契り
許嫁の熱が恋しいというように、神楽は心と全身で憲紀のことを求めているようだった。
他者に己の身体を蹂躙されるなど、どのような思いなのだろうか。憲紀には分からない。神楽の中は常に憲紀のことを柔らかく包み込み、温かく迎えてくれるものの、それは憲紀の方であって、神楽はそうではない。神楽の方は、華奢な身体に重い楔を穿たれているのだから、真にその相手への強い想いがなければ、到底受け入れられることではないはずだ。
許嫁として従順な彼女は、憲紀を受け入れることが己の役目であると考えているだろう。しかし、許嫁としての義務とは外れたこの契りを受け入れてくれるのは、神楽もまた憲紀のことを想い、求めているからだった。
「気持ちいいか?」
品のある声が、努めて冷静に問えば、憲紀の下で神楽はこくこくと頷く。返事をする余裕すらないことが窺えた。神楽は憲紀に身を委ねながら、悦楽を感じているようだ。
「ん、あ……ぁん……」
馴染ませるように、硬くなっているもので内側を擦り上げれば、甘く濡れた声が零れる。神楽の内側は憲紀の形に馴染んでおり、潤み蕩けて憲紀を迎え入れていた。絹で仕立てられた上質な敷布を握り締め、もどかしい程の快楽を逃すように耐えている。強い快楽を与えられることを怖がる彼女は、こうしてゆっくりと動かれる方が好きなようだった。
神楽は、加茂家の許嫁という立場は己の責務であると思っているため、運命を決められていることは気にしていない。しかし次代当主である自分の許嫁という立場は、憲紀とは似て非なる重圧を感じているはずだ。立場から致し方がないとはいえ、常に憲紀のことを気遣っている神楽のことだ、必要以上に重みを感じさせてしまっているに違いない。だからこそ、この褥で交わす契りでは、彼女のことを優先したいという思いが、憲紀の中にはあった。
男性を受け入れることも重いだろう。それゆえに、神楽のことを好くさせることが己の役目であると思っている。
この契りにおける主導権は憲紀にあるが、主体はどこまでも神楽だった。
「や、ぁ……の、りとし……」
艶かしい声が、名を呼ぶ。広い和室に彼女の声が響く。
整えられていた着物は乱れ、頬を淡く色づかせ、潤んだ瞳で憲紀を見上げる姿は、今では蠱惑的に感じられた。奥底で燻っている熱が、男としての劣情が、昂りとなって表れるかのようだ。だが自分のいいように動いては、きっと彼女に負担を強いることになると、憲紀は抑えていた。
純白の敷布に、それとは正反対の、彼女の紫黒の髪がよく映える。普段は清潔に整っている髪も、今は褥を覆っていた。舞うように乱れた髪は、この契りに没頭している証だ。薄暗い部屋の中で、微かな明かりがぼんやりと彼女の輪郭を象る。
羞恥から抑えてしまっているのか、零れる声は控えめだ。しかしその中にわずかに艶が秘められており、彼女が快楽を得ていることはそれで判断できる。女として呼び起こされている神楽の中は蠢き、憲紀のことを締めつけては欲するかのようだった。どこかそぐわない水音が静かな部屋の中に響き渡り、重なり合っている深さを物語っている。
「あ、あぁ……きて、しまうわ……」
構わず気をやればいい、と憲紀が言うものの、神楽は首を横に振った。そしておもむろに、憲紀に手を伸ばす。
こちらに伸ばされる手を、憲紀は優しく掴んだ。己よりも小さい彼女の手は無防備で、憲紀の手の中に収まってしまう。大きな手の中で、細い指先が甘えるようにきゅっと丸められる。
「憲紀、一緒、一緒に……」
その言葉を聞き、憲紀は眉を少し顰めた。冷静な思考が巡り、自然と動きが止まる。
共に果てたい、と望んでいることは理解できた。その神楽の意思は言葉通りの単純なもので、憲紀にも、己の中で果ててほしいと望んでいるのだ。一人で果てることが怖いのだろうと、分かってはいる。
だが彼女の願いは、今の憲紀には汲むことができない。
責任を取る覚悟など、とうの昔からできている。ただ許嫁とはいえ、まだその時ではない。いくら避妊をしているとはいえども、実を結ぶ可能性が無いと言い切れない限りは徹底するべきことだ。神楽も普段はそのことを理解しているはずだが、今は他のことに巡らせられない程に思考力を失っているらしい。
閨事に夢中になっている今では憲紀の身体も昂っており、神楽の言葉を受け止め、彼女がそのように言っているのだから、と無責任にも彼女の中に熱を放ちたいと思っていた。やはり男としての本能というものが呼び起こされるのだろう。憲紀の身体は自身の意思を裏切るように、彼女のことを貪欲に求めている。気を抜けば、それこそ自制している熱が情欲のままに、彼女のことを穢してしまいそうだった。
しかし、そんな身勝手な理由で劣情に従うことはできない。この行為の果てにあるものは、許嫁として定められた自分達の責務の一つだ。だからこそ、越えてはならない一線が未だあった。
「その願いを聞いてやることはできない」
抑揚のない声で言い聞かせるように告げれば、神楽は己が口走った言葉を思い返したのか、謝罪を述べた。その一方で表情はどこか憂いを帯び、悲しそうに瞳を少し伏せる。唇を引き結んで、長い睫毛を震わせていた。願いを汲んでもらえなかったことに、心を締めつけられる思いを感じているのかもしれない。
躊躇う素振りを見せた後、再び口を開いた。
「一度……一度だけでいいから、一緒に……」
たどたどしい口調で、紡がれていく。憲紀のことだけを映した瞳は揺らめきながらも、劣情を秘めていた。視線を絡め、真剣に見つめられる。
「憲紀と、一緒がいいの……いつも一人では寂しくて、虚しくて……」
憲紀の熱を感じたい――そう、言われているかのようだった。
懇望するように告げられ、憲紀の表情が変わる。まるで幼子のようなことを言う。聞き分けの良い彼女は憲紀に一度言われれば引くことがほぼであるのに、今回はそうではなかった。
許嫁への執着の強さが、ここで表れているのだろうか。
この行為においては、憲紀が優先するべきなのは神楽だ。だが共に、という願いに頷くことは憲紀にとって難しいことだった。彼女のためにも避けるべきことであると、理性が語っている。ただ、彼女が望むことは叶えてやりたいと思うことも事実。あの神楽がここまで望んでいるとなれば、今回の一度だけでもいいから、その意思を汲んでやるべきなのか否か。
思考を巡らせた末に、憲紀は唇を動かす。
「――神楽」
静かに、名を呼べば、神楽の肩がびくりと跳ねた。さすがに我儘が過ぎると自分でも思っていたのだろう、咎められると悟ったのか、緊張により体が強張っている。しかし神楽は気がついていないが、憲紀の声は冷静なようで、どこか熱に濡れていた。
背と敷布の間に手を差し入れて抱き、彼女の身体を少しだけ浮かす。戸惑う様子を見せる神楽のことを気にせず、距離を狭めるために深く覆い被さる。そして彼女を解くように、耳元に唇を寄せた。
「まだ気をやるなよ」
「あ……っ」
雄々しく、低い声で落とせば、神楽は反応を示し、腰を跳ねさせる。
熱に支配されているであろう思考の中で、自分の願いを汲んでもらえたと解釈した神楽は縋りつくように憲紀の首に手を回し、なめらかな黒髪を抱きしめた。離れていたくない、という心境が行動に表れているようだ。
「ぁ……あぁっ、んぅ……っ」
柔い中を、硬いもので擦り上げる。摩擦するたびに、それに合わせた甘美な声が神楽の唇から零れ落ち、静寂に満ちた部屋の中を奏でていく。憲紀のことを刻んでいる神楽の身体は、与えられる快楽を素直に受け止めているようだった。
ぎゅうっと、縋りつく腕に力が込められる。同時に、神楽は憲紀の腰に両脚を回し、しがみついた。こうして掴まるようにと教えたことは憲紀だが、最初の頃の彼女は常に遠慮をしていたのだ。だがいつからだったか神楽は、憲紀と離れてしまいそうで怖いと、自ら憲紀に縋るようになった。彼女の些細な動作の一つ一つに、憲紀への想いと執着が秘められている。
「憲紀……好き、好きよ、っすき……」
うわ言のように何度も重ね、心の想いを言葉として紡いでいく。途切れそうになる言葉を必死に繋ぎ止めて言い連ねていた。許嫁の名を何度も呼び、何度も想いを重ねるのは、この契りの中で彼女がよく行うこと。理性に霞がかかり、冷静さも余裕も失っているせいか、普段は制御している想いが迸っていくかのように。
己の名を何度も呼ぶ神楽に、憲紀は口づけを落とす。想いを重ねられるように思えるからなのか、神楽は口づけが好きだった。
「ん、ふ、ぅ……っ」
ゆったりと腰を揺らし、神楽を悦楽の坩堝に落としながらも、口づけに夢中にさせた。拙いながらも懸命に応える様子はいじらしい。口づけ一つで他のことを考えられなくなってしまう神楽のことを、本心では愛おしいと思っていることが隠せない。
得も言われぬ思いに、己の質量が増していくことを感じる。
常に冷静な憲紀はこの状況においても、理性の欠片も残っていない程、本能に流されているわけではなかった。だが憲紀も、余裕があるわけではない。神楽にこのように求められれば尚更。己の身体の熱を調節するが、それでも鎮めきることができないのだから。
「や、あぁ……憲紀……っ」
救いを乞うように求められ、憲紀は彼女の頬に手を添えた。色づいた頬は熱い。燃える吐息が肌を掠めた。
太い指が湿った肌を撫で上げた後、張りついた髪を払うように優しく退ける。そして、乱れた髪を整えるように梳けば、縺れなどない柔らかく繊細な髪が、憲紀の手を撫でた。髪に触れ、愛でるような動きをする指先に、神楽は涙を零れさせていく。
「神楽」
許嫁のことを呼ぶその声は、この時だけは普段とは違う、特別な意味を秘めていた。
神楽は憲紀の声が弱点とでもいうかのように、彼の声に呼応し、甘い声を溢れさせる。眦から零れ落ちる涙を親指で拭えば、彼女の涙で指が濡れていく。
必死に抱きつく彼女のことを、憲紀も離さないように抱いた。
「憲紀、憲紀……っ」
彼女の中は憲紀のことを包み込むように愛撫し、一層と強く締めつける。まるで、憲紀の存在をさらに刻み込んでほしいと、希うかのように。
「っ、神楽」
それに憲紀は思わず、瞳を大きく開く。焦燥の響きを含んだ声音で、少し早口に神楽の名を呼ぶ。
離したくない、というように吸いついてくる彼女の中に屹立を愛撫され、憲紀は堪えるように熱い吐息を零した。眉が寄せられ、表情が少し歪む。
憲紀の厳格で知的な印象を与える顔は普段とは異なり、男としての雰囲気を感じさせる。額から温い雫が滴り、頬を伝っていく。
「ふ、ぁ……っ」
堪らず、彼女の唇を奪う。荒々しく重ねられた口づけに、憲紀の余裕の無さが表れていた。彼女を抱く手に力を込める。憲紀の唇に触れられ、神楽の唇が濃い桜に色づいては濡れていく。
「あっ、やぁ……っ、あぁっ」
唇を解放し、彼女が善がる箇所を集中的に突けば、蕩けた声が耳を擽る。神楽は爪先を丸め、敷布を握っていた。快楽に耐えるにはそうするのだと、憲紀が教えたように。彼女の下肢が小刻みに跳ね、滴り溢れる蜜がその腿を伝う。
重なっている箇所から水音が奏でられていく。蜜が攪拌され泡のようになり、敷布を濡らす。衣が擦れる音さえ新たな刺激に変わるようだ。
「ひぁ……ぁ、憲紀っ、も……」
神楽の声を受けた憲紀は最奥を穿ち、緩やかに高みへと押し上げていく。見下ろせば、自分よりも細い身体が視界の全てに映った。この中に全て放ちたいと、身体が語りかける。それはまだできぬのに、身体は男としての本能に忠実だった。己にここまで貪欲な感情があったとは、神楽の存在がなければ知ることがなかっただろう。
熱い。戦う際の一種の昂りにも似た、言葉では形容できない感覚。身を焦がすような熱が、全身を支配する。神楽の吐息も、自分の吐息も、炎のように燃えていた。
感じる部分を執拗に突いていけば、もはや耐えきれないというかのように、神楽が一際大きな声を上げる。甘いその声に、憲紀も誘われた。
「あ、あぁぁ……っ」
「く、っ……」
神楽の身体が宙に跳ねた途端、彼女の中が戦慄き、憲紀のものを強く締めつける。それに呼応するように、憲紀はその整った顔を少し歪め、荒い息を零し、堪えながらも微かな声を上げた。
憲紀のものが小刻みに跳ね、薄い膜越しに熱を放つ。熱いものが放たれる感覚を、神楽は全身で受け止めていく。
「……あ、ぁ……」
底に感じる、薄いものを隔てたそれは燃えるように熱い。直接感じられずとも、全身が喜びを覚えているようで、神楽の中は物欲しそうに戦慄いて蜜を零す。初めて最後まで感じた憲紀の熱に、神楽の心が満たされていく。
大好きな許嫁の熱を感じながら果てるということは、何よりも心が満たされるのであると、神楽は身を以て実感する。
反対に憲紀の方は、熱を持て余していた。薄膜の中に放たれたものは本来、彼女を求めて向かいたがるものだ。しかし彼女の中には向かえず、それ以上の行き場が無く、虚しいようにその熱を持て余す。ただそれでも、彼女の熱く柔らかな中に包まれながら昂った熱を放出することには、普段とは違う満たされ方を覚えていた。
悦楽の波に流されている神楽は敷布を強く握り締め、着物に包まれたままの身体を震わせて耐えている。滴り溢れる蜜と、蠢く蜜壺に刺激を受け、憲紀は再び自身の質量が増していくことに気がついた。
甘い余韻に浸っている神楽の薄い腹に、柔らかく手を添える。高みから降りてこられない彼女は、その感触さえも甘やかな愛撫に感じてしまっているのか、身体を跳ねさせた。
この中に、己が挿入っている。こんなにも重いものをこの身で受け止めているのかと、言いようのない思いが込み上げた。
己が入っているであろう部分を、優しい指先と厚い掌がなぞるように撫で上げる。
「……いずれ――」
――いずれ、私達が夫婦となったら。
その続きの言葉は、声にはならなかった。
思いを馳せるように落とされた短な言葉は神楽には聞こえていたであろうが、憲紀の言葉に思考を巡らせる程の余裕など、今はあるわけもない。その証に、彼女はただ憲紀のことを見つめながら、「のりとし……?」と、たどたどしく名を呼ぶだけだ。
まだ理解しなくていい。そうして口づければ、華奢な身体が再び小さく震えた。
神楽が落ち着いたことを確認し、彼女の中からゆっくりと己を抜く。重みから解放された花弁が物惜しげに蠢いた。
憲紀は早々に、己を包み込んでいた薄膜を取り外して処理をする。昂りは雄々しく、全身にも余熱があり、未だ神楽のことを求めているようだが、彼女に無理を強いることは憲紀の意思から外れる。
体温を調節し、抑圧して鎮めていく。解かれていた帯を結び、普段と変わらぬ状態の装いに戻す。憲紀の熱を失った神楽は気怠さを感じているのか、そのままぼんやりとしていた。
「神楽」
名を呼び、彼女の傍に寄る。視線だけこちらに向けられるものの、彼女の瞳は揺らめいており、熱の余韻に浸っているようだった。熱で濡れた身体を布で拭い、乱れた着物を整えてやる。
背を掬い、優しく起こさせてやるものの、彼女はどうにも覚醒していない様子だ。その間に蜜で濡れた敷布を取り替え、清潔な状態にする。微睡みから抜け出したばかりのようにぼんやりとしている神楽は、ただただ憲紀の行動を見つめていた。
敷布を整えた後、再び神楽の傍に寄り、視線を合わせるように蹲む。
「憲紀……」
そうすると、神楽はまるで甘えるように胸に顔を埋めてくる。厚い布越しに、彼女の温もりを感じた。憲紀は既に体温を調節しており、柔らかな熱が巡っているが、彼女は未だ炎を宿している。それを受け、自ら鎮めた熱が再び引き起こされるようでもあった。
本来は身体を清めさせるべきなのだが、今の彼女は疲弊しているようだ。同じく呪術師である彼女は一般の者よりは体力があるものの、慣れない行為には疲労が蓄積されてしまうのだろう。
「もう眠るといい」
己の腕の中にいる彼女にそう言えば、柔らかな髪が左右に揺れる。首を横に振っているようだった。
「神楽?」
憲紀の言葉を拒否するような動作に意図を悟ることができず、聞き返す。
「……まだ、離れたくなくて……」
控えめに、くぐもった声で紡がれたそれに、一瞬だけ固まる。彼女は常に強い想いを抑圧しているからなのか、こういう際だけは妙に我儘になるようだ。憲紀の熱が恋しいというかのように、神楽はぎゅっと憲紀の厚い胸板に顔を押しつけた。
本来であれば窘める所ではあるが、この状況で彼女のことを否定する程、憲紀も冷酷ではない。状況によるとはいえ彼女の意思を汲んでしまうこともあるのだから、憲紀も大概許嫁に甘い所があるのだろう。
神楽の顔を両手で包み、顔を上げさせれば、自然と見上げられる形になる。憲紀のことを見上げる彼女の瞳は不安気に揺れていた。頭を撫でてやると、どこか嬉しそうに表情を綻ばせる。明かりを受けて煌く紫黒の髪が、憲紀の指の隙間からはらはらと落ちていく。
華奢な肩を抱きながら、彼女の顎を掬う。そして顔を寄せ、唇が重なった。心地の良い彼女の熱が唇から伝わってくる。
ゆっくりと離せば、神楽は名残惜しそうな表情を見せた。
「そういう顔をするのはあまり良くないよ」
少しだけ口元を緩めながら、柔らかく窘める。神楽は分かっていないようで不思議そうに見つめてくるが、意味を問うことはしてこなかった。
そんな風に惜しそうな表情をされると、今の憲紀は感情を揺さぶられてしまう。彼女を求めて、抑えている熱が暴れ出しそうになってしまう。彼女に責任を押しつけるつもりはないが、無垢な許嫁を再び抱いてしまいたいと、情熱的な思いが呼び起こされてしまうのだ。このように熱い感情が己の中にあるなど、憲紀は今まで知らずにいた。
昂る思いを強引に鎮め、神楽の身体を抱えて、褥の上に優しく横たわらせる。
「私は傍にいる。安心して眠ればいい」
それは、憲紀にしては優しい声だった。納得させるように告げれば、神楽は驚いた表情をするもののすぐに眉を下げ、嬉しそうに笑んだ。ありがとう、と微かで、しかし確かな声が憲紀の耳に届く。
憲紀のことを見つめる瞳は静かな海のように揺蕩う一方で、奥に焔を宿している。このような姿は、普段の彼女からは想像もできない。憲紀と同じように常に自分を律しており、その雰囲気と容姿から冷たいように見られがちな神楽は、実は他者よりも強い情熱を秘めている。それこそ、許嫁への恋情に身を焦がしていた。
ただ、それは、憲紀も同じで。
淡い桜の唇が、憲紀の名を呼ぶ。
「……おやすみなさい」
「あぁ」
おやすみ、と返し、瞳を閉じる彼女のことを見守る。
憲紀の存在が傍にあることに安心感を覚えているのか、すぐに夢の中に沈み込み、規則正しい寝息が聞こえ始めた。包むように毛布をかけてやり、彼女の穏やかな寝顔を見つめる。
傍で眠る存在に、憲紀の秘められた思いが呼び起こされていく。
――手放したくない。
そう、強く思った。
母とは違う形で、けれど同じように、大切な者。許嫁という深く重い契りから定められたこの関係は、いつしか憲紀の中で、義務とは違う意味も持ち始めていたのだ。愛おしい許嫁の存在を、己の意思で手放したくないと、強く思ってしまう程に。
――手放すつもりはない。これまでも、これからも。
冷静ながら、内に確かな情熱を秘め。まるで己と交わす契りの如く、心の中で唱えた。
柔らかな髪を優しい指先が撫ぜ、神楽の唇に、そっと己の唇を重ねる。
許嫁の熱を惜しいと思っているのは、身体ではなく、憲紀の心だった。
Back / TOP