げられた言葉は、神楽にとっても決して離せないもの。己を構成する欠片であり、だからこそ、一度として己の立場を忘れたことなどない。けれど――。

 ――あぁ……憲紀は、私のことなど……好いていないのだわ……

 分かっていたことだ。許嫁だから傍に置いてくれているのだと、理解していた。しかしその事実を改めて突きつけられ、涙が溢れそうになる。憲紀に己と同じ想いを抱いてほしいわけではない。ただ傍にいられるだけでいいのに。あれ程までに愛情を求めてはいけないと、言い聞かせられてきたのに。それでも憲紀のことを好いているこの心は、虚しさを感じてしまっていた。

「それだけだ。今日はもういい」
「あ……憲紀……」

 心に刃を貫かれたかのような切なさが溢れ、戦慄く唇を開き、その名を音にする。けれど憲紀は神楽の声に反応することなどなく、立ち去ろうと神楽に背を向けた。

 切り捨てるように淡々と告げられた言葉が、神楽の心に突き刺さる。見限られたかのように、思えた。気を抜けば涙が溢れてしまいそうで、堪えることで精一杯だ。向けられた背を遠く感じた。手を伸ばしても届かない程に、遠く。開いていく心の距離に、心が軋む音がした。
 まるで、今までに許嫁として刻んできた全てが、砕けていくかのよう。そう、感じてしまった。

 許嫁という確固たる存在に縋って、憲紀の傍にいる権利が欲しい。神楽は、周囲に“良い子”に見られるように振る舞ってきた。物分かりの良い、素直で重々な許嫁で在ろうとしていた。感情を完全に制御し、完璧な許嫁として振る舞ってきたつもりだった。けれど、神楽は許嫁という関係を、憲紀の傍にいられる手段だと思っている。憲紀は許嫁という関係を真摯に受け止めているのに、己はここまで浅ましく狡い者であることに、気がついてしまったのだ。憲紀のことだけは、制御できない。

 ――こんな私では、好かれなくても当然だわ……

 憲紀にあのように思わせてしまい、誤解を招き、それなのに尚、何一つとして納得させられるような話ができない。憲紀はただ事実と正論を述べているだけなのだ。全て神楽が起こしてしまった過ちに過ぎない。
 許嫁は双方の想いなど関係ない。だから例えどれだけすれ違おうとも、確固たるもので結ばれた鎖は切れることなどない。

 ただ――許嫁のことを愛してしまったことは、幸福なのか、呪いなのか。神楽には、もう、分からなかった。


 憲紀が去った後。神楽は真希と連絡を取り、合流をした。
 どこか浮かない様子を見せる神楽に、真希は声をかけてくれる。

「何かあったのか?」
「……憲紀に、“許嫁としての自覚が足りない”と、叱られてしまったわ」
「……」

 真希はその言葉と神楽の様子だけで、大抵のことは察したようだった。

「……私、見限られても仕方がないわよね」

 神楽の声は普段の凛とした響きは潜められ、控えめだ。どのようなことでも受け流せる神楽だが、憲紀のことだけはそういうわけにはいかなかった。
 同じ御三家である禪院家の出身である真希も、憲紀の厳しさを知っている。ただ神楽が語る憲紀の話もよく聞いてくれているため、憲紀が厳しいだけの者ではないことも分かっていた。

「……憲紀は神楽を見限るような奴じゃねぇだろ」

 憲紀は内に秘めている思いを表すことが少ない。常に加茂家の嫡男として己を律し、厳格な雰囲気を纏い、冷静な者だ。内に情があることは知っているが、神楽自身のことをどのように思っているのかは神楽にも真希にも察することはできない。
 しかし憲紀は神楽をそのまま見限るような者ではないと、真希は思った。

「それは神楽が一番分かってるハズだ」

 許嫁として憲紀の姿を見てきた神楽は、その想いこそ悟れなくても、憲紀が情の深い者であることを理解している。決して神楽自身を切り捨てる者ではないことは、神楽も分かってはいた。

「……ありがとう、真希」

 真希の言葉に、凍えそうになっていた心が暖かくなり、笑みを浮かべながら礼を言う。

 憲紀に見限られたら、神楽には居場所が無くなってしまう。それでも許嫁という関係は果たされることになるが、神楽の存在の意義は憲紀に結びついている。加茂家に、憲紀に見限られてしまうことは、家からも許されないだろう。何より、大好きな許嫁に見限られるなど、自分が耐えられない。

「本当にごめんね、付き合わせてしまって」
「何謝ってんだ」

 息をつきながら、真希は「気にすんな」と続ける。「真希は優しいね」と神楽が放てば、軽く否定された。真希がこうして話をしてくれるから、神楽の心は凍てつかずに済んでいるのだ。

「……憲紀に会ってしまえば、想いが制御できなくなってしまいそうだから。あまり会いたくは、なかったのだけれど……」

 未だにこの心は、切なさと虚しさを抱えている。許嫁に囚われていることを示すかのように。

「どのようなことがあっても……憲紀のことが好きだと、改めるの」

 「まるで呪いのようね」と続けながら、己の想いを再実感する神楽の言葉を真希は静かに聞いた。神楽の許嫁に対する強い想いは、真希もよく分かっている。神楽が許嫁である憲紀しか見えていないことも、全て。

「憲紀には、言わないでね」
「……言わねぇよ」

 神妙に、誓うようにそれだけを返し、真希は歩みを進める。

「帰るぞ」
「……えぇ」

 許嫁の存在が在る京都の光景を一度だけ振り返り、見つめた。惜しいと思う心を封じながら、真希に続くように歩み。東京に帰還するために京都を離れていく。

 愛は、呪いになる。その言葉はいつまでも、許嫁を想う神楽の心に刻まれていた。






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